500
屋上に行くと誰もいなかった。
尾乃町中央高校の屋上は生徒に解放されている。それでも屋上に行く生徒は殆ど居ないと後藤君が教えてくれた。
理由を聞くと窓の外を親指でさしていた。
校舎の窓からは尾乃町や瀬戸内海の島々が一望でき、態々屋上に行く必要が無いと言う事なのだろう。
「あれ? 校舎を間違えたかな」
「何で、ミシェルである事を隠す」
頭上から声がして黒い影がフワリと舞い降りてくる。どうやら屋上の出入り口の上に居たらしい。
「女の子が危ないよ。それにスカートじゃ見えちゃうよ」
「で、何色だ」
「白?」
思わず答えてしまった。
自分自身がしている事なのに不思議な感覚だ、彼女に聞かれると不思議な事に即答してしまう。
普段なら即答などせず一拍おいてから答えを選んで答えるのに。
聞いてきたから答えただけなのに彼女は凄い形相で僕の胸倉を掴み上げている、理不尽だ。
「あのね、不可抗力って言葉を知っている? 目の前でスカートが捲れ上がれば嫌でも見えちゃうでしょ」
「嫌なのか?」
「嫌な訳はないか。一応、僕も男だし不可侵の領域に興味が無い訳じゃないって。そんな事で僕を呼び出したの?」
「違う。貴様がミシェルなのか」
「そうだね、ここなら誰も居ないからきちんと答えるよ」
メガネを外して彼女の顔を見ると彼女が手を放し解放してくれた。
「僕がミシェルだよ。モデルとしての名前だけどね」
「なぜ隠す」
「僕は僕だからかな。世間はミシェルに対して勝手にイメージを作り上げ人気者として扱ってきた。大人の優しい男性と言うのが大雑把なイメージかな。そんな男が実は高校生だなんてばれたら大変でしょ。それに契約で素顔を明かすのを禁じられていたしね。今は契約も解除して縛られる事もないけれどミシェルの認知度は高いからね、騒がれるのが嫌なだけだよ。だから誰にも言わないで欲しいな」
「交換条件として質問に答えろ」
「良いよ。僕が答えられる範囲でね」
彼女は昼休みに他の生徒に僕の情報を聞いて回ったらしい。
でも、それには情報が少なすぎると言うか。僕自身も転校してきたのは昨日だから他の生徒が知っている筈もない。
転校生って事くらいでね。
彼女は僕の幼い頃の事を聞いてきたが記憶が無いとしか答えられなかった。
いつ頃まで尾乃町に居たのか。
尾乃町に居た頃に彼女に出会った事は無いのか。
何故、尾乃町を離れたのか。
尾乃町を離れたのは多分両親の都合で、彼女に幼い頃に出会った覚えがない無いと言うか記憶自体がない。
それよりも彼女が明日香と鉢合わせしなくてよかったと思った瞬間に屋上のドアが吹き飛ぶくらいの勢いで開いて、明日香が屋上に駆け込んできた。
「未来、こんな女と何をしているの?」
「別に、話をしているだけだよ」
「何もされなかった?」
「何を訳が分からない事を明日香は言っているの?」
明日香の慌てぷりは尋常じゃない、まるで何かに怯えているかのようだった。
「あんたなんかに未来は渡さない。黒き者は消え失せろ!」
「明日香、どうしたの?」
僕の手を掴むと明日香は屋上のドアに向かって歩き始めると無意識に明日香の手を振りほどいていた。
「未来……」
「明日香は変だよ。明日香は彼女の何を知っているの? 黒き者って何? 僕に判るように説明してよ」
「ゴメン、今は言えない」
「それじゃ、時期が来たらちゃんと説明してくれる?」
「う、うん。約束する」
勢いに呑まれてはいけない。こんな状況の時ほど冷静に対処して言葉を選んで話さないといけない。
それは子どもの頃から教え込まれた事だった。いかなる時も冷静に対処しないと命に係わる、そんな状況下で暮らしていたこともある。
秘境なんて言葉は良いが常に危険と隣り合わせなのは世界ではどこに行っても共通の認識で、言葉は悪いけれど平和ボケした日本では決して感じ取ることができないだろう。
僕が手を振りほどいた事に動揺して揺れていた明日香の瞳が落ち着きを取り戻していく。
「ごめんなさい、コーダさん」
「私は別に構わない」
少しずつ僕が望んでいる平凡な暮らしから外れていっている様な気がする。
両親の都合があったとは言え、ここで暮らしていくと決めたのは自分自身だ。
チャイムが聞こえ教室に戻る時間になってしまったようだ。
明日香は気落ちしたのかピンと張り詰めていたものが切れてしまったのか、放課後になっても顔を出すようなことはなかった。
気にはなるけどお隣さんなんだし様子を見に行くことはいつでもできる。
