5
火狩はずっと、小さな罪悪感にさいなまれていた。
それは先日の、自分と鯨井が付き合っているというウワサを黒川から聞かされた時。
『なんでオレが、鯨井となんか付き合わなきゃなんないんだよ』
あれはちょっと言い過ぎだった。
『鯨井となんか』
恥ずかしさで頭に血が上り、とっさに口を突いて出てしまった言葉だが、この言い方ではひどく鯨井を貶めているようになってしまった。
ああいった類のことは言われ慣れてるのか、鯨井は落ち込んではなさそうだし、逆にこちらを気づかう姿勢まで見せてきた。そこがまた自分の罪悪感を増してくれるのだ。
もちろん貶める意図はなかったし、そこまで嫌う理由もない。女としては最低だが、人間としてはまあまあだと…………いや。
火狩の脳裏に、あの光景がまざまざと思い出される。
見学旅行での、鯨井の……黒タイツが艶かしいワンピース姿。
あの姿なら、誰が見てもちゃんとした女だと認められるだろうに。黒川なら、まず間違いなく一目ボレするだろう。
あの姿なら、自分もあそこまで言わずに済んだだろうに。
あれだけ美人なんだから──
いやいやいや。あれが美人だなんて、認めちゃダメだ。
女装したらとんでもない美人に変身する男だっている。あれはきっと化粧マジックで、ちょっとだけ美人に見えただけだ。化粧を落とせばご覧の通りの、どこからどう見てもただのイケメンで……
「火狩!」
目の前でノートにデータを取っていた鯨井があわてていた。いつの間にか、その顔に魅入っていたことに気づいて、驚いて我に返る。
「えっ、な、何!?」
「電圧上げすぎ!」
「うわっ!」
実験の真っ最中であることを忘れていた。あわてて掴んでいたつまみを絞るものの。
「あー、定格電圧大幅に超えちゃった。これ、最初から測定しなおしだよ」
ただでさえ時間が掛かる実験なのに、これでは陽が暮れてしまうこと確定だ。
「ごめん……」
素直に謝ると、C班の中にあきらめのため息が充満した。
「ま、しょうがない。ちゃっちゃと終わらせよーぜ」
鯨井はそう言って、甲斐とともに装置のリセットに取り掛かった。
「火狩、どうしたんだよ。お前がボーっとするなんてめずらしーの」
「ちょっと考え事してた、悪い」
黒川にどやされるなんて、まったく面目ない。
「火狩にだって悩みぐらいあるんだろ。いつもボーっとしてるてめーが、人のこと言える立場かよ」
「オレだってね、難しいこと考えてんだよ」
「エロイことしか考えてないくせに」
「健全な少年と呼べ!」
鯨井と黒川の不毛なやり取りを眺めながら、火狩は一人ため息をついた。
自分らしくない失敗をしてしまった。また罪悪感が募ってしまう。
すべてのデータを取り終わった頃には他の班は全員帰り、実験室に残っていたのはC班だけであった。
しかも甲斐は部活があるため鯨井に先に帰らされ、黒川もまたガソリンスタンドのバイトがあるからと片づけから逃げていった。
つまり、実験室に最後まで残ったのは、自分と鯨井の二人だけ。ここでの担当である助教の平澤も「終わったら施錠して鍵持ってきて」と言って、自分の部屋にとっとと帰ってしまった。
「はー、終わった終わった」
座っていたスツールを机の下に押し込みながら、鯨井がつぶやいた。
外は既に真っ暗、闇夜の中で綿雪が舞っている。廊下も真っ暗で、この電気棟の一階には他の人の気配すら感じられない。
コートを着込んだ火狩は、申し訳なさをにじませながら言った。
「悪かったな、オレのせいで」
「たまにはそういうこともあるだろ。いつもは黒川やあたしが失敗してるんだから、おあいこってことで」
いつもはケンカ腰で突っかかってくるのに、こちらがあからさまな失敗をしたときに限って優しい言葉をかけてくる。慰めているつもりなのかもしれないが、それがかえって惨めさを増してくれることを知らないのか。
「お前、先帰ってもいいよ。あたしが平澤先生のとこに鍵持って行くから」
実験室のあちこちに散らばっているスツールを、鯨井は次々と机の下に入れていく。まったく、このクラスの男どもは片付けもできないようだ。
「いや、オレが行くよ」
「いいって。どうせ五嶋先生のとこには行かなきゃなんだし」
今からあの担任の世話を始めるのか……他人事ながらウンザリした気分になる。
火狩は思い切って切り出した。
「あ、あのさ……」
「何?」
目の前で机に手を置いて、鯨井が顔を上げる。
ずっと言おうと思っていたことを、やっとの思いで口に出す。
「……この間は悪かったな」
「え? 何のこと?」
鯨井のキョトンとした顔。やっぱりわかっていなかったか。
「黒川にからかわれて、お前のこと、ボロクソに言ったこと」
「あー……そうだったっけ?」
やっと思い出したのか、鯨井はバツ悪そうに苦笑いを浮かべた。
「めちゃめちゃ怒ってんなーとは思ったけどさ、ありゃ怒って当然のことだろ?」
「いや、その……お前のこと、そこまで嫌ってるわけじゃないし、とっさとはいえ、ちょっと言い過ぎたと思ってさ」
「三浦さんにも何とか『付き合ってない』ってことはわかってもらえたし、謝らなくてもいいよ。誰だって、あたしと付き合ってるなんてウワサ流されたら怒るだろ」
普段は男どもに威圧的な態度を取るくせに、こと自分の容姿に関しては卑屈になる。鯨井のそんな態度が火狩には歯がゆく感じた。
