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「おい……右京、左京」
次の日の朝。HR前の教室で、北都は橘兄弟の前に仁王立ちになった。
双子は一六〇センチちょっとと小柄だ。上から北都の瞳孔開き気味の目で見下ろされて、壁に追い詰められた双子は明らかにビビッていた。
「な、なんだよ……」
「昨日の事なら、あやまらねえぞ」
とは言いつつも、ビビッているところを見ると多少は気にしている様子である。
「今更謝れなんて言わねえよ。だがな、今後一切、寮や学校でタバコは吸うな。飲酒もするな。これだけは約束しろ」
北都の大真面目なセリフに、右京が吹き出すように言った。
「バカじゃねえの? 誰がそんな約束……」
「守らねえとは言わせないからな」
右を睨んで黙らせる。続けて左京が言った。
「じゃあお前の見えないところで……」
「地の果てまでも追いかけてって、見張ってやるよ。お前らが完全にやめるまでな」
左も睨んで黙らせる。双子は不安そうな顔を互いに見合わせた。
「そんなこと……」
「できるわけが……」
「あたしがやるっつったらやるんだよ。いいな、覚悟しとけよ」
ちょうど五嶋と諏訪が教室に入ってきて、双子は救われたように北都から逃げ出し、席に着いた。
北都も廊下側最前列の自席に戻り、号令をかける。
昨日の事、諏訪は五嶋に黙ってくれたようだ。教師を介入させてややこしくする前に、自分があいつらを何とかしてみせる。
◇
橘兄弟は完全にタカをくくっていた。
鯨井北都一人に何ができる、と。相手はただ背が高いばかりの男みたいな女だ。突然級長になったからといって、自分たちの行動にまで口を出してきて何様だと、反発する気持ちもあった。
だが、彼らが鯨井北都の恐ろしさを知るのに、そう時間はかからなかった。
まず、教室にいる間中ずっと、鯨井の視線が二人に降り注いだ。もちろん、タバコの一本でも取り出そうものなら、いや、取り出すような動きをしただけで向こうが動き出す。
今朝から異様な気迫で睨み続けられて、二人とも動揺しまくりだ。昨日の一件でキレてしまったのかもしれない。
しかし二人にも男としてのプライドがある。あんなヘンな女にビビッてどうする。
二人は休み時間、揃って男子トイレに入った。一番奥の個室にこもって人心地。これでやっとあの女から解放される。顔を見合わせ、タバコの箱を取り出した。
と、途端にバタバタと誰かが入ってくる足音。腹の調子が悪いやつでもいるのだろうか。
「てめーら……」
突然、個室のドアの上部から、鯨井のおどろおどろしい顔が覗きこんできて、二人は悲鳴を上げかけた。
「く、鯨井!」
「ここ男子トイレだぞ!」
見かけ的には違和感はないが、鯨井北都は一応女子。男子トイレに入れる権利はない。
「だったらなんだっつーんだよ。タバコ吸うなっつっただろ」
鯨井はまったく意に介さないとばかりに、ドアを蹴り出す。二人は慌てて個室を飛び出した。
「なんだよあいつ!」
「トイレまで追ってくるなんておかしいって」
廊下を走って逃げるが、振り返ると向こうから鯨井が追いかけてきた。
「うわっ」
慌ててスピードを上げ、階段を一気に駆け下りる。鯨井の追撃を撒こうと玄関から外に出て、近くに止まっていたトラックの陰に隠れた。
「さすがに……もう追いかけてこないよな?」
「三時間目はじまったぜ」
始まりの鐘がすでに鳴っている。さすがに級長が授業をサボることはしないだろう。二人は次の授業はバックレてやるつもりだ。
足音がしないことを確かめて、そーっとトラックの陰から身を乗り出す。
「……みーつけた」
ニヤリと笑う、鯨井がそこにいた。
「ひぃっ」
「ぎゃあっ」
「教室に戻るぞ」
あえなく首根っこをつかまれ、教室まで引きずられていく二人。三時間目の授業がこれまた幸か不幸か五嶋の授業だったので。
「すいません、遅れましたー」
あっけに取られる級友たちを尻目に、鯨井は二人を引きずったまま何事もなかったかのように教室に入っていった。
「鯨井と右京と左京、出席ねー」
