4
國村の細縁眼鏡の奥にあるくぼんだ目が、北都を捕らえた。ゴクリと唾を飲む喉が鳴る。
「君は……三年生の」
「鯨井です」
気圧されないように、北都は自分から名乗った。
國村教授はとかく厳格な教授として有名だ。
不正はもちろん、遅刻や授業中の居眠りにも厳しく、学生たちを軽く睥睨するだけで教室にとてつもない緊張が走る。ダレきった五嶋とは正反対の教授だ。
担当科目は【基礎電気回路】。
文字通り電気電子工学科の基礎ともいえる科目で、二年生から三年生にまたがって履修する重要な科目だ。無論、テストも他の教科に比べて難しく、平均点が低い上に毎年この教科の単位を落とす者が出ている。
そうだ、確か橘兄弟も……
「君たちは……」
國村が北都の後ろの二人に声をかけようとした瞬間。
「う、うわあああああああ」
二人は悲鳴を上げながら、脱兎のごとく逃げ出した。國村教授のプレッシャーに耐えられなくなったのかもしれない。
置いてきぼりにされて、北都は一人で國村に立ち向かわなければならなくなった。
「あれは橘右京と左京だな。逃げ出したところを見ると、このタバコは……」
「自分のです!」
北都はとっさに叫んでしまった。後先考えていなかったが、今はこう言うしかない。
だが國村は静かに首を横に振った。
「見え透いた嘘をつくものではない。君が罪を被ったところで、彼らのためにはならんよ」
この学校で長きを過ごし、主任教授として多くの学生を見てきた國村の厳粛な瞳はごまかせなかった。
北都はたじろいで、そしてうつむいた。
「今の私は教授ではなく非常勤講師だ。ここの学生に対する処分に口を出せる立場にはない」
國村の穏やかな言葉に一瞬期待をして、北都は顔を上げる。
「だが……不正を見てしまった以上は、学科主任に報告せねばなるまいよ」
北都は思わず詰め寄ってしまった。
「違うんです! あいつら、もうタバコは吸わないって、たった今約束させたところなんです!」
「だがついさっきまで、ここで吸っていたことには変わらない。君はたった今罪を犯した者を、『もうやらないから』と口約束したから見逃せ、と、そう言いたいのかね?」
國村の厳しくも正鵠を射た声に、北都は出る言葉がなかった。
「いえ……」
それだけ言うのが精一杯だった。静かに握り締めた拳が細かく震える。
「とりあえず、今日はこれは私が預かっておく。私もちょっと急いでいるのでね。明日にでも学科主任の神山先生に報告する」
そう言って國村は車のドアを開けた。
「國村先生、待ってください」
「もう君には関係のない話だ」
「しかし……!」
國村はそれ以上の話を遮るように、運転席に乗り込み、ドアを閉めた。
「先生……!」
追いすがる北都を残して、國村の車は走り出す。駐車場を出て行く車のテールランプを、ただ呆然と見送るしかなかった。
それから一晩、北都は悩み倒した。
あの双子を救うにはどうすればいいのか。どうすれば國村教授に処分を撤回してもらえるか。双子のことを、國村教授に信じてもらうには何をすべきなのか──だが答えは出なかった。
五嶋に泣きつけばどうにかなるのかもしれない。そんな考えも一瞬頭をよぎったが、すぐに頭を振った。そんなことをすれば、この先ずっと五嶋に頭が上がらなくなりそうで寒気がする。
眠れずに重たくなっただけの頭で次の日登校すると、教室にはしょぼくれている橘兄弟の姿があった。
「鯨井……」
北都の姿を見て、不安そうな顔を見せる二人。昨日、北都を置いて逃げ出してしまったことを後ろめたく思っているのかもしれない。
北都は努めて明るい顔をして見せた。
「タバコ、あたしのだって言ってみたけど、ダメだった」
「えっ……」
「お前が?」
まさか北都があの國村教授を相手に、自分たちをかばうようなことを言ったとは思わなかったらしい。
「今日にも神山先生に報告するって」
そう告げると、二人は死刑宣告を受けた被告さながらに絶望感丸出しの暗い顔になった。退学上等と嘯いていた割には、実際に重い処分を目の当たりにすると怖くなってきたようだ。案外小心者なのかもしれない。
「でも……お前らは絶対にやめさせない。そう言っただろ?」
北都の言葉に、二人は驚いて顔を上げた。
「相手はあの國村先生だぞ?」
「お前でもムリだって」
二人がそういいたくなる気持ちもわかるが、北都は絶対にあきらめたくなかった。
「いいや、なんとかする」
そう二人に言い残して、北都は自分の席に向かった。その言葉は、自分への決意でもある。
ふと、火狩と目が合った。話は聞こえていたであろうが、彼は何も言わず、そっぽを向いて目を逸らした。
この日、勝負をかけるならここだろうという時間があった。
それは六時間目の授業直後。【基礎電気回路】の授業を終えてこの教室を出る國村教授に、直談判するならその時間しかない。
六時間目が始まり、國村が教室に入ってくると、教室全体に張り詰めた空気が漂った。学生全員の背筋が伸び、机に突っ伏したり余計なものを引っ張り出す者など誰もいない。
