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翌朝、目覚ましより早く目が覚めてしまった。
自分では気づかないけれど疲れていてその所為で熟睡したからかもしれない。
ベッドから出てカーテンを開けると目の前には日が差し始めた瀬戸内海を早朝にもかかわらず船が行き来している。
交通の要所でこの辺りは小島が多く潮流が複雑で早く、難所の所が多いと教わったことがある。
破天荒で自由奔放な両親だったけれど勉強の面では厳しく、そして何故かきちんとしていた。
「ん! ん~気持ちいいな」
ベランダに出て思わず全身で伸びをして全身で澄んだ空気を吸い込む。東京ではこうはいかない。
早朝は車の通りも少ないとはいえ全身で空気を吸い込むような事はなるべくしたくない、たとえ有名知事が排ガス規制をしても。
まぁ、都下に行けばそんな事もないのだろうけれど僕が暮らしていたのは都心だった。
「ああ、未来だ!」
不意に呼び捨てにされて声のする方を見ると隣の大きな家のベランダにショートカットでピンクのパジャマを着た女の子が身を乗り出しながら指をさしている。
あれが今日子さんの言っていた天野さんちの明日香ちゃんなのだろうか。
そんな事を考えていると彼女がドタバタと朝からもの凄い音を立てながら部屋に駆け込んでいく姿が目に入った。
「未来君、起きてる? 朝ご飯よ」
「はーい」
下から今日子さんの呼ぶ声がしてとりあえず顔だけ洗って急いで下に降りた。
「おはよー、今日子さん……」
「おはよう、未来君」
「おす、未来」
「今日子さん、誰?」
僕の推測だと幼馴染だと今日子さんが言っていたお隣の天野明日香さんだと思うけれど、僕をベランダで呼び捨てにしたピンクのパジャマ姿の女の子がダイニングテーブルの椅子に座っている。
『誰?』と言う僕の今日子さんへの質問で女の子の顔は顔面蒼白になり、油が切れたロボットの様にぎこちない動きで女の子が今日子さんに目で訴えている。
「もう、昨日話したでしょ。お隣の幼馴染だった天野明日香ちゃんよ」
「初めまして、えっ?」
「もう、未来君は天然なの?」
女の子が燃え尽きたように真っ白になってダイニングテーブルに突っ伏している。
幼馴染だなんて言われても僕は覚えていないし違和感すら覚える。
それは嫌悪するほどではなく、何と言えば良いのだろう何か引っかかる物があるくらいな感じなのだけどそれが何なのかはっきりしない。
そして今、僕と女の子もとい天野さんは向日島に来た時の渡し船に乗って尾乃町に向かっている。
何故、こんな事になっているかと言うと朝食を食べていると今日子さんが明日香ちゃんに町を案内してもらえばなんて事を突然言い出し、彼女もそれに大喜びで同意して僕の意思なんて蚊帳の外だった。
言い出しっぺの今日子さんは今日子さんで隣町の逢入ノ町と上ノ町に用事があるからと朝食もそこそこに飛び出して行ってしまった。
今日子さんが出掛けてしまったので天野さんに案内を頼むしか選択肢がなく、1人でブラブラしてもと思っていてもそんな選択肢は許されるような雰囲気じゃなかった。
理由? それは今日子さんと同じように天野さんがいそいそと『着替えてくる』と自分の家に戻ってしまったから。
そして天野さんはシンプルな小花柄のワンピースを着て僕の前に現れた。
「本当に未来は何も憶えてないんだね」
「う、うん。両親に聞いた事くらいしかね。それですら聞いただけで自分の中にあるわけじゃないしね」
「でも、暮らしている間に思い出すかもしれないしね」
「そうだね、一応卒業までは日本にいられそうだしね」
「海外を転々とかぁ。憧れちゃうな」
「そんな良いもんじゃないよ。アメリカとかイギリスに留学なら格好もつくけど僕らが居たのは秘境なんて呼ばれちゃう様な場所が多かったからね。電気も水道もなくってキャンプ暮らしみたいなものだったし」
「凄いね。それでも凄いことだと思うよ」