これまた何事もなかったかのように、出席簿に○をつけていく五嶋も五嶋だ。
その日一日、こんな調子で鯨井に監視され、追い回されて、橘兄弟は疲労困憊で寮に帰った。結局タバコを吸うどころか、息つくヒマもない散々な一日だった。
寮の二人部屋に入って、ようやく一息つく。
「死ぬかと思った……」
「鯨井……絶対頭おかしいって」
早くも燃え尽きたようにガックリとうなだれる二人。
だがここは二人の自室、女子禁制の男子寮である。一転、右京は明るさを取り戻してタバコを取りだした。
「さすがにここまでは来ないよな」
「あいつもさすがに男子寮は……」
言いかけて、左京は昼間のことを思い出し、背筋に薄ら寒いものを感じた。男子トイレにまで侵入してきた鯨井のことだ。まさか……
「ざんねんでしたー」
想像していたことが現実となって現れて、二人はもはや叫び声も出ないほどに恐れおののいた。鯨井が二人部屋のドア口に立っていたのだ。
「だからなんでここにいんだよ……」
「ここ男子寮だろ……」
鯨井のことだ。堂々としていれば、男子寮に入ってきてもそれほど怪しまれることはない。まさかこいつを連れ込んでどうかしようなんて考える男がいるはずもなく、宿直にバレてもちょっと注意されて終わるぐらいで済みそうだからコワイ。
鯨井は凍り付いている二人の手からタバコを箱ごと奪いとった。
「絶対に吸わせないからな。明日も覚悟しとけよ」
そう言って二人を睨みつけ、鯨井は静かに去っていった。二人揃って震え上がったのは言うまでもない。
◇
もちろん、次の日もそのまた次の日も、北都は執拗に橘兄弟を監視し続けた。
双子もしぶといもので、ちょくちょくこちらの目を盗んではタバコを取り出したり、逃亡したりして、その度に北都は双子をふんづかまえてはやめさせるという日々が続いている。
だが、北都とて二十四時間監視できるわけではない。どうしても目が届かない時間帯がある上に、双子のほうも頭を使うようになってきた。二人別々に逃げられてしまうと、こちらの身体は一つなので、片方をどうしても取り逃してしまう。
双子を監視し始めて一週間。今も左京を取り逃し、行方がわからなくなってしまった。いや、右京もいつの間にか逃げ出している。
少し疲れて、放課後の誰も通らない階段に一人腰掛けて、北都はため息をついていた。
「鯨井」
声をかけられて振り返ると、階段上の踊り場に火狩が立っていた。返事をする気力もなくて、投げやり気味に片手を上げて答える。
「なんであの双子をそこまで追い回すんだ?」
火狩は北都の隣まで降りてきて言った。北都は彼の顔を見上げたが、彼はこちらを見ようともしていない。
「あんなやつら、退学になったほうがいいだろ。クラスのためにも」
火狩がそう言いたくなるのもわかる。実際、授業に間に合わなくて、副級長の火狩に号令をかけてもらっていることもあり、迷惑をかけていることは重々承知している。
「大体、あいつらが退学になったって、お前には何の関係もないだろ?」
火狩の言葉は、クラスメイト全員の総意なのかもしれない。だが、それでも──
「あの二人は絶対に退学になんかさせない」
北都は真っ直ぐ前を向いて言った。
「何が何でも、進級させてやる」
「お前……五嶋先生に何か言われたのか?」
最初は確かにそうだった。だが今は違う。
「……これはあたしのわがままだよ」
「わがまま? なんだよそれ」
「いいよ、理解されなくたって。とにかく、あたしはあたしのやりたいようにやる」
北都は立ち上がり、ジーンズについたホコリを払う。
そして横を向くと、怒ったような火狩の視線と思い切りぶつかった。
「……勝手にしろよ」
火狩はプイと顔を逸らすと、先に下に降りていった。相変わらず、無愛想な男だ。
北都は苦笑して、そしてまたあの双子を探しに階上へと駆け出した。
校舎内を散々探し回ったが、双子の影も形も見当たらなかった。もう寮に帰ったのかもしれない。北都としても、あまり男子寮に乗り込むようなマネはしたくないのだが……
最後にもう一度と思い、電気棟の三階の窓から見える景色をくまなく探った。体育館の陰、福利厚生棟の裏、専門棟の間…………いた!
