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こうせん!  作者: なつる
第9話  人の弱みはチョコの味(2月)
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「さむっ……」

 教務課を出た瞬間、廊下に漂う冷たい空気に、北都は軽く身震いした。ここは玄関に近いからか、外の冷気が直に伝わってくるようだ。


 二月に入り、寒さはより一層きつくなってきている。今朝も最低気温がマイナス二十度を下回ったとかで、寮から学校までのほんのわずかな距離ですら、外に出るのが辛かった。

 明日もまた冷えそうだな──と、茜色から薄墨色に変わる空を眺めながら、電気棟二階へ戻ってくると、五嶋の部屋のドアが開き、誰かが出てくるのが見えた。


 電気電子工学科主任、神山教授だ。

 常に渋りきった顔で、神経質そうな性格をあらわしていると思う。頭髪が薄いのは、主任として担う責任の重さからだろうか。

 神山教授と目が合った。一礼する北都に対し、神山教授はこちらを一睨みした後、プイと顔を背けて自室へと戻っていった。今日もまた機嫌が悪そうだ。その原因はもちろん……


 五嶋の部屋に入ると、部屋の主は机の向こうに悠々と鎮座し、両手でスポーツ新聞を広げていた。


「教務課に書類置いてきましたよ」

「サーンキュ」

 北都が声をかけると、五嶋はこちらも見ずに間延びした返事を返してきた。何事もなかったかのような風体だが。


「神山先生、何の用だったんですか? ずいぶんご立腹のようでしたけど」

 たずねると、新聞の上から五嶋のイタズラっぽい目が覗いた。

「さっき、トイレでタバコ吸ってるとこを神山先生に見つかっちゃって、怒られちゃった」


 あ然──何というしょーもない理由だ。

 北都は深々とため息をついて見せた。

「呆れた……トイレでタバコって、学生じゃないんですから」

「だって、喫煙所遠いんだもん」

 五嶋はまったく悪びれていない。

「言い訳になってないです」

「この部屋ももっとキレイにしろってさ」

 まるで他人事のように話す五嶋に、北都の堪忍袋の尾はカンタンに弾け飛んだ。

「あたしが片付けるそばから散らかしてるのは、どこの誰ですか」

 神山教授も、この部屋を掃除しているのが北都だと知っているはずなのに、それを全否定してくれるとはいい度胸をしている。

「『鯨井も忙しいみたいで』って、ちゃんと言ったんだけどね」

 と、五嶋は暢気に言うが。

「それがわかってるんなら、ちょっとは自分で片付けてくださいよ!」

 北都はこめかみに青筋を立てた。


「あたしにだって、宿題やら実験レポートやら、色々やらなきゃならないことがいっぱいあるんです。五嶋先生の面倒ばっかり見てられないんですよ!」


 どれだけ怒ろうが、所詮は右から左。のれんに腕押し、ぬかに釘、豆腐にかすがい。ムダであることはわかっている。わかっているのだが、声を上げずにはいられないのだ。

 花の十八歳、これでも人並みに遊びたい欲もある。ここで片付けに追われ、寮に帰って提出物に追われるだけの毎日など真っ平ゴメンだ。もう少し、平日に余裕が欲しいのだが……

 案の定、五嶋は喉の奥で笑って、仁王立ちになる北都を見上げた。


「まるでオレが強制しているみたいな言い方じゃないか。あれは合意の上じゃなかったのか?」

 えげつない言い方に、北都は頭から湯気を立ち上らせた。

「合意じゃない! あれは脅迫!」

「別にやりたくなかったらやらなくてもいいんだよ」


 自分がここを片付けなければ、そのしわ寄せが今度はすべて諏訪に行くことは目に見えている。諏訪も仕事を抱えている身なので、片付けにばかり時間は割いてはいられないだろう。

 一気に腐海と化す教官室が目に浮かぶようで……

 北都はガックリと肩を落とした。何とか人が生活できるレベルにまで改善されたこの部屋を、今更腐海に貶めることなど、自分にはできない。

 そんな北都の性格まで、五嶋は見抜いていたのだろう。だから級長にして、秘書にまで仕立て上げたのだ。

 担任のあくどいやり口に、北都はありったけの罵りの声を上げた。


「横暴! 悪魔! 人でなし! 鬼畜!」


 そんな北都の声を新聞紙でかわしつつ、五嶋は懲りずに指図してきた。

「そこの回覧板、諏訪のところ持ってって。期限今日までだから」

 回覧板を確かめると、確かに何やら申し込み期限が今日までになっている。

「そういうことは早く言ってくださいよ!」

 北都は回覧板を抱え、慌てて五嶋教官室を出た。


 自分にはなんら関係ないのに、こういうのは放置できない性分である。つくづく、自分がイヤになってくる……

 隣の諏訪教官室に入ると、諏訪は苦笑で出迎えてくれた。

「派手にやりあってたね」

 さっきの声が筒抜けだったようだ。北都は疲れきったため息を漏らしながら、諏訪に回覧板を手渡した。


「あの人……ホント、何なんですか」

「……今日はまた一段と疲れてるね」

 その原因の半分くらいは、あんたからつき返されるレポートだ──とは口には出さなかった。

「あれで准教授っていうんだから……この学校、いったいどうなってるんですか。あの人が研究してるところ見たことないですよ」

「教員の世界も、人間関係で動いている部分が少なからずあってね。研究成果だけが評価される世界じゃないってことだよ。まあでも、五嶋先生はどっちかっていうと昇進には興味ないと思うけど」


