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「待って。もう少し心の準備を」
「雨がいよいよもって本降りらしいよ?」
「それはもう聞いた!」
天座秤を招くと決めて、寮に戻ってから数刻。
楓は一向に行動を起こそうとしなかった。そのせいで夕飯は遅れているし、過剰なストレスからお菓子も食べまくっている。いくら楓が優秀であっても、組み合わせ次第では明日のレースの勝利はなくなる。
こうも体重を気にせずに過ごしている彼女を見るのは初めてのことだ。
「そんなに気構えるほどのことかなぁ」
「男子と話し慣れてるあんたとは違うの!」
「それと部屋に呼ぶのとはまた違うと思うけど」
焔は不特定多数の男子と会話をするのが得意な訳ではない。
不特定多数の男子からのアプローチを受け流すのが得意なのだ。
特定の男子一人を部屋に招くというのは、焔にとっても由々しき事態なのである。こうして焔が冷静でいられるのは、目の前で可愛く追い詰められているパートナーあってこそである。
(ちょっと楽しみにしてたんだけどな)
保健室で初めて男子にしてやられた焔は、悪い意味で彼を特別視していた。どう仕返ししてくれようかと色んなことを考えていたら、流れでこんなことになってしまった。
楓が思いの外秤を気に入っている様子なのも意外だった。
男子に囲まれる焔と違って、彼女はいつも女子に囲まれている。そのため当然のようにそっちの噂が絶えなかった。『一緒に暮らしている』身としては一安心である。
「うぅ……まずは何て言えば……。『よかったら私達の部屋に来る?』……駄目。なんか軽い感じがする。『あんたがどうしてもって言うなら泊めてあげても良いけどぉ?』……違う、あたしそんな嫌な子じゃない」
「第一声からシミュレーションって、さすがに見てて痛々しいよ?」
「じゃああんたが行ってよ! あたしこういうの苦手だし!」
「私が行っても秤さんは来てくれないよ。何故か嫌われちゃってるみたいだし」
「何故って、そういう風に振る舞ったのはあんたじゃないの」
「私は悪くないよ。作り笑顔を浮かべていれば、男の子は喜んでくれるはずだもん」
「最低過ぎる!」
別段焔は、悪意を持って秤にあのような態度を取っていた訳ではない。ただ単純に今までの経験を踏まえて、彼が(男子が)喜ぶと思っての言動だった。
むしろ好意を踏みにじられたとすら感じていたのだが。
「焔の周りにいる男子の反応に慣れちゃってたけど、秤君の反応が普通だと思う」
「そうなの? じゃあ、悪いのは私?」
「今更!?」
「そっか。なら謝らないとね」
朝の件もあって秤については楓に一任するつもりだったが、自分に非があるとなると話は変わってくる。傍観者として二人を見守るだけというのはあまりにも薄情だ。
「私も一緒に行くよ」
「ほ、本当!?」
「でも普通に誘うだけじゃ来てくれないよね。電家先生の誘いを断って野宿を選ぶ男の子だし」
「やっぱりそう思う?」
「また気絶させてその間に、とか」
「却下!」
ばっさりと否定されて焔は少しだけ頬を膨らませ、
「……じゃあ文字通り誘うしかないね」
「だからそれを話し合ってるんじゃない」
溜息混じりに悩み続ける楓を置いて、焔は立ち上がった。そしてすぐに自分の就寝スペースへと向かい、クローゼットをゴソゴソと漁り始める。
「んー……」
「唐突に何してるの?」
「勿論、秤さんを誘うための準備」
「ど、鈍器は駄目よ!」
「そうじゃなくてぇ……あ、これなんてどうかな」
そう言って焔が広げて見せたのは、セクシーを通り越したアレな下着だった。
「す、透け!?」
「もっと際どい方が良い?」
「それより際どいってどんなエロ下着よ! 誘うってそういう意味だったの!? というかそんなエッチなの何処で……!!」
「ブティック、ババイで」
「嘘よ! 一度しか行ったことないけど、そんなエッチなの売ってなかった!」
楓はやたらと焦った様子で詰め寄ってくる。
これは彼女の負けず嫌い根性からくる行動だ。
今までにも焔が新しい装飾品やメイク道具を買ったりすると、度々張り合ってくることがあった。
とはいえ楓は真似することが大嫌いなので、それらの対抗心は全て風夢に向けられる。
その結果、楓の風夢は無理矢理可愛い服を着せられた子犬のように可哀想なことになっている。
