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その少年は、街道をひた走るバスの中で独り言を垂れ流していた。
「何なんだよアアル島って。地図にも載ってないとか」
少年の名は天座秤。
身長172㎝、体重58㎏。やや細身の何処にでもいる高校一年生だが、それは見た目だけの話。
髪型が崩れていないかをやたらと気にしていたら、ある日女子からナルシスト認定されてしまった経験を持つ。それ以降髪はボサボサ、美容院にも行かず、適当に自分でカットしている。一人暮らしをしていたため自炊能力に秀でているのが唯一の取り柄だ。
彼が愚痴っているのには当然訳があった。
「唐突に転学とか言われて、素直に従う俺も俺だけどさ」
平凡な公立高校に通い始めたばかりの秤の下に届いた、母親からの大きな荷物。
大きめのダンボール箱には手紙も入っていて、
『秤、あんたアアル島のアアル学院に転学が決まったから。この手紙が届いてすぐの土曜日に港近くの旅館で一泊後、早朝四時の船に乗ること。入れておいたアアル学院の制服を着てれば乗せてくれる』
そんな取り留めの無いことが書かれていた。
秤はすぐに通っている高校に連絡を入れてみたが、天座秤という生徒自体が抹消されているかのように扱われ、母親の手紙に書かれた内容がタチの悪い冗談ではないことが分かった。
「おまけに、最後のあれは何だよ」
『PS 一緒に入れておいた体重計は必ず持参するように』
訳も分からずに持って行くにはあまりにもかさばる荷物だった。
体脂肪率やBMI(ボディマス指数)を計れる体重計が当たり前になった昨今、こんな重くてかさばるアナログ体重計を持っていくことに何の意味があるのだろうか。
大きな目盛りが付いているタイプのこのアナログ体重計は、今はもう古い銭湯くらいにしか置かれていない。
「日本語は通じるし、ここは日本だよな? というか日本であってくれ。じゃないと不法入国になっちまう」
深い霧が立ちこめる中、船長さんは学生服に体重計を抱えた怪しい秤を見つけるや否や、強引に漁船に乗せようとした。このまま外国に売られるのではと秤は本気で恐怖したが、何とかこうして五体満足のままアアル島に到着することができた。
寝不足に精神的疲労も相俟ってフラフラだった秤が、着いて早々ガイドと名乗る女性に歩かされ、休む暇も無くバスに乗せられたのがついさっきの出来事である。
「いかがですか? アアル島の景色は」
「あー……まあ、綺麗なんじゃないですかね」
窓ガラスの外にはそんじょそこらではお目にかかれない絶景が広がっているが、生憎そんな景色よりも気になることが山ほどあり、とても観光気分に浸れる余裕など無かった。
秤が乗せられたこのバスにしてもそうだ。
ボタンも無ければバス停の路線図すら何処にも無く、それでいてやたらとスピードが出ているので、未だにこれはバスなのかと疑いたくなってくる。
「このバスって何処に向かってるんですか?」
「アアル学院です」
「それは俺が着てる制服を見て言ってるんですか? それとも、最初から俺を案内することが決まっていたんですか?」
「何か詮索されているようですが、私は港に辿り着いた方をご案内しているだけです」
「はぁ、そうですか」
ガイドと名乗った割に、彼女は島のことを全くと言って良いほど説明してくれない。
そもそも、アアル学院がどんな学校なのかすら秤には分からないのだ。知っていることよりも知らないことの方が多いこの状況は、母親のお腹から生まれた直後の赤ん坊に似ているかもしれない。秤の場合、母親が居たところで安心などできないのだが。
しばらくの間沈黙に耐えていると、急に外の景色が変わった。
漁業が盛んな港の風景はなりを潜め、今は全く舗装されていない林道を走っている。ほぼ車一台分の道幅しかないため完全に一方通行だ。
「こんな森林の中に、学校なんてあるんですか?」
「もうアアル学院の敷地内に入っていますよ」
「まだ辺り一面木一色ですけど」
「島の半分以上がアアル学院ですから」