短い会話なのにもう尾乃町の駅前が目の前に来ている。
それくらいの距離しかなく立派な橋も掛っているのに生活の足は、フェリーと言うにはあまりにも距離が短すぎ渡しとしか表現できない船に頼っている。
ちなみに僕らが乗っている船は原付までしか載せることができなくて、近くの乗り場から別の会社の渡しが出ていてそちらには車も載せることができる。
確か4系統の渡し船があったはずだ。
「どこから行こうか?」
「とりあえず、町をブラブラかな」
「了解。それと私の事を他人行儀に『天野さん』なんて呼ぶのは止めてよね。一応、幼馴染なんだからさ」
「努力します。明日香さん」
「もう、なんでさん付け?」
「自助努力します」
いきなり初めて出会った女の子を呼び捨てにはできない、幼馴染だと言われても僕からしてみれば初対面なわけだし、でも呼び捨てにしないと後々ね。
そんな明日香とアーケードの下を歩く。
山陽本線や国道2号線と並行するように商店街が立ち並んでいる。
観光の町としても有名なのでお土産屋も多いけれど、生活臭がする商店街が気に入ってしまった。
それに和洋折衷で新しい物と古い物が混在している。和洋折衷なのはここが港町として栄えただからだろう。
そして元々は銭湯だったり何かの組合だったり違う目的で使われていた古い建物が喫茶店や別のお店として生まれ変わっている。
そんなアーケードが海岸線まで迫った山の為に狭い平地に細長く作られていてアーケードを抜けるとロープウェー乗り場の案内が目に入った。
「お茶でもしよう?」
「あ、うん」
ロープウェー乗り場の近くに小さなカフェがあ、白い壁に黒い柱と屋根が印象的で入口の木でできた格子のドアが落ち着いた雰囲気を醸し出している。
店の横にはパラソル付のテーブルセットが置かれ外でも食べられるようになっているみたいだった。
店内も古い土蔵を思わせるような外観と同じ白い壁に黒い柱が印象的で、テーブルや天井も落ち着いたダークな色の木でできていてゆっくりくつろげそうだ。
彼女によればかなり人気のあるカフェらしい、連休も終盤と言うこともありお客はそれほど多くはなかった。
テーブルに座り注文をする。
「へぇ、ワッフルのお店なんだ」
「うん、あまり来ないけどね。今日は特別だよ」
「僕はアップルシナモンアイスワッフルとアイスティーで」
「私も今日は奮発しちゃぉ。チョコアーモンドアイスワッフルにホットがいいかな」
「それじゃそれでお願いします」
しばらくするとワッフルが運ばれてきて、焼き立てのワッフルに冷たいアイスがとても気に入った。
でも難点がおしゃべりをしていると折角の焼き立てのワッフルが解けたアイスでグダグダになってしまう。
ナイフとフォークを使って味わいながら急いで口に運ぶ。
「かなり美味しい。東京でもここまで美味しいお店はないかも」
「でしょ、でしょ。尾乃町一押しのお店だからね、九州や関西からも沢山の観光のお客さんが来るみたいだからね」
「へぇ、そうなんだ」
「そうだ、未来は海外で暮らしていたんでしょ。どんな物を食べていたの?」
「えっ、ああ。あまり聞かない方がいいかもよ」
「ええ、教えてよ」
正直に言えば躊躇ってしまう。
海外と言っても何度も言うように秘境と言ってもいいくらいの場所で。はっきり言えばサバイバル生活をしていたみたいなものだから。
もう一つ躊躇いが、不思議な事に朝感じた違和感が薄れていることに気付いた。
アイスティーに口をつけて切り出した。
「あまり聞かない方がいいと思うけどな、色々だよ。口に入る物なら何でもって感じ、自分達で調達してきた物も多かったし」
「例えば?」
「う~ん、魚とか小動物」
「普通じゃん」
「まぁ、聞いただけだとね。蛇やトカゲに蛙はどちらかというと鶏肉みたいだしね。あとは虫も食べたよ。土地によっては貴重なタンパク源だからね。普通に食べて美味しいのはワニとか大型のニシキヘビとかかな、淡泊で臭みも少ないし。何より大きいから小骨がないからね」
