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「しのぶさん!? 何でここに……」
渡部しのぶは今日も凛々しく、勝気な笑みを浮かべて立っていた。皆の視線を受けても動じることなく、まるでランウェイを歩くかのように颯爽と前に出てくる。
「しのぶ……」
北都は初めて、五嶋が動揺するところを見た気がした。松尾に過去をバラされたときよりも驚いた顔をして、しのぶを凝視している。
「誰? あの美人……」
黒川に聞かれ、北都は我に返った。
「五嶋先生の教え子で、諏訪先生の同級生だって」
北都が説明している間に、しのぶはニコニコとした営業スマイルを浮かべて、松尾に歩み寄った。
「あっらぁ、松尾先生じゃないですかぁ。お久しぶりですぅ。お元気でした?」
まるでキャバ嬢が馴染みの客を迎えるようだが、松尾はなぜか苦りきった顔をしている。明らかに、しのぶに対し苦手意識がある顔だ。
何も言えないでいる松尾に、しのぶはニタリと意地悪っぽく笑って見せた。
「あ、お元気じゃないんでしたっけ。なんでも最近離婚されたとか」
「な、何でそれを!」
「女の情報網を甘く見ないでくださいね。性懲りもなく若い女に手を出して、とうとう奥様に愛想をつかされたんでしょう?」
しのぶの暴露に、松尾の驚いた顔から血の気が引いた。
「それで腹いせに、五嶋先生の悪口流して、憂さ晴らすだなんて、相変わらずケツの穴のちっちゃい男ですねぇ」
「腹いせ?」
北都が聞くと、しのぶは悠々と腕を組み、松尾をあごで指した。
「この人、八年前までこの学校の校長だったの」
「私はこの男にハメられて、辞めさせられたんだ!」
五嶋にまつわるウワサにの中にあった、『かつては校長すら飛ばした』という言葉。あれは事実だったということか。
松尾は憎しみをこめて五嶋を睨みつけていた。
校長という輝かしい職を追われ、人生の坂道を転がり落ちてしまった──その発端となった五嶋に、並々ならぬ憎しみを抱いているのがよくわかる。
だが、そんな松尾を前にしても、しのぶは鼻の先で笑っていた。
「何言ってんですか。女子学生にセクハラしまくってたのがバレただけでしょ」
「……そ、それをバラしたのはこの男だろ! 他人のこと言えない立場のクセに……」
「バラしたのはあ・た・しです。あたしのお尻ぺたぺた触ったの、忘れちゃったんですか?」
歯噛みする松尾に、北都は冷たい視線を送った。バラされて当然どころか、むしろバラしたしのぶに拍手を送りたいくらいだ。
「それがきっかけで、今まで泣き寝入りを強いられてた女子学生が声を上げ始めて、最後には裁判になりそうになったんでしょ。免職じゃなくて、依願退職って形で辞めさせてもらっただけ、ありがたいと思わなきゃ」
次々と明かされる所業に、劣勢であることは明白。たまりかねたのか、松尾は五嶋を指差し、逆上した。
「なぜ私ばかりが責められる!? この男だって同じじゃないか!」
「いいえ、全然違いますよ」
しのぶが反論するよりも早く、諏訪が声を上げていた。その声は穏やかながら、静かな怒りに満ちている。
「諏訪、やめろ」
「今度はやめませんよ。とことん言わせてもらいます」
諏訪は五嶋にニッコリ微笑み返した。そして、松尾をじっと見据える。
「五嶋先生は学生をよく見、きちんと向き合って、自分が泥をかぶることも厭わずに、学生のことを考えてきました。不精者だし、悪ふざけが過ぎることもありますけど、それでもこの学校で先生を続けていられるのは、みんなが五嶋先生のことをちゃんとわかっているからですよ。だからこそ、鯨井さんをはじめ、学生たちもこうやって信頼してるんです」
諏訪が五嶋のことをこんな風に思っているなんて──北都は驚きもしたが、同時に深く共感してしまった。
諏訪も自分たちと同じ、五嶋の教え子。感じていることは一緒だったのだ。
彼は厳しい顔で、きっぱりと断罪した。