「……ちなみに、この島ってどれくらい大きいんですか?」
「アアル島の面積は854平方㎞です。内、538平方㎞がアアル学院の敷地となっております。五つの校舎に守られるような形で存在する中央居住区には、アアル学院の関係者が暮らしています」
明確な数字を言われても地理が苦手な秤はいまいちピンと来なかったが、アアル学院がとてつもない広さを誇る学校だということは理解できた。
同時にわき上がるのは、アアル島そのものについての謎だ。
日本だけでも秤が知らない島は数え切れないほどあるだろうが、人が住んでいて地図に載っていない島というのは常識的に考えられない。
「何でアアル島って地図に載ってないんですか?」
「さあ?」
「いや、さあって」
ガイドにあるまじき台詞に思わず呆れてしまう。
「私はここで生まれてから島外に出たことはありませんので。外から見てこの島がどう映るかなどという知識は不要なんです」
「でも島のほとんどが学校だなんて他にないでしょう。観光客にはどう説明してるんですか?」
「来ません」
「え?」
ハッキリとした口調だったにも拘らず、秤はつい聞き返してしまった。
「アアル島に観光客が訪れることはありません。ここは外と隔絶された島ですから」
ガイドさんはさも当たり前のように言う。
どうやら秤の常識とガイドさんの常識には明確な差異があるようだ。
秤が少し攻めるように質問したことでガイドさんの機嫌を損ねてしまったのか、それ以降二人の間に会話が生まれることは無かった。
ようやくガイドさんが口を開いたのは、無意味に蛇行する林道をたっぷり三十分近く走った頃だった。
「見えてきましたね」
声に釣られてフロントガラスに目を向けると、遠くに校舎と思われる建物の屋上部分が見えてきた。道も途中で綺麗に開けていて、あそこが林道の終着点であることは間違いないだろう。
「あれが校舎ですか?」
「はい。校舎の『一部』です」
近付くにつれ段々とその建物の全貌が明らかになっていく。
「……高級ホテル?」
「ここは幼等部です」
「幼等――って幼稚園!? ここが!?」
「幼等部の校舎には保護者の家族が三年間暮らすための居住スペースがあるので、その分広く作られています。園児達の様子は、二十四時間リアルタイムで保護者がモニタリングできるようになっています」
幼稚園児には明らかに分不相応だが、一応それなりの理由があるようだ。
「ちょっと過保護過ぎる気が」という秤の苦言は完全にスルーされ、バスは幼等部の校舎の隣にある、地下鉄の入り口のような所から地下に潜ってしまう。
「何でわざわざ地下に? 道、ありましたけど」
「あれは車が通る道ではありません」
「はい?」
道路というのは基本、車が通るために作られるものだが、このバス以外に車は見かけなかった。そういえば駐車場も目にしていない。保護者が住んでいるのなら、駐車スペースくらい確保していそうなものなのに。
「車じゃなきゃ何が通るんですか?」
「それはすぐに分かりますよ」
そう言って結局ガイドさんは口を閉ざしてしまった。
地下に張り巡らされた通路をバスで移動すること十五分。やっと地上に上がれそうな道が見えてくる。
「って、あれ?」
秤の期待は分かれ道を素通りするという形で裏切られた。
名残惜しそうに後ろを見ていると、ガイドさんが少し意地悪な笑みを浮かべて疑問に答えてくれた。
「あそこから上がると初等部の校舎に出ます。小学生に興味がお有りですか?」
「子供は好きですけど、それ以上に初等部の校舎が気になりますね」
秤もお返しとばかりにスルーして質問をする。
「初等部には保護者が住む居住スペースはありませんが、幼等部の倍の生徒が通っているため広さはあまり変わりません。ですが敷地面積だけで言えば、グラウンドがあるので幼等部よりも一回り広くなっています」
「一回り……」
あの幼等部の校舎よりも更に一回り広い……秤には全く想像できなかった。少し前まで平凡な公立高校に通っていた秤では無理もないのだが。
(……平凡なりに良いところもあったのにな)
改めて、勝手に転学を決められた怒りがこみ上げてくる。
