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その後も、五嶋教官室に対する張り紙やゴミなどの嫌がらせは続き、そのたびに北都が紙を剥がし、掃除して片付けている。
今や他の学生や教職員にも知れ渡るところとなったが、未だ犯人は捕まらず、その尻尾すら見えない状況だ。
一向におさまらないところを見ると、五嶋は徹底的に無視を決め込む作戦のようらしい。
授業が終わり、諏訪のところにレポートを出しに行くという火狩と一緒に二階へ降りると、今日もまた五嶋の部屋の前には張り紙があった。
ため息をつきながら近づくと、張り紙の様子が今日は少しちがった。紙に単語ではなく文章が書いてある。
【罪を悔い改めよ】
「罪?」
北都は首をかしげた。
「なんか宗教じみてきたな」
火狩は腕組みしながら、張り紙を眺めている。
「罪って言われても、あの人の罪なんて山ほどあるだろ」
「ですよねー」
単語だけではネタが尽きたのだろうか。
悔い改めろというのなら、もっと具体的に示してもらわないと。どこから手をつければいいのか、こちらとしても対処に困る。
「っていうか、言いたいことあるなら、堂々と出てこいっつーの」
陰からコソコソと悪口を貼るだけで、自分は絶対に姿を見せない。五嶋にも悪いところはあるが、それ以上に犯人の陰湿さに腹が立つ。北都がもっともキライなタイプの人間だ。
「出てきたら出てきたで、お前がボコボコにするんだろ」
「当たり前だろ。どこのどいつか知らんが……見つけたら絶対に落とし前付けさせてやる」
はがした紙をビリビリと破りながら、北都は一人牙を剥いた。横で火狩がドン引きしているようだが、知ったことではない。
教官室に入り、今日も元気に秘書業務に励んでいると、五嶋がフラッと部屋を出て行った。トイレにでも行ったのだろう。机の下を掃除するチャンスだ。
今だとばかりにイスを引っ張り出したところで、電話が鳴った。取ると学外からの転送電話のようで、呼び出し音に切り替わった後、相手に繋がった。
「もしもし」
携帯電話からなのか、やたら騒々しくて声がよく聞き取れない。仕方なくこちらから続けた。
「こちら五嶋教官室です。五嶋はただいま所用で外出しておりますが、ご用件がございましたらお伺いいたします」
電話応対もすっかり様になってきた。
だが、ノイズだらけの合間で聞こえてきた声は、地の底から響くようなおどろおどろしい低音だった。
『……ツミ……』
ドキリとする単語が耳に届いて、心臓をつかまれたような気がした。
『……ソッチ……イク……』
「え……何、何ですか?」
怖い単語ばかりが聞こえてきて、聞きなおすが途切れ途切れの状況は変わらない。
『シネ……』
そんな言葉が聞こえて、電話はプツリと切れた。
思わず手にした受話器をじっと眺めるが、その向こうに相手が見えるわけでもない。薄気味悪さを残して切れた電話に、北都は言いようのない胸騒ぎを覚えた。
それでも【逃げる】二月は、勝手に進んでいく。
三月に入ればすぐに春休みになるため、この時期に学年末試験が行われる。一人でも赤点を取るものを減らそうと、北都は成績不良者のケツを叩いて回った。今月末には追試験という救済措置もあるが、危ない橋を渡らないですむに越したことはない。
そんなさ中でも、二月の大イベント・バレンタインデーはやってくる。
もちろん、北都にはそんなものは関係ない……といいたいところであるが、もらうほうの立場として、まったくの無関係とも言えないところである。昨年も、希や多佳子をはじめとする数人の女子からチョコをもらい、勉強するときの糖分補給として美味しくいただいたのだ。もちろん、ホワイトデーにはちゃんとお返しを贈っている。
当然ながら、チョコを誰かにあげたことはない。巷では【友チョコ】なるものも流行っているようだが、女同士でも自分があげるほうの立場に立つことが想像できなくて、いつももらう一方だ。
「なんですか……この手は」
バレンタインデーを翌週に控えた金曜日。学年末試験も終わり、ひとまず大仕事を終えた北都に、五嶋の手が机越しにまっすぐに差し出された。
「そりゃもちろん、チョコくれってことだよ」
目をパチクリ。呆れるよりも驚いた。
「……こんなにストレートに、チョコ請求されたの初めてなんですが」
