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二月十四日。バレンタイン当日。
この日は一年で一番、学校中がそわそわする日かもしれない。これが完全な男子校ならまだしも、少なからず女子学生がいるという環境なので、男子は完全なあきらめムードにはなりきれないところが何とも悲しいところだ。
三Eの教室も、一見平静を装いながら、その実どこか落ち着かない雰囲気で満ちあふれていた──のも、昼休みまでの話。昼休みが終わる頃には、教室全体に悲壮感が漂い始めていた。
「バレンタインなど都市伝説!」
「キャドバリー社の販促活動に協力する必要などどこにもない!」
「チョコなど所詮、糖質と脂質の塊。米と油、すなわちチャーハンで代用できる! チョコを撲滅せよ!」
と、ワケのわからない過激派まで出る始末だ。
一方、三Eのモテない男代表・黒川は、一見余裕があるように見えていたが……
「オレ、チョコレートアレルギーなんだわ。チョコ食ったらじんましん出て、呼吸困難で死んじゃうの」
案の定、震え声でこんなことを言い出す始末である。そばにいた火狩が呆れてため息を漏らした。
「いい加減、正直に認めろよ。一個ももらえなかったって」
「…………火狩のオニ! 悪魔! そんなにハッキリ言わなくたっていいじゃんか!」
机に突っ伏して泣く姿には、さすがに哀れみを感じる北都であった。
「この学校のチョコ、みんな諏訪ちゃんに集まってるんじゃないか?」
「諏訪ちゃんさえいなければ……」
その諏訪は、朝のHRで教室にやってきた時点で、両手にチョコレートを抱えていた。男どもの殺気を含んだ視線などものともせず、むしろ見せ付けるようにして持ってきたあたりが天然ドSと言われる所以だろう。
「あっちはイケメンだし頭はいいし大人だし、もらえない理由がないよな」
「独占禁止法適用! チョコは皆平等に! 今日からここだけ社会主義!」
しかしながら人の愛情において社会主義など通用するはずもなく、資本主義の高い壁の前に敗れ去った黒川はガクリとうなだれた。
「くそー……鯨井ですらもらってるっていうのに」
「お前、今年はまたたくさんもらったな」
北都の机の横に置かれた紙袋を覗き込んで、火狩が感嘆の声を上げる。
確かに女子からもらったチョコも入ってはいるが、それはこの中の少数だ。
「あ、いや、これは……」
どうにも恥ずかしくて切り出しにくい。口ごもっている間に、黒川が紙袋に手を突っ込みだした。
「こんなにたくさんあるんだから、オレに一個くれよ!」
「……やるよ」
「え?」
黒川もまさか本気で返されるとは思っていなかったらしい。驚く火狩と並んで、マヌケな顔を晒している。
「え……ホントにいいの? じゃ、芹沢さんの手作りチョコを……」
「お前にはこっち」
北都が紙袋から差し出したのは、透明な袋の小さな包み。リボンで結ばれた袋に、小さな個包装のチョコが五個入っている。
「これ……何?」
「見りゃわかるだろ。悪魔の実に見えるか?」
「これを……芹沢さんが?」
「ちがう。それは、あたしから」
「……今、なんつった?」
「あたしからだって言ったんだよ」
黒川が思い切り顔を引きつらせて後ずさった。
「……オ、オレを毒殺しようって魂胆か」
ぶち。北都のこめかみに青筋が浮かぶ。
「お前を殺すのにこんな手の込んだことしねーよ。これはクラス全員への、あたしからの義理チョコ」
途端に、教室中がどよめいた。
「鯨井からのチョコ……だと?」
「無差別テロだ!」
「待て、あわてるな。これはホワイトデーを見据えた、孔明の罠だ」
ぶちぶち。
まったく……こいつらときたら、予想通りの反応をしてくれやがる。
「お前らにホワイトデーなんて期待してねーっつの。これだって、五嶋先生に言われたから用意しただけであって、あたしだって最初はやるつもりなんかしてなかったのに」
「義理の上、強制かよ。あの先生も何考えてんだか」
佐倉がやれやれとばかりに呆れる。
黒川のカッと見開かれた目は、完全に略奪者のものだった。
「どんなに貧しくとも、鯨井からの施しなんか受けない! それよりも芹沢さんのチョコをよこせ!」
ぶちぶちぶち、ぶっちん。
北都の怒りは頂点に達した。
「てめーにやるチョコなんかねーよ。これ全部あたしが食べる!」
紙袋を胸に抱え、牙を剥いて略奪者の手を阻む。いらないというものを、ムリに押し付ける必要などどこにもない。