しかし駄々をこねたところで元の学校に戻れる訳でもない。今の秤がすべきことは、一刻も早く新しい環境に慣れ、学友を作ることだ。
(それだけじゃない。良い大学行くには勉強だってちゃんとしないと……って)
重大な事実に気付き慌ててガイドさんに尋ねてみる。
「俺高一なんでまだ気が早いかもですけど。島のほとんどがアアル学院って言ってましたが、大学ってあるんですか?」
「はい。アアル学院は幼小中高大一貫校ですから。エスカレーター式です」
「大学まで……校舎が五つってそういうことだったんですね。エスカレーター式ってことは、そこまで根詰めて勉強しなくても良いのかな」
「一応進級試験はありますが」
「……、」
決して良いとは言えない自分の成績を省みて、秤はより一層不安になった。しかも秤の微妙な成績というのは、平凡な公立中学、高校レベルのものだ。外と隔絶された島にあるとはいえ、アアル学院はアアル島の半分以上を占める巨大な学校。当然、学力レベルも他とは一線を画すだろう。
「ああ、そんなに悩む必要はありませんよ。進級試験というのは、いわゆる学力テストのようなものとは違いますから」
ガイドさんは補足説明をしてくれたが、それはそれで不安になる。
「? 学力以外に何をテストするんです?」
「それは選択次第です」
やっぱり詳しくは教えてくれないガイドさんだった。
一体どれほどの地下通路が広がっているのか。
中等部への分かれ道を素通りした後も気が遠くなる距離をバスで走っていたが、ついに高等部へと繫がる道が見えた。
そして今度こそバスは地上に向かって方向転換する。
薄暗い地下道に差し込む日の光が秤の視界を一時的に奪う。
眩しさに耐えかねて両目を二の腕で塞いでいる間、秤の体が停車の反動でバスの車体ごと揺さぶられた。目的地に着いたようだ。
「ここがあなたの通う高等部の校舎です」
「―――」
地上に戻った秤が味わったのは、閉塞された地下空間からの解放感だけではなかった。
同時に見たもの。
それは。
秋のトンボのように天を駆ける、アアル学院の生徒達だった。
「とりあえず職員室に案内します。付いてきて下さい」
「いやいやいやいや!! これをスルーとかあり得ないでしょ!? ガイド仕事しろ!!」
慌てて頭上の異常事態を指さす秤。
スノーボードのようなものに乗って空中を飛び回る女生徒がいれば、バイクのような形の乗り物で空を飛ぶ男子生徒もいる。
地上に目を移してみれば、地面ギリギリを滑空しながら会話を交わす生徒達までいる始末。総じて秤の常識では考えられない光景だった。
「今は丁度休み時間ですからね。別に授業をサボっている訳ではありませんよ?」
「そこ!? そんなことはどうでもよくて! あれは何ですか! あの空飛んでる奴!! 目の錯覚じゃないですよね!?」
「あなたも持っているじゃないですか」
「は?」
「体重計ですよ」
「……、?」
秤は両手を広げてホワイ? とジェスチャーで返した。
何がどうなったら体重計が空を飛ぶというのだ。
もしかしたら数千年、数万年後にはそのような乗り物が当たり前になっているかもしれないが、それでも体重計を飛ばすことはないだろう。車や自転車を飛べるようにする方がきっと便利だし、何より夢がある。
「いつまで乗っているつもりですか? 早く降りて下さい」
「はっ」
秤が呆けている間にガイドさんはバスから降りていた。
すぐに重たい体重計を担いで後を追い、秤もバスから降りる。
改めて新しい我が学舎を見上げると、醜い心を見透かされてしまいそうな純白の外観をした校舎が秤の視線を釘付けにした。
圧巻だったのはその広さだ。高等部は三年しかない上、保護者が住む居住スペースも当然必要無い。なので幼等部、初等部に比べれば比較的コンパクトに収まっていると想像していたのだが……。
「グラウンドは校舎の向こう側ですか?」
「はい。あっ」
ガイドさんが、秤の頭上を見て素っ頓狂な声を上げた直後だった。
「? ――うっ!!」
何事かと見上げようとした瞬間、とても固い物が秤の脳天を直撃した。