「うわぁ、グロイよ」
「グロイと言う点では東南アジアは凄かったよ、虫のオンパレードに犬からカブトガニまで。僕は食べなかったけどね。日本でも虫は食べるでしょ、イナゴとかザザムシとか。それに沖縄ではイルカを食べる地域もあるし北海道ではトドとか伊豆諸島のクサヤなんかも好き嫌いがはっきり分かれるしね。ナマコやタコだって海外から見れば十分ゲテモノだと思うよ」
「そう言えばそうだね。所変わればってやつだね」
究極はと言おうとして止めた。言うべきじゃないよね、やっぱり。
店を後にしてロープウェーに乗り山頂へと向かう。
神社の上を越え玉の岩が見えて本堂のすぐ脇をあがると山頂駅に着き、山頂には展望台があり公園になっている。
展望台からは尾乃町と尾乃町水道に向日島などの瀬戸内海の島々が一望できた。
「ここが千年寺山だよ」
「うわぁ、綺麗だな。あれが大橋?」
「そうよ。手前の新大橋が自動車専用で奥の大橋が歩行者と一応自転車も通れる橋になっているの」
「一応?」
「うん、自動車と自転車は大橋も有料だからね。それに歩道が狭いし風が強いと通行止めになるから渡しを使う人が殆どだもん」
「だから、あんなに渡しがあるんだね」
眼下には沢山の神社仏閣があるこの町が古寺の町と言われる由縁だ。
東西・九州と関西、南北・四国と本州を結ぶ重要な中継点として栄え。そして古の時代より新しい文化は九州から上陸し瀬戸内海を通って関西や江戸に伝わった。
瀬戸内海の中央に位置する尾乃町の港は大動脈の一端を担っていた。
そしてこの町の人々はそんな文化や人々を受け入れ形に残してきた。神社仏閣が多いのは豪商たちが社会還元の形で建てられたものが殆どらしい。
この山頂の公園も有名な観光地の一つなのだろう昼前だと言うのに次々とロープウェーで人が登ってくる。
本堂や西国観音霊場の本尊が祀られている三十三観音堂を参拝して標高150メートル弱の山を下りる事にする。
下りはロープウェーではなく坂の町と言われる所以の坂を楽しみながら自分の足で尾乃町の坂を体験する。
山肌を這うように時には住宅を縫うように入り組んだ坂道と階段が続き。
継ぎ接ぎだらけに見えるがそこには人々の暮らしが見え隠れしている。それと猫がやたらと多い。
自動車が少ないからかもしれない、狭く入り組んだ三次元の世界は猫にとって自分達の世界なのだろう。
逃げもせずにのんびりとあるいは悠々としている。
駅前まで戻り買い物をする。
買い物と言ってもメインは高校生の足になる自転車探しだ。あまり多くない自転車屋を見て回るけどあまりピンとこない。
仕方なく昼時を回っていたのでファーストフードで何かを食べることになった。
何かと言ってもハンバーガーなんだけどね。
「未来はどんな自転車が良いの?」
「小回りの利く自転車が良いかな、あとギア付じゃないと尾乃町は大変な気がするしね。明日香は何で学校まで通っているの?」
「歩きが多いかな。自転車だと少し遠回りになるし、それに毎日自転車で坂を上るのはちょっとね」
「ふうん、そうなんだ」
「でも、未来が自転車で行くのなら私もそうしようかな。帰りにデートもできるし」
「デート?」
「まぁ、今日もデートみたいなもんだけどね」
「そうかなぁ。男と女が2人で出かけるのをデートと言う定義にすればそうかもしれないけれど、ずいぶんと広義だな」
「そう言えば未来は本当に私の事を憶えてないの?」
「どうしたの? また、急にそんな事を聞くかなぁ」
「ええ、だって今日子さんが言ってたんだもん。あまり昔の事は聞くなって」
「はぁ~そうか。でもそうだよね、気になるよね。ゴメンけど憶えてないって言うのが本当だよ」
「そうなんだ、仕方がないかもね。小さかったし何かの拍子に思い出すかもしれないしね。それじゃさぁ。東京で変な女の子に出会わなかった?」
「変な女の子? 会わないよ」
「そっか」
その時は明日香が何を持って変だと言っているのか理解できなかった。