こんな自分からチョコをもらいたいという奇特な人間など、この世には存在しないと思っていたが、案外近くにいたようだ。
「いっつもいいもん食わしてやってるだろ? 年に一度のチョコぐらい、いいじゃない」
「あたしがそういうガラに見えますか?」
「そう言うなって。だって義理チョコくれそうなの、お前くらいしかいないんだもん」
なるほど。
確かにこの男なら、義理でもそうそうもらえる気がしない。くれたとして、保険の外交のおばちゃんが関の山だろう。
チョコをねだられるなんて滅多にない機会だし、たまには恩を売ってやろうか。面倒に思いながらも、北都は一つ息をついた。
「しょうがないですね……じゃ、一個だけ買ってきますよ。どんなのでも文句言わないでくださいね」
「……一個だけ?」
突然、ソファで書類を整理していた諏訪が重い声を上げて振り返った。
「僕にはくれないの?」
北都はあっけに取られた。
「何言ってるんすか。諏訪先生は、両手に抱えきれないほどのチョコをもらうのが目に見えてるでしょう」
「そうかもしれないけど」
認めるんかい。
「僕だって、鯨井さんのために色々してあげたんだし、チョコもらう権利はあると思うんだけどなぁ」
「どんだけ欲張りなんですか」
北都は呆れたが、諏訪は本気で不服そうだ。
「男ってのは、いくつになっても子どもっぽいもんだ。『チョコが欲しい』って素直に言えるだけ、あいつらに比べたら大人ってことさ」
五嶋はもっともらしく言うが。
「どこが大人なんですか。完全にダダこねてる子どもじゃないですか」
まったく、この大人二人は……
まあいい。せいぜい、ホワイトデーにたっぷりとお返しをしてもらおう。
「わかりましたよ。じゃあ二個……」
「ちょうどいい。あいつらにもチョコやれば?」
五嶋のセリフに、北都は今度こそ目が点になった。
「は? あいつらって……ウチのクラスの男どもにですか? 二十九人いるんですよ?」
「十円のチョコでもいいんだって。こういうイベント事に素直になれない少年たちに、少しはあったかい思いさせてやれよ」
「イヤですよ! あいつら、絶対文句たれるんですから。あたしからのチョコなんていらないって」
黒川は絶対に言う。チョコを賭けてもいい。
火狩はバカにしたように笑い、ヲタ三兄弟は『三次元乙』と相手にしてくれないだろう。土屋は取り巻きの女子からもらえるし、他にも女子からもらえそうなヤツもいる。
自分が渡す意味など、どこにもないのに。
「そりゃかわいい女の子にもらえたらうれしいでしょうけど、男にしか見えないあたしからもらったって、あいつらだって微妙に思うだけですよ」
そんなムダなものに使う金などない。二十九人分用意するだけでも大変なのだ。
「たとえ義理でもお前からでも、バレンタインデーにチョコがないよりあったほうがいいに決まってんの。よし、決定」
「何勝手に決定しちゃってくれてるんですか!」
異議申し立てしてみるものの、五嶋が裁定を下したものを覆すことがないことはよくわかっている。
もはや話を聞く耳も持たないといった体の五嶋を眺めて、北都は深い深いため息をついた。
女子寮の中も、バレンタインデーの話題で持ちっきりだ。
夕食時、希ともその話になった。
「希先輩、チョコ、手作りするんですか?」
「もちろん! 諏訪先生には特製のスペシャルチョコよ」
希はせり出す大きな胸をさらに張った。
「でもウチの学校、調理室なんてないですよ?」
「寮の食堂使わせてもらうのよ。焼き物はできないけど、溶かして固めるのは得意なんだから」
「コンクリじゃないですから」
買うのも億劫なのに、手作りとは頭が下がる思いだ。
他の女子たちも、やれどこのチョコが美味いだの、誰それに何個用意しなければならないだの、それはそれは楽しそうに話している。
男子にとってはステータスに直結する重要なイベントであるが、女子にとってはチョコを選んだり作ったりするところから楽しめる、楽しいイベントなのかもしれない。北都にはよくわからないが。
次の休日、北都は多佳子とともにバスに乗って、粉雪の降る街へと出た。チョコなんて学校前のコンビニで買えばいいと考えていたのだが、ショッピングセンターの特設売り場まで買いに行くという多佳子に、ムリヤリ連れてこられたのだ。
「せっかくあんたが女っぽい事に目覚めたんだから、これを逃す手はないでしょ」
