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こうせん!  作者: なつる
第9話  人の弱みはチョコの味(2月)
63/71

 そんなある日。今シーズン最低の気温を記録した寒い寒い日に、事件は起きた。

 いつものように仕事をしようと五嶋の部屋に向かった北都は、教官室のドアの前で息を呑んだ。


「……何これ」


【悪魔】

 A4の紙にプリントアウトされた、大きな二文字。

 それが五嶋の部屋のドアに無造作に貼られていたのだ。

 学生のイタズラだろうか……学内での落書き事件はたびたび見受けられるが、そのどれもが暴走族に毛が生えた程度の稚拙なものばかりだ。

 だがこの張り紙は、もっと別のまがまがしさを感じる。五嶋への恨みを思わせるものだが……

 北都は迷った末に、その紙を剥がし、握りしめて教官室のドアをノックした。


「先生……ドアの外にこんなものが」

 週刊誌を読んでいた目をこちらに向けた五嶋に、北都は紙を広げて見せた。

「……あれまあ」

 紙に書かれた文字を見ても五嶋はまったく動じていない。学生の〇点のテストでも見せられたかのように、ニヤリとした笑みさえ浮かべている。予想通りの反応だ。


「……どうします?」

「単なるイタズラだろ。ほっときゃいいよ」

 もう興味はないとばかりに、五嶋はまた週刊誌に目を落とした。敵も多く、恨みを買うことも多いであろうこの男が、この程度の中傷で動くはずがない。自分が浴びせる罵詈雑言のほうがよっぽどキツイはずだ。

 大方、学生がプログラミング実習中にふざけてプリントアウトした紙を、通りすがりに貼っていったのだろう。

 北都はやれやれとばかりに紙を丸めてゴミ箱に捨てた。




 だが翌日。


「えっ……」

 五嶋教官室の前に立った北都は絶句した。

 部屋のドアに、また紙が貼られていたのだ。

 今度は【横暴】【人でなし】【鬼畜】と三枚。どれもこの間北都が投げつけた言葉ばかり。自分が貼ったのかと錯覚さえ覚えてしまう。

 引きちぎるように紙をはがして、北都はドアを勢いよく開けた。


「先生!」

 焦る北都に対し、五嶋は気だるそうに顔を向けた。

「どうした?」

「また紙が……今度は三枚も」

 北都は三枚の紙を机の上に置いた。

「よっぽどヒマもてあましてるのかねぇ。まあいいや。捨てといて」

 やはり五嶋は興味なさそうだ。

「あの……わかってます? これがドアの外側に貼られてたんですよ?」

 二日連続、しかも数が増えている。イタズラにしては度が過ぎるし、計画性も感じられるものだ。いくらなんでも、これを放置するのは学校的にマズイのでは……

「いつもお前に似たようなこと言われてるし」

「確かにそうですけど……」

 閉口する北都を笑うように、五嶋は唇の端を吊り上げた。

「犯人を突き止めろって言いたいの? オレがそんなメンドクサイことすると思う?」

「しませんね、はい」

 こちらの心配をよそに、五嶋は悠々と新聞を読んでいる。

 別に自分が悪口を言われているわけではないのだが、こうも他人事のような態度を見ていると、こっちがイライラしてしまう。

 犯人もきっと同じ思いをしているのかもしれないと考えると、それもまた五嶋の作戦なのかもしれない。

 だがこのイラ立ちを放置できるほど、今の北都に気持ちの余裕はなかった。




 そのまた翌日も、張り紙があった。

【卑劣】【独裁者】【低俗】

 しかも今日は、張り紙だけにとどまらず、丸めた紙のゴミまで散らかされていた。

 これだけの嫌がらせをされても、それでも五嶋は落ち着き払っていた。一人泰然自若とし、傍でイラ立つ北都すらあざ笑うかのようで、非常に腹立たしい。

 犯人に怒っているのか、五嶋に怒っているのか。散らかされたゴミを掃除しながら、自分でもわからなくなってきて、北都は五嶋がいない時間を見計らって諏訪の部屋をノックした。