見覚えのある背中が二つ、構内の駐車場に面した道路を歩いている。北都は階段を駆け下り、外へ猛ダッシュした。
双子は案外簡単に見つかった。駐車場の横、武道場と倉庫の隙間の人目につかない場所で、悠々とタバコを吸っていた。
「おい、そこの右と左。いい加減にしろよ」
「うげっ」
橘兄弟は北都の姿に驚いて逃げようとしたが、あいにくそこは袋小路。積み上げられたガラクタに行く手を阻まれ、双子は袋のネズミとなった。
「くっそ」
二人は口にしていたタバコの煙を、北都に吹きかけた。また煙に巻こうという作戦らしい。
「ゲホッ……」
だが北都はすぐに持っていた薬を取り出し、吸入した。この間の一件からしばらく内科に通院しているので、この間ほどの激しい呼吸困難に陥ることはない。
「残念……だったな。ゲホ……」
さすがにすぐには咳は収まらないが、涙目になりながらも北都は二人を追い詰めた。
「やっぱお前おかしいって! 何でそこまでしてオレたちを追い回すんだよ!」
「オレたちが退学になろうが、お前には関係ないだろ!」
二人は揃って顔を引きつらせた。皮肉なことに、彼ら自身も火狩と同じ考えのようだ。
「ったく……どいつもこいつも二言目には『関係ない』って……それしか言うことねーのかよ」
自分さえよければ関係ない──確かにそれがみんなにとっての幸せな道なのかもしれない。自分の人生、どのように生きるかなんてその人次第だ。
「理由なんてねーよ。もう誰も落ちこぼれさせない。級長のあたしがそう決めたからだ」
それでも北都は、もう仲間が去っていく姿を見たくなかった。わがままだと、エゴだと罵られても、何もせずにただ諦観し、傍観することをしたくなかった。
自分に何かできることがあるというのなら、その何かを精一杯やりたかったのだ。
「お前らは、死んでも学校やめさせねーよ」
まだ少し息苦しい。顔を歪ませながらも、北都は二人に向かって不敵に笑って見せた。
橘兄弟は面食らったように口をポカンと開けていたが、やがて顔を見合わせ、苦々しく吐き捨てた。
「ケッ……バカバカしい」
「なんだよマジになっちゃって。つきあってらんねーよ」
二人とも火のついたタバコを地面に捨て、踏みにじって火を消した。
「もう吸わねーよ。お前の影にビクビクする生活なんてゴメンだ」
右京はそっぽを向き、決まりの悪い顔でつぶやいた。
「授業もちゃんと出るから、もう二度と追いかけてくんなよ」
左京はウンザリといわんばかりに顔をしかめる。
「お前ら……」
やっと想いが届いた気がして、北都は思わず頬が緩んだ。
問題だらけのあのクラスにとっては小さな一歩かもしれない。けれど、こうやって一つずつでも、前に進んでいけたらそれでいい。
「ほらよ、これでいいだろ」
そう言って、左京がポケットからタバコの箱を取り出し、北都に投げた。それは春の澄んだ青い空に放物線を描いて──
急に強い風が吹きぬけた。
その風は宙を舞っていたタバコの箱をも吹き飛ばして、北都のはるか後方、駐車場に止まる車の後部トランクの上にぽとりと落ちた。
高級そうなセダンの車。取りに行こうとして、北都ははたと足を止めた。その車の横、運転席のドアを今まさに開けようとしていた人物に気がついたからだ。
「……これは何かね」
その人物は自分の車の上に落ちたタバコを手に取り、しげしげと眺めた。そして北都に目をやり、後ろにいる橘兄弟をも厳しい目で見つめる。
ヤバイ──よりによって。
「く、國村先生……」
前の学科主任教授で、この春に定年退官し今は名誉教授となった國村武雄──まさかこの人に見つかってしまうなんて。
國村先生についてわからない方は、プロローグをお読みください。