コーダと呼ばれる彼女は教室に戻ると相変わらずでクラスから浮いていた。
全ての授業が終わり、今日はゆっくりと520モメントタムで坂道を転がしながら下りていく。
流石に尾乃町仕様にカスタムしてあっても毎日の様に階段を駆け下りたりすればフレームやタイヤが持たないだろう。
家に戻ると今日子さんは居なかった。買い物にでも出かけているのだろう。
リビングのソファーにカバンを投げてキッチンに向かい、冷蔵庫に常備してある冷えた麦茶をグラスに注ぎ一気に喉に流し込む。
「冷たい!」
グラスをテーブルに置いてソファーに体を沈める。
僕の知らない場所で何か大きなものが動いている様な気がする。でも、それは世界で起きている事を考えれば普通の感覚なのかもしれない。
夢をみた。
記憶にないはずの幼いころの夢だった。
潮の香りのする公園で小さな女の子がしゃがみ込んで泣いている。
数人の男の子が女の子の格好を馬鹿にして囃し立てていた。
「だっせ! 男が大勢で女の子をいじめて」
「うるせーな。お前に関係ないだろ」
僕が馬鹿にしたように声を上げると男の子のリーダーが向かってきた。
「格好悪いな。男が弱い者いじめかよ」
「格好つけんな、行こうぜ」
睨みつけると男の子達はどこかに逃げてしまった。
「大丈夫?」
「うん、ありがとう。私の格好が変だって」
「そうかな、よく似合ってて全然変じゃないよ」
「本当?」
「うん」
「私、リコッタ。あなたは?」
「僕は、あれ、汚れちゃってる」
女の子の顔はよく見えなかったが確かに満面の笑顔だった。
小さな手で土を払う黒いワンピースの裾から真っ白なパニエが覗いていた。
いつの間にか眠っていたようだ。尾乃町に来てからよく眠れるというか絶えず眠たい気がする。
それは日本が平和だからなのかもしれない。
それに海外に居た時も時間さえあれば眠っていた。それは何かあった時の為の貯金の様な物で、それが体に染み付いてしまっているからかもしれない。
でも、東京にいる時はこんな感覚になった事はなかった。
ベッドから這い出て下の洗面所に向かう。
下に降りるとキッチンから今日子さんのハミングが聞こえ良い匂いが漂ってくる。晩御飯はシチューか何かだろう。
洗面所はバスルームの脱衣所にありバスルームのドアが開いていて湯気が溢れていて。
「尻尾?」
腹部に強烈な一撃を撃ち込まれ。更にそのまま後ろに吹き飛ばされ廊下の壁に背中を強打した。
薄れゆく意識のなかで金色の濡れ髪に白い肌で形の良い胸と黒い矢印の様な尻尾が見えた。
「未来くん。未来くん。大丈夫?」
「ん~」
今日子さんの不安そうな声が聞こえゆっくりと目を開く。
「大丈夫よね」
「まぁ、何とか。親父達に武道を叩き込まれてなかったら内臓が逝ってたかも」
「ごめんなさい」
「今日子さんが謝ることは……」
嫌な予感がして飛び起きると未だ腹部に痛みが走り屈みこんでしまい、痛みを堪えて顔を上げるとそこには彼女が居た。
金色に縁取りされている黒いジャージに金髪で紫色の瞳を細めて睨み付けている。まるでヤンキーにしか見えない。
「な、何で彼女がここに?」
「コーダさんも今日からここに下宿するの」
「で、何も知らない僕が事故を起こしてしまったと。事故にしたって非は僕にあるんだし。ゴメン。本当に申し訳ない」
深々と頭を下げる事しか出来ない。何故なら見なかった事には出来ないのだから。
「私からも2人に謝るわ。ごめんなさいね、私が至らないばっかりに」
「別に気にしない。見られて困る様な物は無い」
「僕も怪我しなかったし。向井未来です。改めて宜しくね」
誰が悪い訳ではないのだろう。そんな事よりあの悪魔の尻尾は目の錯覚だったのだろうか?
夕食はビーフシチューかと思ったらサフランライスとビーフストロガノフだった。
それと真っ赤なサラダとスープで……
「今日子さん、この赤いのってなに?」
「ビーツを使ったヴィネグレットと言うサラダよ。スープがタタール風ラプシャと言うパスタ入りスープだけど」
「へぇ、ロシア料理ですか。美味しいですね」
ロシア料理と言われて思い浮かぶのがボルシチとピロシキくらいだろう。郷土料理からロシア料理まで今日子さんなら世界中の料理が作れそうだと思えてくる。
その上、こんなに料理が上手く可愛いのに独り身だなんて信じられない。
彼女は黙々と今日子さんの料理を食べている。さっきの件で機嫌が悪いのか、それとも愛想のない性格なのか僕には判らない。