「ババイの奥には小さなランジェリーショップがあるの。常連にならないとそっちには通してくれないけどね。まあ楓ちゃんは古着屋で全部済ませてるし、仕方ないよぉ」
「どうせ私にはブランド品なんて似合わないわよ!」
「拗ねないでよぉ。……でも困ったな。楓ちゃんはこういうの持ってないよね」
「誘惑するのは決定なの?」
「他に代案があるの?」
焔のもっともな問いにグッと押し黙ってしまう楓。
「決まりだね。ならこれは楓ちゃんが着て」
「えっ!?」
楓は差し出された下着を見て硬直してしまった。
この下着を身につけた自分でも想像しているのだろうか。異様に顔が赤い。
「ちょっと、レベルが高い、かも」
「ならこっちにする?」
続けて焔が見せたのは、もはや下着と言えるものではなかった。
一言で言えば、布が足りない。焔自身も何故こんな下着を買ったのか覚えていないくらいだ。
「これを穿くくらいなら裸の方がマシよ!」
「なら、早速この上にレインコート着て行こう。懐中電灯も」
その後、下着を着用するだけで二十分ほどの時間を要したが、どうにか二人は準備を整えることができた。時間が掛かった主な理由は楓のチキンハートだ。
トイレで雨宿りができるとはいえ、雨の中一人きりでいる秤を想像すると流石の焔も気持ちが焦ってしまい、痺れを切らして焔が強引に楓を着替えさせた。
目尻に涙を浮かべていたような気もするが、まあ見なかったことにしよう。
「ほ、本当にこの格好で行くの? 下着の上にレインコートって、完全に露出狂の出で立ちじゃない。いくら雨降ってるからって」
『そんなことはありませんわ。とってもお似合いですことよ』
楓の風夢が悪意のあるフォローを入れる。
「んなこと言われても嬉しくないわよ!! というかレースのとき以外は喋るなって言ってあるでしょ。ったく、こんなに可愛くしてあげてるってのに」
「それが問題なんだと思うよ?」
『だーよねー。相変わらず頭のネジ飛んでるわー』
「あ、あんたら……!!」
焔の風夢にまで罵倒され、いよいよもって楓は怒りに震え始めたが、。これ以上先延ばしにすると秤がふやけてしまう。
焔はやむなく楓の手を取って、強引に部屋の窓まで連れて行った。
「さ、行くよ?」
「自分で歩くってば! ちょ、裾が! ボタンが!!」
モジモジと体をよじらせている楓の姿が焔の嗜虐心を大いに刺激する。
もっとも、今回ばかりはそこまで気が回らなかった。レインコートの下が大変なことになっているのは楓だけではない。むしろ楓よりも凄いことになっている。
(楓ちゃんがいてよかった……)
二人は部屋の窓から、風夢に乗ってゆっくりと下降した。
実は二人が暮らしている部屋は女子寮の最上階に位置し、それなりの高さがある。高空飛行が苦手な焔は不安だったのだが、風夢の扱いに長けている楓が縮こまって下りていくのを見ていたら不思議とすんなり下りることができた。
「誰にも会いませんように……誰にも会いませんように……」
「大丈夫だよ。楓ちゃんのチキンハートのお陰で屋台はもう閉まってるはずだし、この時間は生徒の出入りだって禁止だもん。私達みたいに校則破る生徒なんていないよ」
「それは分かってるんだけど。どうも嫌な予感がするのよね」
楓は不安そうに顔をしかめるが、それは特別なことではない。
下着の上に直にレインコートを着て校則を破り、男子生徒を誘惑しに行く。
嫌な予感がするのは至極当然だ。
静まりかえった商店街に二人の女生徒の息づかいが響く。
寮の近くであればまだ明るいのだが、奥へ進むにつれて光の届かない海底のような暗闇に視界を奪われてしまう。そのため安全に移動するには懐中電灯が必須だった。
ところがその懐中電灯が使えない事態が発生した。
「ど、どうすんの!」
「しっ。こっちに固まってやり過ごすしかないよ」
小声で会話を交わす二人。
真っ暗なはずの商店街に、一筋の光がうねうねと蠢いている。
見回りの先生だ。
「「……」」
見えずとも楓の緊張が伝わってくる。こんなところで見つかってしまっては、停学処分になる恐れもある。それくらいにアアル学院は時間に厳しい。
特に、楓がそんな処分を受けることになるのは前代未聞だ。
「っ。もう一人来たっ」
男子寮の方からも光が近付いてくる。
見回りをしていた二人の先生は、丁度屋台の辺りで合流して何やら話し込み始めた。早く行ってくれと願うばかりだが、一向に先生達は動こうとしない。
