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しのぶの視線を真正面から受けて、北都はゴクリと唾を飲んだ。ゆっくりと考えて、出した答えは。
「……やめときます」
途端にしのぶは目を大きく見開いた。
「あれ……意外。五嶋先生の弱み、握りたくないの?」
「どうせ実際はしょぼいことなんでしょう? しのぶさんも諏訪先生も、煽れば煽るほど緊張感がなくなりますよ」
この人といい諏訪といい、こっちが子どもだと思ってからかっているだけなのだ。
「五嶋先生、愛されてるのねぇ」
「ええ!?」
何をどう聞いたらそういう話になるのだろう。
しかししのぶはニヤニヤと、意地の悪い瞳で見つめてくる。
「ホントは聞くのが怖いんでしょ? 聞いたら最後、先生のことが嫌いになっちゃいそうで」
「そんなことないです。今も十分嫌いですよ。掃除も仕事も押し付けられるし、こっちの話は聞かないし、子どもみたいで」
「『いやよいやよも好きのうち』って言ってね」
このいやらしいまでの話のずらし方、五嶋そっくりだ。あの人に教わると、性格まで似てくるのだろうか。思わず、五嶋に対するのと同じように怒ってしまった。
「だーかーら!」
「それだけ、先生のことを信頼してるって証よね」
しかめっ面になるこちらに対し、しのぶはただニコニコとしていた。まったく、この人には勝てる気がしない。
「そういう優しさが、きっと北都ちゃんのいいところ。どんなに悪口言っても、本心では相手のことを信用してるのよね」
そうだろうか……そう言われれば、そうかもしれない。
悪口を面と向かって言えるということは、相手を信頼している証拠。心底嫌いになった相手には、悪口すら言う気にもなれなかった。
「でも……気をつけなさいよ。世の中、いい人ばかりじゃない。北都ちゃんみたいなタイプが、一番男に騙されやすいんだから」
しのぶに言われると説得力を感じるのは何故だろう。自分が男に騙されるなんてことは考えられないが、案外そういう人間に限って、コロッと騙されてしまうものなのかもしれない。肝に銘じておこう。
「諏訪くんみたいな、一見人当たりのいい男だって、ホントは何考えてるかわからないわよ」
だから何故そこで諏訪が出てくるのか……北都は顔を引きつらせた。
「しのぶさん……人のことからかって、楽しんでるでしょう?」
「あ、わかった?」
しのぶは舌をペロリと出した。こういう仕草ができるところは、男の扱いに慣れている手練を思わせる。
「さて、学校に帰りましょうか。あたしもそろそろ家に帰らなきゃ」
互いに皿の上はきれいになくなっている。促され、コートを持って席を立った。
帰りの車の中でも、しのぶは実に饒舌に話してくれた。しのぶは北都や諏訪と同じS市の出身で、女子寮がなかった当時は、学校近くのアパートで一人暮らしをしていたそうだ。
「一人暮らしか……いいなぁ」
「門限もないし、自由なのはいいんだけどね、家に帰っても一人は寂しいわよ。寮の方が友だちもいて、いいと思うけどな」
それは確かにそうかもしれない。時間的拘束がイヤになることもあるけれど、辛いときや悲しいときに、すぐそばに誰かがいるというのは、それだけで幸せなことなのかもしれない。
そうこうしているうちに、車は北陵高専の前に着いた。礼を言って車を降り、ドアを閉めると、助手席の窓が開きだした。
「あ、そうそう。あの張り紙のことだけど」
しのぶは助手席側に身を乗り出すようにして話しかけてきた。
「もうすぐおさまると思うわよ」
「……なんでそう思うんですか?」
「女のカン」
ニヤリと笑う。
「なーんてね。五嶋先生に恨みを持つ人間の中に一人、心当たりがあること思い出したの」
「えっ……だ、誰ですか!?」
「それはまだ教えられない。その人って決まったわけじゃないしね。けど、あたしも調べておくわ。こう見えてもあたし、顔は広いんだから」
誰なのかは気になるが、確証もなしに決め付けるのも確かにアレだし、ここはしのぶに任せたほうがよさそうだ。
「何かわかったら、諏訪くんにでも連絡しておくから。じゃあね」
窓が閉まり、車は排気ガスを残して走り去っていった。
あの人、ホント何者なんだろう……北都はため息をつきつつ、車の後姿を見送った。
その勢いに圧倒されるばかりで、しのぶ自身のことをあまり聞けなかったのが悔やまれる。
強引なところが多くて辟易したが、不思議とあまりイヤな感じはしなかった。初めて会ったのに、親戚のお姉さんのような親しみやすさがあった。
ひとまずは、しのぶから何か情報が入ってくることを期待しよう。
しかしながら、その後数日経っても、しのぶからの連絡はないようだった。
罵詈雑言の張り紙も、毎日ではないがスキを見て張られているし、犯人の尻尾は未だつかめる気配がない。五嶋は相変わらず暢気だしで、自分ひとりがワリを食っている気がする。
イライラしながらも二月も下旬に入った、ある日の午後。年度末も近くなり、ここ数日は午前授業の日が続いている。
「タバコ吸ってくるわ」
五嶋が椅子から立ち上がった。
「トイレじゃなくて、ちゃんと喫煙所行ってくださいよ」
「へいへい」
北都の小言に軽い返事をしながら、五嶋はタバコの箱を握りしめて教官室を出て行った。校内では二十歳以上でも学生はタバコ厳禁。その学生に示しがつくよう、教師がちゃんと規則を守らないでどうする。
静かになった教官室で、北都はまた掃除を続けた。
教官室の片隅には、三、四人が座れるテーブルがある。そこは五年生が卒業研究をするためのスペースで、ついこの間まで、五年生がそこでパソコンを広げ、それぞれのテーマについて研究を進めていた。その五年生も全員無事卒業が決まり、進路も決まったそうだ。
早いもので、級長になってもうすぐ一年。なんとかここまで一人の脱落者も出さずにすんだが、先日の学年末試験の結果次第では、まだ無事に終われるとは限らない。三修する者は今のところいないと思うが、留年の危機に瀕しているものは少なからずいるのだ。最後の追試験まで気を抜かず、全員そろって四年生に進級したいものだが……
ドアがノックされる音で、ふと我に返った。
「はい、どうぞ」
ドアが開いて入ってきた人物の姿に、北都は圧倒された。
こけた頬に、ギョロリとした目。暗いを通り越して、おどろおどろしい雰囲気を身にまとった男だ。スーツを着た姿からして、若いが学生ではなさそうだ。OBだろうか。
くぼんでいながらも眼光だけは鋭い目で、男は北都を一瞥した。
「五嶋先生は……」
この低い声──どこかで聞いたことがある。
「あ……」
この間の、電話の声だ。途切れ途切れだったが、妙に不気味だった携帯電話の声。
北都の背中に、冷たいものが走った。