「失礼します」

 部屋にはいると、諏訪は書庫の整理をしていた。

「諏訪先生、あの……五嶋先生から何か聞いてます?」

「何かって……何?」

 怪訝な顔をする諏訪。この分だと、何も聞いてないのだろう。

「おとといから、五嶋先生の部屋のドアに、妙な張り紙があるんです」

 北都は計七枚の張り紙について、諏訪に説明した。

「ホント? 五嶋先生、そんなことは一言も……昨日、教官会議あったけど、そこでも何も言ってなかったよ」

 諏訪は、信じられないとばかりに顔を曇らせた。

 教官会議の席でも、張り紙についての話題が出なかったと言うことは。

「他の先生の部屋に貼られてたって事もないんですね? じゃあやっぱり、五嶋先生を狙って……」

「張り紙について誰も知らないってことは、君が見つけるまでの短時間の犯行ってことだね」

 諏訪の言葉に北都はうなずいた。

「二階は小さい実験室と教官室だけで、あまり人通りはないんだよね。しかも学生だけじゃなくて、企業の人や業者さんも来るし、小さな子ども以外なら誰が歩いてても不思議じゃない」

 それは確かだ。今日、ここに来るまでにも、スーツを着た年配の男性とすれ違い、会釈をしたところだ。多分納入業者だろう。庶務課を通すこともあるが、常連の業者だと直接教官室や実験室にまで持ってくることもある。