 五嶋のことだから、きっと上司の弱みを握って……とも思ったが、確かに諏訪の言うように、さほど昇進や地位にこだわっている感じもしない。

 生きたいように生きてきたら、いつの間にかあの地位にいた……というのが一番しっくりくる。長生きしてたらいつの間にか仙人になってました、みたいな。

「それにね。一応、あれでもH大の博士なんだよ」

「ええっ!? いいとこ修士だと思ってました……」

 H大とは北海道を代表する国立大学で、この学校からも毎年成績上位の数名が編入している。かく言う北都も、進学先の一つに考えている大学だ。

 近年の新規採用教員は博士号を持つ者がほとんどらしいが、一昔前までは修士や学士でも教員になれたらしい。五嶋もそのクチだと思っていたのだが。

「どんな奥の手を使ったんだ……」

 今はともかく、昔は博士課程に進むのもカンタンなことではなかったはずだ。

 イマイチ信じられない北都に、諏訪は穏やかに微笑んで見せた。


「奥の手を使ったかどうかはわからないけど。おそろしくめんどくさがりってことを除けば、五嶋先生は立派な先生だよ」


 その意見には、どうしてもうなずくことができない。

 いいところもあるとは思うが、いかんせん悪い部分ばかりが目に付いてしまう。こき使われるだけならまだしも、先日のようにオモチャにされてはたまったものではない。

 いつも苦しめられているのだから、どうにかしてあの担任に一泡吹かせてやりたい──

 ふと、北都の頭にひらめくものがあった。


「五嶋先生って……弱み、ないんですかね」


 五嶋に弱みを握られているのなら、こちらも五嶋の弱みを握ればいいのだ。安直かもしれないが、これくらいしか対抗手段が思いつかない。

「え!?」

 目の前の諏訪がギョッとした顔になっている。

 北都は机に手をつき、畳み掛けるように諏訪に迫った。

「諏訪先生、付き合い長いんでしょう? 何かないんですか」

「い、いや……その……」

 諏訪はのけぞり、口篭っている。この反応──何か知っているにちがいない。

「何!? 何なんですか!」

 掴みかかる勢いでさらに迫ったが、諏訪は落ち着きを取り戻して首を横に振った。


「世の中、知らないほうがいいってこともあるんだよ。【藪をつついて蛇を出す】って言うでしょ?」

 余計なことをして、大きな災禍を招くという意味の故事成語だが……妙に意味深な言葉だ。


「五嶋先生にだって、触れられたくない過去がある。下手に触れれば、みんなが悲しい想いをする事になるんだ」


 触れられたくない過去──あの能天気そうな担任に、そんなものがあるなんて想像もしてみなかった。

 それが五嶋の弱みなのだろうか。だが諏訪の口ぶりでは、軽い気持ちでつつくにはあまりにも危険すぎるものであるらしい。

「で、でも……」

 思わぬ反応にひるみつつ、なおも食い下がってみたが。

「悪いこと言わないから、下手なことは考えないほうがいいよ」

 真剣に諭してくる諏訪に、北都はそれ以上何も聞けなかった。





 はたと考えてみれば、五嶋のことを何も知らないことに気づく。

 この学校の准教授で、自分たちのクラスの担任。四十代半ばで、ひどく人づかいが荒く、おそろしくめんどくさがり。

 自分のこの目で見た実像以上のことは、何も知らないのだ。北陵市のどの辺に住んでいるのかも、家族がいるのかすらわからない。所詮は担任教師、学生の側からしてみれば、知らないことなど多くて当たり前かもしれないが。

 五嶋がこの学校の【陰の支配者】であるというのも、実はウワサの域を出ないものだ。実際彼が何をやり、どんな力を持っているのかなど、もちろん知る由もない。

 そのくせ、恐ろしいまでの千里眼、地獄耳で、学校のことも学生のことも何でも知っている。イスにどっかりと座ったまま動こうとしない超不精者なのに。


「ニューラルネットワークとは、脳の神経細胞ネットワークを模倣した情報処理モデルである。神経細胞ニューロン同士が結合する部分をシナプスというが、その信号伝達の効率は一定ではなく、シナプスによって変化する。これらの特性をコンピュータ上で表現し、学習機能を持たせたものがニューラルネットワークであり……」


