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「先生……結婚してたんですか」
指輪もしていないし、普段のあの体たらく、てっきり独身だと思い込んでいた。責任を取ったというのは、こういうことだったのか。
「何で教えてくれなかったんですか!」
「何でって、聞かれなかったから」
北都は肩を落とした──確かにそうなんだけれども。
恨みをこめて、諏訪を見やる。
「まあ、こういう事情だからね。あまり大っぴらにしないってのも、学校側の方針だったみたいで」
退職は免れたとはいえ、倫理的にあまりよろしくないことには変わらない。話が広まらないようにという、学校側の戒めだったのだろう。
「そのせいであたしなんか、九年近くも出入禁止だったんだから。でも久しぶりに担任持ったっていうし、諏訪くんも一緒に働いてるんだから、妻としては夫の働いてるとこ見に来たくなるのが心情ってものでしょ!?」
「はあ……」
同意を求められても、夫どころか恋人もいない立場では答えに困る。
「で、でもしのぶさん、なんであんな【罪】だなんて、思わせぶりなこと言ったんですか」
『五嶋先生の【罪】を……教えてあげましょうか?』
あのセリフで、五嶋に恨みがあるのかと思っていた。妻なら、夫を陥れるようなことを何故言ったのか。
しのぶは細い指を五嶋の頬に突き刺した。
「この人の【罪】は、あたしの心を奪い、そしてあたしに人生を変える決意をさせたこと。ホント、罪作りな男よね」
何か……壮大なノロケを聞かされた気がする。胸焼けしそうな甘さに、チョコレートを口から吐き出しそうな気分だ。
「それにね、この人ったら、この間のバレンタインにあたしが作ったチョコケーキを、『おなかいっぱい』って言って残したのよ」
しのぶは口を尖らせた。
「次の日にちゃんと食べただろうが」
五嶋は釈明するが、しのぶの機嫌は直らないようだ。
「今までこんなことなかったのに!」
「だって、鯨井にもらったチョコでおなかいっぱいだったんだよ」
「え、あたし!?」
思わぬとばっちりを食らって、北都は目をしばたかせた。
「この人が他の女からチョコもらうのなんて初めてだったから、妻としてはちょっと心配になるじゃない? だから、バレンタインの次の日に学校に来たのよ」
なるほど。それであの日、しのぶは諏訪と会っていたのか。
「ま、でも北都ちゃんならいいかな。あれだけ五嶋先生のこと、信頼してくれるなんてさ。いい教え子を持って、先生冥利に尽きるわよね」
松尾に切ったタンカを、しっかりと聞かれていたらしい。
「妻としては、広い心で許してあげなきゃね。これからも五嶋先生のこと、よろしくね」
まるでこっちが浮気相手みたいな言い方だ。非常に納得行かないが……機嫌が直り、またニコニコとして五嶋に抱きついているしのぶを見ていると、何だかバカらしくなってきた。
傍では、三Eの男どもが苦しみもだえている。
「誰か! 誰かウソだと言ってくれ! このオッサンにこんな年下美人妻がいるわけないんだ!」
黒川など、この事実を絶対に認めたくないようだ。
「五嶋先生にも嫁がいるというのに……なんでオレには彼女ができないんだ!?」
「悪魔! 非道! 女子学生を押し倒して妊娠させた挙句、嫁にするなんて!」
「ちがうちがう」
しのぶが首を横に振った。
さすがに五嶋が押し倒したというのは考えすぎで……
「押し倒したのは、あたしの方」
ニッコリ語るしのぶに、男どもは阿鼻叫喚。
「おっさんもげろ!」
「オレのSAN値がガリガリ削られた……」
「そのエロゲどこで売ってるんですかあああああ」
のた打ち回る男どもを眺めて、北都はため息をついた。今ならあの言葉の意味がよくわかる。
「……だから言ったでしょ。『みんなが悲しい思いする事になる』って」
隣で遠い目になる諏訪に、力なくうなずいてみせる。
うだつのあがらないオッサン代表、若さと女に対するアピールだけなら負けないと思っていた五嶋に、まさか元教え子の年下美人妻がいるなんて……男どもが絶望したくなる気持ちも理解できる。
「でも……なんていうか……納得」
確かに衝撃的過ぎる事実だったが、北都の心中は妙にスッキリしていた。
「『この夫にして、この妻あり』って言いたいんでしょ」
諏訪がニヤッと笑う。
「似たもの夫婦ですよね」
まったく、人騒がせな夫婦だ。
だが、この二人は深い愛情で結ばれているのだろう。しのぶは未だにベタ惚れのようだし、五嶋も表には出さないだけで、しのぶの様子を見ればよくわかる。きっかけは過ちだったのかもしれないが、きっとこの二人はなるべくしてなった夫婦なのだろう。
しかしながら、しのぶほどの美貌があれば男の引く手など数多だっただろうに、何故に五嶋を選んだのだろうか。わかる気もするが……いや、やっぱりわからない。
「ところで……妊娠させたってことは」
一人冷静だった火狩がふとつぶやいた。
「……五嶋先生、子どももいるんですか!?」
「うん、まあね」
当然といえば当然なのだが……この二人の子どもが想像できない。いったいどんな子どもに……
「オレだよ」
後ろから声がしたのと、ヒザカックンされたのが同時だった。
「うぎゃっ」
よろめきながら振り返ると、そこにいたのは。
「あーっ! こっ、この間のクソガキ!」
チョコを買いに行ったショッピングセンターで、北都をおちょくったあの少年だ。
「よっ、諏訪ちゃん」
少年は馴れ馴れしく、諏訪に声をかける。