やはりこうなるのだ。五嶋の軽い思いつきのせいで、すっかり金のムダ遣いをさせられてしまった。
多佳子と一緒にあちこち買いまわり、一人であくせく袋詰めして、一袋ずつリボンを掛けるなどという、自分にはおよそ似合わない作業で週末をつぶしたその代償を、一体どこに求めればいいというのか。
「あのクソ担任め……」
と、一人悪態をついたその時。
「もらうぞ」
横にいた火狩が突然手を伸ばし、北都のチョコを一袋つかんだ。
あまりにさりげない動作に、一瞬言葉が出なかった。
「あ……どう、ぞ」
火狩はその場でビニール袋を開け、中のチョコを取り出した。包み紙を開け、口に放り込む。もぐもぐごっくん。
「うん、普通のチョコだな」
「か、火狩……おなか痛くない? 苦しくない?」
黒川が恐る恐るたずねる。
「チョコなんて、誰からもらったって変わらない味だろ」
もぐもぐしながら、火狩は真顔で答えた。
「ないよりはマシだろ。理想じゃ腹はふくれないぞ。もっと現実見るんだな」
火狩はあっという間に食べ切って、歯噛みする黒川を鼻の先で笑った。
「オレももらおうっと」
次に手を出してきたのは野々宮だった。驚きつつも、その手に一袋のせてやる。
「ども。ちょうど甘いモノが欲しかったんだ」
こちらも手際よく袋を開け、包みを開けてチョコを食べ出した。
「せっかくのバレンタインなんだから、ありがたくいただかなきゃね」
「チョコの記録更新っと」
甲斐と土屋が相次いで手を出してきたので、彼らにも手渡してあげた。
「チョコの炊き出し会場というのはこちらですか」
今度は後ろから声をかけられて、あわてて振り返ると、上田、長居、矢島のヲタ三兄弟が並んで手を差し出していた。
「お、お前ら……」
「二次元のチョコを具現化するためには、三次元のヨリシロが必要なんだよ」
「これ、義理なんだろ? 本命じゃなきゃいいよ」
何だかよくわからない理由だが、くれといわれれば断ることもない。
気がつくと、ヲタ三兄弟の後ろに男どもの行列ができていた。いつの間にか、本当にチョコの炊き出し会場になってしまったらしい。
ちょっとしたおやつ代わりにとでも思ったのか、それとも単に情けをかけてくれたのか。まあ理由はどちらでもいいだろう。
正直一人でこれ全部を食べるのはキツかったし、食べ物を粗末にすることもしたくなかったので良かった。
一人ずつ手渡していくと、礼を言ってくれる者もいれば、渋々といった顔をしつつ頭をペコリと下げる者もいる。
そして最後に一つ、チョコの袋が残った。まだ渡していないのは、黒川だけだ。彼は周りを見渡し、自分だけがもらっていない状況に陥っている事に気づいて、苦りきった顔になっている。
「お前はいらないんだな。じゃ、これはあたしが食べ……」
「……ちょーっと待った!」
包みを開けようとした北都は、その手を止めた。
黒川は何かしゃべりたそうに口をごもごもしていたが、何も思いつかなかったと見える。
彼は苦悶に満ちた顔で、黙ってこちらに手を差し出してきた。その様子がやたらおかしくて、北都は溜飲を下げてチョコを渡してやった。
チョコが欲しい気持ちと、己のプライドがずっとせめぎ合っていたのだろう。チョコを受け取った黒川は、半泣きで叫んだ。
「こ、こんなんで喜ぶと思ったら、大まちがいだからね!」
「お前はどこのツンデレだ」
火狩にツッコまれながら、それでも黒川は袋を開け、泣きながらチョコを食べていた。
すったもんだあったが、これでなんとか男子全員に渡すことができた。安堵のため息をつき、横に立つ火狩をチラリと見やる。
「……ありがと」
北都は小さな声で言った。最初に火狩が毒見をしてくれたからこそ、他の男子も後に続いてくれたのだ。
「こちらこそ、ごちそうさん」
言い方は素っ気なかったが、その言葉だけで十分だった。
チョコはあと二つある。放課後にその出番はやってきた。
「はい、どうぞ」
北都がデスク越しにチョコを差し出すと、五嶋は読んでいた雑誌を閉じ、身体をこちらに向けた。
「おっ、サンキュ」
片手で受け取り、チョコをしげしげと眺める。
一応教師なので、三Eの男どもにあげたチョコよりは少しだけ高価な、箱入りのチョコだ。
「やればできるじゃないか。あいつらも全員受け取ったんだって?」
「火狩が助け舟出してくれなかったら、全部自分で食べるハメになるところでしたよ」