あっという間に緊張の四十五分間が過ぎ、終業の鐘が鳴った。
「では今日はここまで」
國村が教科書を閉じたのを見届けて、立ち上がり号令をかける。荷物をまとめて小脇に抱え、教室から出て行く國村の背中を北都は追いかけて出た。
「國村先生!」
教室横のロッカー前で國村は立ち止まり、こちらを振り返った。威圧するような視線に気後れしそうになるが、それでも北都は両足を踏ん張り、思い切って言った。
「昨日の事、もう一度考え直していただけませんか」
「君もしつこいな。もう君には関係のない話だと……」
「関係なくありません!」
北都の強い声に、國村は怯んだように声を途切れさせた。
教室の前後から、クラスメイトたちが何事かと興味津々に出てきている。そんな中でも北都は臆せず、國村に自らの想いをぶつけた。
「たしかに、あいつらは悪いことをしました。ペナルティを負うべきだと自分も思います。けど、退学になってしまったら、あいつらはもうこの学校で何も取り返せない、何もやり直せない。あたしは右京と左京のこと、信じてます。もう悪いことしないって。その決意を示して、この学校でもう一度やり直していくためにも、せめてチャンスを……!」
北都の言葉にも、國村は解せないと言わんばかりに首を横に振った。
「人間、そう簡単に変われるものではない。たった一度の過ちで簡単に道を踏み外してしまう、その愚かさを身を以って学ばない限り、何度でも同じ過ちを繰り返す」
「それでも……あたしはあいつらのこと、信じてやりたいんです!」
北都は膝を折り、冷たい床の上で國村に向かって土下座した。
「──お願いします!」
周りがざわめき、息を呑むのがわかる。
自分でも何でこんなことやってるんだろうと思う。クラスメイトの前で土下座だなんて、ちょっと前までの自分なら絶対に考えられないことだ。
「お、おい……」
「鯨井……」
後ろから右京と左京の驚きを隠せない声がする。
「鯨井くん、顔を上げたまえ」
顔を上げると、國村は眉間に皺を寄せて大きなため息を漏らしていた。
「……どうして君がそこまでするのかね。橘兄弟は、君にとってはただの同級生だろう」
「おっしゃるとおり、ただの同級生です。でも……あたしはこいつらのやることなすことに責任があります。橘兄弟だけじゃない、クラス全員に対して、責任を持ちたいんです」
北都は下から國村の目をまっすぐに見つめた。
「……級長ですから」
國村のくぼんだ目がほんの少しだけ大きく見開かれた。
北都を見下ろすその目が一度閉じられる。次に開いたときには温かみさえ感じさせる穏やかさでこちらを見つめていた。
「鯨井くん、立ちなさい。おと……ゴホン、人間、そう簡単に土下座などするべきではない」
一瞬「男」と言いかけたような気もするが、北都はあまり気にせずに立ち上がった。
國村は後ろにいた橘兄弟を見て言った。
「五日後……次に私が学校に来る五日後に、君たちにテストを受けてもらう」
その言葉には、北都も、もちろん双子も驚いた。
「テス……ト?」
「もちろん、君たちが去年単位を落とした電気回路のテストだ。このテストで二人とも満点を取れれば、今回のことについては不問にすることにしよう」
「ま、満点?」
一瞬の喜びも束の間、双子の顔が恐怖に引きつる。
國村がチャンスをくれたことはうれしいが、満点とは……これはかなり厳しい条件だ。
「お前ら、去年の期末何点だったの?」
後ろにいたクラスメイトの一人、黒川が双子に聞いた。
「……三十六点」
「二十八点……」
二人の顔がみるみる青ざめていく。六十点以下が赤点、すなわち単位を落とす点数だが、まさかここまで悪いとは思っていなかった。
「あのテストで百点なんて、火狩くらいしか取れないだろ」
北都も、確か八十点くらいだったと思う。そのくらい、國村の作るテストは難しいのだ。
「五日間、死ぬ気で勉強したまえ。これをチャンスと捉えるか、ペナルティと捉えるか、それは君たち次第だよ」
國村はそういい残して、去っていった。
「……あ、ありがとうございます!」
北都はその背中に向かって礼を言ったが、國村は振り返らない。
とにもかくにも、せっかくもらえたこのチャンス、ムダにするわけには行かない。早速……と思って振り返ると、橘兄弟はひざを抱えて落ち込んでいた。
「ムリ……あのテストで満点なんて絶対ムリ……」
「勉強するだけムダだよ……同じ退学なら、いっそ一思いに楽にしてくれ……」
「……おい、そこのLR」
北都の声に、双子は驚いて顔を上げた。指をパキポキと鳴らす北都に震え上がる二人。
「こういうフラグが立ったら、満点とって『やったー!』ってのが常道だろ? お前ら、あたしが一生懸命立てたフラグへし折る気か」
北都は泣きそうな双子の首根っこをつかみ、ムリヤリ立ち上らせた。
「グダグダ言ってないで、さっさと勉強始めるぞ!」