 受け持つ計算機工学の授業も、教科書をそのまま読むだけ。板書することもあまりないズボラさだ。学生の立場としてはラクでいいが、教師としてはどうなのかと思う。

 いつもよれよれのシャツに、だらしなくぶら下がったネクタイ。年中裸足に便所サンダルでペタペタと歩いている。

 常に無精ひげ面で、髪型も同じテキトーオールバック。冴えない中年おっさんのテンプレートみたいだ。

 この姿を見ていると、五嶋は実は学校に住み着いている妖怪なのではないかとさえ思えてしまう。

 五嶋の授業が終わった後の休み時間にそんな話をすると、火狩もうなずいてくれた。


「確かに、五嶋先生って不思議な人だよな。ってか、あれで博士なのか……」

「パチンコ屋でタバコふかしてる姿ぐらいしか、生活してるところが想像できん……」

 黒川の言うことも一理ある。

「でもさ、五嶋先生って学校の外での目撃談もないよね」

 近くで話を聞いていた佐倉が口を挟んできた。

 五嶋が通勤に使っている軽自動車で、校門から入ってくるところは見たことがあるが、出て行くところを見た記憶がない。学校前のコンビニですら目撃談がないというのだから徹底している。

 ひどく俗っぽい人間でありながら、それでいて生活感がまったく感じられない。そういうところもまた実に不可思議な存在である。

 ふと思い出したのか、黒川が訳知り顔で切り出した。


「そういや寮の先輩から聞いたんだけどよ。昔、学生の一人が街の中で五嶋先生を見かけたらしいんだわ。何でも、キャバ嬢っぽい女と一緒だったって話」

「同伴かよ……」

 飲み屋のおねえちゃんを連れているあたりが、五嶋らしいといえばらしい。

 あの様子だと独身だろうし、学外でのことなので、別にそれは何の問題もないように思えるが。


「この話には後日談があってな」

 黒川はいつになく真顔で、おどろおどろしい雰囲気をまとっていた。

「その学生、それから妙におどおどとしたり、意味不明のことをつぶやくようになったりして、いつの間にか──学校からいなくなってたらしい」


 ゴクリ、とつばを飲み込む佐倉ののどが鳴る。

「それってまさか……五嶋先生が退学に追い込んだってこと?」

 その学生は、五嶋の見てはならぬ姿を見てしまったとして、消されてしまったのか……

「単に成績不良で中退しただけだろ。あの人がそんなとこ見られたくらいで動じるわけないよ。それにキャバ嬢同伴が学校にバレたくらいで処分されるなら、あの人とっくにこの学校から消えてるよ」

 確かに火狩の言うことももっともだ。「触れられたくない過去」というにはあまりにもショボ過ぎる。


「ま、真相は闇の中ってヤツだけどな」

 黒川は皮肉っぽく笑った。

「中退したにしろさ、五嶋先生を怒らせたら、恐ろしい目にあうんじゃないかっていう怖さがあるよな。かつては校長すら飛ばしたって、ウソかホントかわかんないような話もあるくらいだし」

「あの人に弱み握られてない人間なんて、この学校にはいないだろ」

 北陵高専を得体の知れない恐怖で支配する男──あのうだつの上がらない風貌からはなかなか想像しづらいが、それもまた五嶋の策略なのかもしれない。


「でも、ああいうオッサンにはなりたくないよなー。女にはモテそうにもないし、キャバクラだけが心の拠り所みたいなさびしい老後はイヤだよ」

 黒川のセリフももっともだが。

「お前が言うな」

 まさに火狩の言うとおりだ。

「女にモテそうにもないってのはうなずけるけどさ」

 ギャンブルにキャバクラにタバコ。まるでダメな大人の見本だ。

 加えてこの学校の【陰の支配者】となれば、学校随一の嫌われ者のようにも聞こえるが……


「でも、意外と人望はあるみたいなんだよね」

 北都のつぶやきに、火狩は意外そうな顔をして見せた。

「そうなのか?」

 北都はうなずいた。

「國村先生は講義帰りにちょくちょくお茶飲みに来るし、学生課の職員さんもよく遊びにくるね。OBも結構来るし、手土産のお菓子をいつも美味しくいただいてますよ」

「あ、ずりぃ」

 黒川が頬を膨らませるが、あの部屋の片づけをしているのだから当然の報酬だ。

「目の敵にしてる人もいるけど、同じくらい味方もいる感じ」

 あの実直で厳格な國村名誉教授が、不真面目が服を着て歩いているような五嶋と談笑している姿など、初めて見たときにはなかなかに衝撃的だった。

 北都自身、五嶋に対してたびたび怒りを爆発させるものの、なぜか嫌悪にまでは至らない。だからこそ級長職を続けられているだろうとも思う。

 こうしてみると、五嶋という男はつくづく不思議で不可解で正体不明な人物だ。あれだけ強烈な印象を残す実体ながら、その実像はぼんやりとして、深入りしようとすると暗い谷の底に引きずり込まれそうな怖さを覚える。


『五嶋先生にだって、触れられたくない過去がある』


 諏訪の一言が照らし出した、五嶋という存在の危うさ。

 その過去とは一体何なのか──弱みを握ることよりも、そちらのほうに北都の意識は向き始めていた。


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