そう答えながら、目の前の五嶋は既に包みを開けている。
ふと気配を感じて振り返ると、ソファに座っていたはずの諏訪がニコニコしながら立っていた。
言いたいことはわかるが……イマイチ釈然としない。
「……本当に、欲しいんですか」
「当たり前でしょ。五嶋先生にはあげて、僕にはあげられないって不公平だよ」
口をへの字にした顔は、駄々をこねる子どもそのものだ。
「そんだけチョコもらってても?」
ソファの前のテーブルには、色とりどりのチョコの包みが山積みになっている。諏訪の今日一日の戦果だそうだ。行く先々でもらっただけでなく、諏訪教官室のドアにいつの間にか袋がぶら下げられ、その中にクリスマスよろしく次々とチョコが投入されていたらしい。黒川が殺意を抱く気持ちがよくわかる。
「こんなにもらって、どうするんですか」
「もちろん、全部美味しくいただくよ。ホワイトデーにもちゃんとお返しするし」
これこそイケメンのあるべき姿だろう。これを全部食べたら、鼻血を吹くか体脂肪率が恐ろしい事になりそうだが、その覚悟に敬意を表し、北都も進呈することを決めた。
「……どうぞ」
五嶋に渡したのと同じチョコを差し出す。
「ありがとう。うれしいよ」
そう言って、諏訪は満面の笑みを浮かべた。
今日渡した中で、諏訪が一番うれしそうに受け取ってくれた。イケメンの余裕とでもいうのだろうか、どんな相手でも笑顔で受け取るというのは、モテるために必要なスキルなのかもしれない。黒川あたりには見習って欲しいものだ。
「うん、美味かった」
再び振り返ると、五嶋が箱の中身をすべて平らげていた。中身はたしか洋酒入りのボンボンチョコだったはずだが……
「早っ! もうちょっと味わって食ってくださいよ!?」
「目の前にあると食いたくなるんだよな。ごっつぉーさん」
そう言いながら、包み紙や空の箱をまとめてゴミ箱に突っ込む。こういうガサツなところが女っ気のない一因なのだ──と思ったが、五嶋がゴミをゴミ箱に入れてくれたのは、ちょっとした衝撃だった。普段なら絶対にそのままで、片付けるのは自分の仕事なのに。
「なんだかんだいって、うれしいんだよ」
目を見張る北都に、諏訪は小声で耳打ちした。
うれしいならうれしいで、もうちょっと表現の仕方もあると思うのだが。まあ、そんなことをこの人に求めてもムリだろう。
バレンタイン騒動も落ち着いた翌日。
兵どもが夢のあと──と言わんばかりに、学内のゴミ箱にはチョコの包み紙が捨てられている。学校前のコンビニでは、売れ残りのチョコが半額で売り出され、昨日の配給にありつけなかった者はそのチョコで飢えを凌いでいる有様だ。
それでも平穏を取り戻し、三Eもいつもと変わらない一日を過ごした。
今日は、五嶋が午後から出張ということで、北都の仕事は部屋の片付けと電話応対くらいなものだ。やらなくてもいいとは思うが、今日は特に遊ぶ約束もなく、レポートも出した直後なので、時間の余裕はたっぷりとある。
五嶋教官室の鍵──これを預けられている時点でどうかと思うが──をクルクルと回しながら、三階から二階へ階段を下りてくると、教官室前の廊下に見慣れぬ人影があった。
五嶋の部屋の前に、じっと佇む女性が一人──北都は反射的に陰に隠れ、そこからそーっとのぞき込んだ。
ダウンコートに細身のパンツ、そしてロングブーツというカジュアルファッション。長い黒髪をキレイにまとめ、端正な横顔を晒している。遠目にも、美人であることがよくわかる華やかな顔だ。だが、その美しい顔に笑みはなく、無表情の中に負の感情を感じさせる。
誰──うちの学生にはない、大人っぽさがある。黒川の話を聞いたからだろうか、キャバ嬢っぽい印象を受けたのは確かだ。
彼女はドアをノックするわけでもなく、ただじっと五嶋の部屋のドアを凝視していた──かと思うと、突然ひらりと身を翻し、廊下の向こう側へと歩き出す。
あの人は、ドアの前で一体何を──まさか?
彼女の姿が見えなくなったのを確認して、北都は廊下へと飛び出した。そして急いで五嶋の部屋の前へと駆け寄る。
「やっぱり……」
ドアにはいつものように、罵詈雑言の張り紙が貼られていた。今日は【猥褻】【女の敵】【恥を知れ】の三枚だ。
もしや……あの人が貼ったのか?
貼る現場を見たわけではないが、見たことのない顔といい、あの表情といい、怪しい人物にはまちがいない。
北都は急いで紙を剥がすと、女性の後を追いかけた。