 電気棟入り口に受付があるわけではないので、一般人でも他科の学生でも、誰でも入れる状態。つまりは……犯人を絞り込むことは至難の技と言うことだ。


「悪い人じゃないんだけど、敵も多い人だからね……」

 諏訪は眉根を寄せた。犯人として、心当たりのある人間も多いと言いたいらしい。

「だからって放置してていいんですか? マネする人間だって出てくるかもしれないのに」

 いくら五嶋が寛容とはいえ、これでは学生に示しがつかないだろう。学校側としては注意を促すとかなんとかすべきではないのか。


「ずい分と五嶋先生のこと心配するんだね」

 諏訪の言葉に、北都はムッとした。

「別に心配なんかしてませんよ。あの人自身がまいた種でしょう…………なんですか、その目は」

 いつも以上に笑みをたたえた諏訪の目。

「いや、優しいなぁって思って」

「そういうのじゃないです。ただ、こっちがイライラモヤモヤしちゃって、気持ち悪いんですよ」

 誰だって、あんなデカデカと書かれた悪口を見たらドキッとするし、イヤな気分にもなるだろう。

 五嶋が何も感じていない分、そのダメージがすべて自分に流れてきているようで、ことさらざわつき、ムカつくのだ。


「この間言ってた、五嶋先生の【触れられたくない過去】……それが関係してるってこと、ありませんか」

「えっ?」

 諏訪はあからさまに顔をこわばらせた。

「過去にヒドイことやって、それでものすごい恨み買ってるんじゃないんですか? たとえば、自分の秘密を知った学生を退学に追い込んで、その人が復讐にきてるとか……」


 五嶋を非道な人間だとは思いたくない。思いたくないからこそ、不安になる。

 不安に思うのは、五嶋のことを何も知らないから。何も知らないからこそ、信じるに足るものを見つけたくなるのだ。

 そんな思いが顔に出ていたのだろうか。諏訪の固かった表情が緩み、こちらを安心させようとしているのがわかった。


「大丈夫だよ……鯨井さんが心配するようなことは、何もないから。ゴメン、あれはちょっと思わせぶりだったね」


 その言葉をそのまま受け取ることはできなかったが、謝ってきた諏訪の様子に、北都はうなずいて一応の納得を見せた。

「誰かのイタズラにしろ、恨みによる犯行にしろ、放置してるのはきっと五嶋先生なりに考えがあってのことだと思う。あの人が完全な無策なわけないよ」

 確かにそうなのだが、敵どころか味方も簡単に欺きそうな五嶋を、どこまで信用していいのかわからなくなっている。

 諏訪は書庫のガラス戸を閉めながら言った。


「僕も注意して見ておくよ。何か気づいたことがあったら、君にも教えるから」

「はあ……」

「君が心配してたことは、ちゃんと五嶋先生に伝えておくね」

「余計なこと言わんでいいです!」

 ニッコリと笑う諏訪に、北都は目を剥いた。

「君のためにも、早くおさまるといいんだけどね……」

 まったくもってその通りだ。五嶋には何のダメージも与えられていない、まったくのムダな行為だということに、犯人も早く気づいて欲しい。




    ◇




「鯨井さん、心配してましたよ」


 帰宅前。

 五嶋の部屋に立ち寄った諏訪の言葉に、部屋の主は読んでいた新聞からわずかに目を上げた。

「モテる男はつらいよ、ってか」

 皮肉に冗談で返すあたり、張り紙の件はまったく気にしていないらしい。

「早急に手を打ったほうがいいですよ。鯨井さんの胸が心配事でつぶれちゃいます」

「えー、めんどくさい」

 まったく、天邪鬼な言い方をする人だ。

「先生のことだから、犯人の見当はついてるんでしょう?」

「いや、全然」

 しれっと言い放つ五嶋に、諏訪は目を見開いた。

「え……何か策があって放置してるんじゃ……」

「あると言えばあるけど、ないと言えばない」

 五嶋は新聞を畳むと、イスの背もたれに深く寄りかかってこちらを見上げた。曖昧な答えに不満を表した自分をからかうような顔だ。


「ああいう類のものは、騒げば騒ぐほど相手の思う壺なんだよ。だからほっとくのが一番」

「それは一理ありますが……」

「どうせお前も、心当たりなんて腐るほどあるって思ってるんだろ?」

 図星を指されて、諏訪は辟易した。


「でも、それじゃ鯨井さんが……」

「不安になるようなことを言ったのはお前だろ?」

「それは……言葉のあやと言うもので……」

 確かにあれは言いすぎだった。うまいはぐらかし方が思いつかなくて、ついついあんな言い方をしてしまったのだ。そこは素直に反省している。


「だって、あのことを言うわけにはいかないでしょう?」

「オレの──【罪】ってヤツをか?」


 五嶋自身の口から漏れた【罪】と言う言葉は、ことさら重く響いた。

 五嶋はざらつくあごをなぞりながら、自嘲ぎみに頬を歪めた。少しは思うところがあるようだ。

「お前や周りがタブー視してるだけで、オレは隠してるつもりないんだけどね。直接聞かれれば答える準備はあるよ」

 あの件について、五嶋がウソをついたり隠し事をしたりということはない。

 今まで誰も口にする者がいなかったから、しゃべらなかっただけなのだ。

 あの時、五嶋が犯した罪──今、この学校でそれを知る者は、当時からいた教職員ぐらいなものだろう。


「鯨井さんや学生に知れたら……本気で軽蔑されるかもしれないとしても?」

「しょうがないよ。そういう道を選んだのはオレ自身だからな」


 逃げる道もあった。だが、五嶋は自ら茨の道を進むことを選んだのだ。そして、五嶋にその覚悟を決めさせたのは、何を隠そう諏訪自身である。

 当時を思い出し、諏訪は深く嘆息した。


「……正直言って、よく辞めさせられなかったなって感心しましたよ」

「そこはほれ、お前らと國村先生のお力ってヤツだよ。足を向けて寝られないねぇ」

 さすがにあのときばかりは五嶋も辞職を覚悟したというが、周囲は敵ばかりの中でただ一人、五嶋の味方になったという國村教授には、一体どんな考えがあったのだろうか。

 結果、五嶋を辞めさせないという決断を下した当時の校長にとっては、苦渋の決断であっただろう。そう言えば、あの時の校長は誰だったっけ……


「でも本当に、いずれバレる時はきますよ。あの人がいつまでも黙っているわけがないです」

 そのセリフに、五嶋はピクリと眉を動かした。余裕のある笑みを浮かべていても、さすがに動揺を隠しきれなかったらしい。


 これこそが五嶋の【罪】そして【弱み】──下手に触れれば、学校全体を揺るがしかねない、恐ろしい事実。だからこそ、真実を知る者は口をつぐむのだ。

 五嶋は【弱み】だとは認めないだろう。だが、諏訪が知る限り、唯一にして絶対的な弱点である。


「ありがたい忠告だな。肝に銘じとくよ」

 五嶋は目をそらすと、また新聞を開き始めた。


 部屋を辞して、諏訪は玄関に向けて廊下を歩き出した。

 窓から見える中庭は真っ白な雪が深く積もり、見上げれば真っ暗な空からも大粒の綿雪がふわりふわりと落ちてきている。


 そういえばあの日も……こんな雪が降ってたっけ。

 あの時の五嶋と同じ立場に立った今、彼の決意がどれほど重く苦しいものだったかがよくわかる。

 あれから随分と月日が経った。五嶋は【罪】と言ったが、あれが罪ならば──もう許されてもいい頃ではないだろうか。


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