「しのぶさんもきっと同じです。五嶋先生のことを信頼していたからこそ、心が傾いたんですよ。妻子ある身でセクハラした挙句、逃げ回って訴えられたあなたと、責任を取り、処罰を受けた上で、今も彼女を幸せにしている五嶋先生とでは、天と地ほどの差があります。それを同列に語ろうなど、言語道断です」
しのぶは五嶋をまっすぐに見つめていた。その目は慈愛に満ちて、何者にも負けない強さがあった。
「この人は一人の教師として、悩む学生のあたしを救ってくれた。一人の男として、あたしを愛してくれた。突き放すこともできたのにね……でも、一人で生きて行こうって決めてたあたしを引き止めて、免職覚悟で受け入れてくれたのよ。教え子の一人として、これだけは胸を張って言える──五嶋先生は、立派な先生です」
五嶋はと言うと──うつむいて頭をポリポリとかいていた。教え子にこんな風に言われて、めずらしく照れているのかもしれない。
「松尾先生。お互い、昔のことを蒸し返すのはやめましょうや。いや、私はいいんですけどね。でも……松尾先生もさらにヤブヘビになっちゃ、困ることもあるでしょう」
「わ、私にまだ悪事があるみたいな言い方をするな!」
五嶋は松尾に近寄り、そっと耳打ちした。
見る見るうちに松尾の顔色が変わる。真っ赤になったり真っ青になったり、忙しい人だ。
「わわわわかった! わかったから……そのことは」
「おわかりいただけたら、それで結構ですよ」
さすが五嶋の伝家の宝刀。効果はてきめんだったようだ。しかし毎度の事ながら、何を言ったのかが気になるが、そこは絶対に教えてくれないところが五嶋のポリシーといったところだろうか。
しのぶはお開きとばかりに、手を打ち鳴らした。
「さあ、わかったらさっさと帰った帰った。もしまた同じ事やったら……あのこともバラしちゃいますからね」
「な、なんだ」
うろたえる松尾に、しのぶも耳打ち。松尾の顔が、真っ青を通り越してどす黒くなった。
「もうやらん! もうやらないから……」
松尾はあたふたとその場を立ち去った。五嶋を追い詰めるつもりが、しのぶという予想外の敵に見舞われ、逆にやり込められてしまった。逃げる背中には悲哀すら漂っているように見える。
その背中を見送ったしのぶは、くるりとこちらを向くと。
「あの人、デリヘル相手に幼児プレイしてたんだって」
こちらは敗者に鞭打つ非道ぶり。男どももさすがに引き気味だ。
「容赦ねーな」
「五嶋先生より鬼畜やで……」
あれだけ脅せば、同じ轍を踏むような真似は二度とするまい。
そういえば、松尾を一発どついてやるのを忘れた。今まで散々悩ませてくれた落とし前を付けさせようと思っていたのに、しのぶの登場でそれどころではなかった。しかし、松尾を徹底的にやり込めた五嶋としのぶ、そして諏訪の様子に、胸がスッとしたのも事実だ。ここは大人三人に免じて、見逃してやろう。
一難去って、やれやれとばかりに北都は息を吐いた。落ち着いたところで、もう一つ、重大な問題が残っていたことを思い出す。
三Eの視線が、しのぶと五嶋に集まった。
「さて……と」
三E全員がうすうす気づき始めていながら、目をそらしたい事実。しかしながら、今この事実と向き合わずに、いったいいつ向き合うというのか。
北都は級長として、意を決して聞いてみた。
「あのー……五嶋先生が手を出した女子学生って……」
「そう、あたし」
しのぶはあっけらかんと答えた。そしてささっと五嶋に寄り添い、その腕に腕を絡ませる。
あっけに取られる三Eの面々に、諏訪が一つ咳払いをした。
「改めて紹介するよ。僕の同級生、旧姓渡部しのぶさん」
「で、今は五嶋しのぶ。五嶋先生の妻でーす」
満面の笑みを浮かべるしのぶと、そ知らぬ顔をしているが、ほんの少しだけ困ったような表情の五嶋。
「つ、つ、つ、つまぁ!?」
対照的に、三Eの男どもの顔は引きつり、青ざめ、絶望的な表情に変わった。