先を行く多佳子が、意気揚々とこちらを振り返る。トボトボとついていく北都は渋い顔で答えた。
「別に目覚めたわけじゃなくて、むしろ脅されたんだけど」
「まあいい機会なんじゃない? こういうことの一つも覚えておかないと、大人になってから苦労するわよ」
この期間だけ、特別に設けられたチョコ売り場は、北都の目には戦場に映った。
どこもかしこも女性ばかりで、かしましいというかやかましい。外の寒さとは裏腹に、この空間だけはむわっとするような熱気に満ちあふれ、チョコの甘ったるいニオイとともにある種の異空間を形成している。
ここに突入していくのか──と思うと、途端に憂鬱な気分になってきた。
別行動になり、戦場に攻め入る多佳子を尻目に、自分はどうしてもあの熱気の中に入っていけない。しかたなく、北都は辺りをブラブラと歩き始めた。
大型ショッピングセンターだけあって、どこもかしこも人があふれている。だが、チョコ売り場を離れれば、それほどのかしましさはなく、ゆったりと見て歩けるほどの余裕があった。
洋菓子や輸入食料品、スーパーをゆっくりと見てまわるが、どれもこれも高いものばかりで手が出ない。頭を悩ませていた北都の目に、ふと救世主とも言える物体が映った。
「ああ! これでいいや」
レジ待ちの長蛇の列に並んでいると、遠くに自分を探す多佳子の姿が見えた。
「おーい、多佳ちゃん」
手を振ると、ホッとしたように多佳子が近づいてきた。
「あんた、こんなとこで何…………って、ちょっと北都、何それ!」
多佳子は北都が抱えていたものを見るなり、目を三角にした。
「何って……袋入りのチョコ。三十個以上は入ってそうだし、これ教室に置いときゃいいだろ」
右手に抱えた大袋入りのピーナッツチョコ。これなら大人数相手でも安く抑えられるし、ラクでいい。
これ以上ない名案だと思っていたのだが……
多佳子は呆れたようにため息をつき、北都の袖を引っ張ってレジ待ちの列から引っ張り出した。
「あのねぇ……いくらなんでも、これはないんじゃない? 男子はエサ置いときゃ勝手に食べる家畜じゃないのよ」
「あいつらなんて、どうせあたしからのチョコなんて食べないんだから」
「渡すほうがそういう気持ちでいると、受け取るほうもぞんざいになるわよ」
「……そうかなぁ?」
北都が怪訝な顔をすると、多佳子は自信たっぷりに答えた。
「そうよ。たかが義理、されど義理」
義理には義理の作法というものがあるらしい。
多佳子の言うことにもうなずける部分もあるのだが、一人ひとりに高いものを買っていたら、自分の財布が崩壊してしまう。
悩ましい問題に、北都が頭を抱えていると。
「とはいえ、確かに二十九人プラス二人は予算的にキツイものがあるよね……よし、じゃああたしが手伝ってあげる」
そう言って微笑む多佳子が、妙に頼もしかった。
二人であれこれ意見を交わし、値段との折り合いをつけながら、三十一人分のチョコを何とか耳をそろえて用意できるめどが立った。
気がつけばもう日が暮れている。ランチ前に来たので、ゆうに五時間はここにいた事になる。足もだるくなるわけだ。
「北都、行くよー!」
「はいよー」
出口に向かう多佳子を追いかけて、紙袋を提げた北都は歩き出した。
と、その時、すれちがった男の子のポケットから手袋が落ちたのが見えた。
「手袋落としたよ」
拾い上げて振り返ると、その子も気づいたのか、足を止めてこちらを振り返っていた。
小学生だろう。顔は幼いながら、背の高い北都を見上げるその目には妙な力がある。
「……男? 女?」
少年に唐突に聞かれて、北都は言葉に詰まった。
「え……あ、女……だけど」
「おねえさん、キレイだね!」
少年はそう言って、屈託なく微笑んだ。お世辞とはわかっていても、子どもから言われるとそう悪い気もしない。
「えっ……そ、そう?」
「……ウソに決まってんじゃん!」
少年はバカにしたように笑って、ペロリと舌を出して走り去っていった。
あっけに取られ、怒ることも忘れて呆然と少年の背中を見送る。見えなくなって、ようやく我に返った。
「礼もなしかよ!」
怒るところはそこじゃない──と気づいたものの、もはや後の祭り。
それにしてもあの目……誰かに似ているような?
案外、三Eの誰かの弟だったりして。今度どこかで会ったら、名前吐かせてやる!