「何話してるんだろ。こんな所で世間話?」
「問題でも発生したのかな」
焔がそう思ったのは、先生達の声色に焦りを感じたからだ。床に当てられた懐中電灯の光では彼等の表情までは窺えないが、両腕の影が忙しなく動いているのはハッキリと見えている。
数分が経って、ようやく先生達は出口に向かって走り出した。
慌ただしく去って行ったのが気になるが、いつまた見回りの先生がやってくるか分からない。迅速に行動するべきだ。
「楓ちゃん、行くよ?」
「う、うん」
屋台を乗り越えて奥の扉に手を掛ける。
この時間帯の正面出口は完全に閉められていて通れるのも先生だけだが、ここは普段から屋台によって阻まれているため鍵が掛かっていない。生徒が唯一外に出られるルートがこの通路なのだ。
「ここ通るのは去年のお祭り以来だっけ。去年は中等部だったけど」
「あのときは人が集まりすぎて大渋滞してたよねぇ」
奥にある螺旋階段を風夢で上るのは難しいので、階段からは歩いて上らなければならず、必然的に後がつかえることになる。
そこで問題になるのがアアル島の住人特有の体質――足腰の貧弱さだ。
移動に風夢を多用するため、下半身の筋肉があまり発達していないのである。
日々の綿密な体重管理において、筋力トレーニングというのは邪魔なのだ。毎日の新陳代謝と摂取カロリーを計算して理想体重に近づけるだけでも大変なのに、日々の微細な筋力の増加までを計算に入れられる生徒は中々いない。
それは成績優秀な楓であっても同じであり、地上まで続く螺旋階段は鬼門と言えた。
「もう駄目……焔ぁ……」
半分ほど上ったところで、早々と楓が音を上げた。
「なに?」
「おんぶ」
「……小学生の頃とは違うんだよ?」
今の楓の姿を見たら、彼女に憧れを抱いている女子達はどんな感想を述べるだろう。昔から体力だけは焔の方が上だったので、風夢を使わない場面ではやたらと甘えん坊になる。焔だけが知っている、楓の秘密の一つだ。
「「はぁ……。はぁ……」」
荒い息づかいだけが聞こえるようになった頃。
突然、校内放送の前奏が鳴り響いた。
「な、何?」
「もしかして、ばれちゃったのかな?」
「うそ!?」
楓の絶望感漂う表情が懐中電灯に照らされて、焔は場を弁えず吹き出してしまうところだったが、その余裕もすぐに消え失せることになった。
『現在、敷地内を露出狂が徘徊しています。極力自分の部屋から外に出ないよう注意して下さい。繰り返します。現在――』
そんなトンデモ情報を放り込んで高等部の校内放送は終わった。
同時に。
楓と焔の二人は人生の終わりを予感していた。
「い、いいい、今、今の」
「おち、おちちゅ、おちちゅいて!」
「これがおちちゅいてられる!? 私達変態になっちゃったのよ!」
「で、でも……待って。私達の姿は誰にも見られてない筈だもん。やっぱり変だよ」
「じゃあ何? あたし達以外に露出狂がいるっての!? エロ下着の上にレインコート着たあたし達よりも露出狂っぽい人がいるって!?」
「だよねぇ」
同意せざるを得なかった。
だがここで立ち止まっていても事態は好転しない。今は当初の目的通り秤の下に赴いて、一刻も早く部屋に戻るべきだ。
「急いで秤さんの所に行こう」
「えぇ!? も、もうそんな場合じゃないんじゃ」
「後少しで地上だよ? せっかく恥ずかしい思いしてここまで来たのに、何もせずに戻るなんて間抜けすぎるよ」
「けど……」
「まあ、それは見つかっても同じことだけどねっ」
「~~~!! 分かったわよ! とにかく動けってことでしょ」
棒になった足を奮い立たせた楓は、今までの疲労が嘘のように階段を駆け上がった。焔も置いて行かれないように急いで後を追う。
「冷たっ」
「まだ随分降ってるね。傘も持ってくればよかったかな」
地上に出た二人は早速フードを被り、それぞれが手に持った風夢に乗る。
向かう先は唯一屋根があるトイレだ。
楓は持ちうる限りの全力で飛び、あっという間にトイレへと辿り着いた。
こればかりは焔も真似できない。
慌てず騒がず自分のペースで付いていく。
「ひ」
「?」
男子トイレを覗き込んだ楓の様子がおかしい。
そして、次の瞬間。
「ひゃああああああああああああああああああああ――――――――!!」
甲高い悲鳴が雨音に紛れて公園中に響き渡る。
それはパートナーである焔も耳にしたことのない、とても可愛らしい声だった。