「……彼が五嶋先生としのぶさんの息子さん、冬樹くん」
諏訪に紹介され、冬樹はペコッと軽く頭を下げた。
確かによく見れば、顔はしのぶに似て整った顔立ちだ。だが、飄々とした態度はまさに五嶋そのもの。とても小学生らしくない。
「お、おま……」
北都は驚きのあまり、口をパクパク。
「なんだ、冬樹。鯨井と知り合いだったのか」
「ちょっとね」
軽く言う冬樹に、北都は頭に血を上らせ、その父親に抗議した。
「この間、バカにされたんですよ!」
「本当のこと言われたくらいで、ガタガタ言うなって」
ちっとも悪びれていない冬樹の態度。父親を髣髴とさせて、余計に腹が立つ。
「てめぇ……子どもだと思って下手に出てりゃ、調子に乗りやがって」
北都は目を剥いて、冬樹の両頬を思いっきりつまんでひっぱった。
「イタイイタイ! お、お姉さんは美人だよ!」
「その手に乗るかっつの」
「お姉さん、顔コワイ!」
ギリギリと頬をつねりあげる北都の後ろで、火狩が呆れた声を上げた。
「鯨井……お前が小学生レベルに落ちてどうする」
「誰が小学生レベルだって!?」
振り返り、火狩をギロリと睨んだが、そのスキに冬樹は逃げ出し、五嶋の後ろにササッと隠れた。
「オレに勝てないからって、逆ギレすんなよ」
小憎らしい顔で、小憎らしいことを言ってくれる。さすがは五嶋の息子だけある……とヘンなところで感心している場合ではない。
「待てコラ!」
つかまえようとすると、冬樹は皆の足のあいだをちょこまかと逃げ出した。
皆のため息が充満する中、北都と冬樹の追いかけっこはしばらく続いた。
「やれやれ……まったく、人騒がせな家族なんだから」
教官室に戻ってきた途端、ドッと疲れが押し寄せてきた。
冬樹の習い事の時間だと言って、しのぶと冬樹は先に帰っていった。独自のネットワークで松尾の不穏な動きを知り、北都や諏訪に知らせようと、学校にやってきた矢先の出来事だったらしい。
その一家の長は、教官室に戻ってさっそく椅子に腰掛け、机の上に足を投げ出して、スポーツ新聞を開いていた。
相変わらずのだらしなさだが、謎と恐怖で語られてきた【北陵高専の陰の支配者】の、その正体は案外普通の夫、父親だったと知って、見る目が少し変わったのも事実だ。
「しかし、在学中の学生に手を出して、よく懲戒免職になりませんでしたね。やっぱ校長脅してたんじゃないんですか?」
マグカップに入れたコーヒーを差し出しながら五嶋を見たが、新聞で視線を遮っている。いつもならどんな暴言にも飄々と返してくるのに、自分の家族の事になると決まりが悪くなるのか、答えたくないらしい。
代わりに諏訪が答えてくれた。
「まあ、理由はいろいろとあったんだよ。発覚したときには卒業間際で、しのぶさんは二十歳超えてたし、僕らも嘆願書書いたしね。何よりも、國村先生がかばってくれたことが大きいみたい」
「えっ……國村先生が?」
驚いた。こういう事に対して一番厳しそうな人物が、よりによって五嶋をかばうとは……
「『清廉潔白であることだけが、教師のあるべき姿ではない。他の教師にはないものを、五嶋先生は持っている』ってさ。國村先生に聞いたんだ。で、何とか減給処分で済んだんだって」
ただの暴君ではない。五嶋を救おうとした人が何人もいたことが、彼の本質をしっかりとあらわしていると思う。
そして、そんな男を一番愛している女性は、一番の理解者でもあるのだろう。
「あたし、わかっちゃいましたよ。五嶋先生の弱み」
途端に諏訪がギクリと身を固くした。五嶋は新聞の向こうから気のない顔を見せたが、その目が若干泳いでいるのを北都は見逃さなかった。
「しのぶさんでしょう?」
図星──諏訪は顔を引きつらせ、五嶋は目をそらす。
「先生が今までしのぶさんのこと話さなかったのは、弱みを見せたくなかったからですよね」
考えてみれば至極当たり前。自分の身内、しかも若く美しい妻ともなれば、隠したくなるのも当然だろう。なんだかんだと理由を付けてはいたが、結局のところ、奥さんが一番大事。かわいいところもあるものだ。
「い、いや……そんなことは……ねえ、五嶋先生?」
「オレに弱みなんてないよ?」
このトボけてごまかそうとしている顔といい、しのぶが現れたときの驚いた顔といい、もはや口先でごまかしてもムダだ。
「じゃーん」
北都は携帯電話を高々と掲げた。
「しのぶさんと、お友だちになっちゃいました。アドレスも携帯番号も交換済みです。先生のこと、いろいろと教えてくれるそうです」
五嶋は口をポカンと開け、目を丸くしていた。まさかここまで仲良くなっているとは、思いもしなかったらしい。
「諏訪先生のこともね」
「えっ!? 僕のことも!?」
横で他人事のように憐れんでいた諏訪も、思わぬところからパンチを食らって、焦りを隠さなかった。
「せ、先生……」
あたふたとして、不安そうな顔で五嶋を見るが。
「……女は怖いねぇ」
五嶋は首をすくめて、開いた新聞の間に身を隠した。
第9話終了です。
やっとこの話がかけた……ここまで書くのが一つの目標だったので、ひとまず目標達成ってところでしょうか。
五嶋先生としのぶさんのなれそめ話は、別作品にて書き上げてありますので、後日またアップしたいと思っています。
次はいよいよ3年生編エピローグ。
学年末テストを迎え、級長として1年間の真価が問われる北都。
結果はいかに!?
来週更新予定です。ここまでお読みいただき、ありがとうございました。