「あたしはさ、男扱いされるのは慣れてるし、むしろそれが自然って思ってるけど、さすがにホモ扱いはキツイよなー」
そういって鯨井は笑うが。
「……また女装すればいいだろ」
火狩は目をそらして、ボソリとつぶやいた。途端に鯨井の目が吊り上がる。
「はあ? お前何言って……」
「あの姿なら、ホモなんて言われることはないだろ」
凹凸には乏しいかもしれないが、全体的な雰囲気はちゃんとした女だった。あれを見て【男】だと言うヤツはまずいないだろう。
だが鯨井は憮然としている。
「言われないかもしれないけど、その代わりドン引きされるだろ。実際、お前だって引いてただろーが」
「いや、あれは……」
お前に見とれてしまった自分が恥ずかしかったから……とはまちがっても口には出せない。
鯨井は一人合点したように、警戒感たっぷりの目をこちらに向けてきた。
「ははーん……お前、あたしを晒し者にしようって魂胆だろ。『男の娘』とかいって、みんなで笑うつもりだな」
そうじゃない──お前が自分で思ってるほど、お前はブサイクじゃないんだ。ちょっと着飾れば、少なくとも平均レベルの女になれる。いや、それ以上の……
もどかしくなって、火狩は声を張り上げた。
「そうじゃない。オレはお前が──」
「『好き』なんですね! 火狩先輩! やっと鯨井先輩の愛を受け入れるんですね!」
突然ドア口から現れた三浦楓花の姿に、火狩もそして鯨井も、身をちぢ込ませておののいた。
「うぎゃっ!」
「ひいっ!」
満面の笑みを浮かべた楓花がこちらににじり寄ってくる。思わず鯨井と寄り添ってしまった。
「『オレはお前が好きなんだ』って鯨井先輩に言いたかったんでしょう!? そうですよね!?」
「ち、ちがう! そんなんじゃない!」
首をぶんぶんと横に振るが、彼女は嬉々として火狩に迫る。
「もう照れなくってもいいんですよ。自分に素直になりましょうよ!」
こういう思い込みの激しい女は、火狩の一番苦手とするタイプだ。理屈が通らないどころか、物事を自分の都合のいいように解釈するから扱いに困る。
「北都先輩もほら! ここで強引に迫るんですよ。壁に追い詰めて、手でドンッって」
「そんなことできるか!」
恐ろしいことを言う楓花に、鯨井が逆に詰め寄る。
その隙に、火狩はバッグをつかんでその場から逃げ出した。
「あっ、火狩! てめー!」
「悪いな」
鯨井の罵声が飛んでくるが、火狩は振り返らなかった。
あんな女にまともに付き合っていたら、こっちの気が狂いそうだ。
◇
「あーあ、逃げられちゃった。鯨井先輩がモタモタしてるから」
火狩が逃げていったドアを眺めて、楓花がぼやいた。
「いや……あれはアナタから逃げたんだよ」
北都はげんなりして答えた。逃げたとはいえ、火狩も災難だったようだ。
「だって、せっかくのチャンスだったじゃないですか」
「チャンスって……ちがうから。火狩は……」
はて。彼はいったい何を言いたかったのだろう? というか、何を話していたのかも忘れてしまった。
まったく、とんでもない破壊力を持った少女である。
やれやれとばかりに北都はため息をついて、自分のバッグを担いだ。ここで楓花とうだうだやる元気はもう残っていない。さっさとここの鍵を閉めて持って行こう。
「実験室閉めるから、三浦さんも外出て」
「はーい」
素直に従って、楓花は先に実験室を出た。
が、一歩出たその場所で彼女は足を止めていた。
「……三浦さん?」
顔をこわばらせて、一歩、また一歩と後ずさる楓花。
何事かと駆け寄ろうとすると、ドア口に姿を現した人物がいた。
「え……篠山さん?」
篠山が仁王立ちになっていた。
いつも以上に怒りをたたえた目で、その厳しい視線に射抜かれそうだ。尋常ではない雰囲気である。
北都が何かを聞こうと思ったその瞬間、篠山は動いた。
怖い顔のまま、実験室にズカズカと入ってくる。楓花が驚いて、身を引いた。
「やだっ、怖い!」
「ちょっ……篠山さん!?」
突進してくる篠山を遮るように、北都はとっさに楓花の前に立ちはだかった。
恐ろしいほどの真顔。北都の目の前で立ち止まった篠山は、一つ息をつくと、静かに口を開いた。
「──好きなんだ」
うわー……ついに言っちゃったよこの人。どう見ても脈ないのに……
「鯨井……お前が」
んんん?
「────はい!? あ、あたし!?」
思わず耳を疑った。篠山の目がしっかりとこちらに向いていたことに気づいて、うろたえてしまう。
驚くのと同時に、どストレートな愛の告白に、顔が真っ赤になるのを感じた。
生まれてこの方、男に告白などされたことなど一度もない。こういう時、いったいどうすれば……
いや、いやいや──ちょっと待てよ。
「え、え、いや、その……篠山さんはあたしのこと、男だと思ってたんじゃないんですか?」
そもそもその前提がまちがっていたのか?
そうだ。自分のことを男だと信じている人間がそうたくさんいるはずか……
北都のそんな一縷の望みは、無残にも断たれた。
「……お前が男だからだよ!」
至極マジメな顔。とても冗談を言っているようには感じられない。
北都はその言葉の意味を一生懸命に考えた。考えて考えて……全身が凍りつき、総毛立った。
「お前はあの同級生と付き合ってるんだと思って、ずっと自分の気持ちを抑えてきたさ……なのになんだよ! 女とイチャイチャしてたかと思ったら、あの助教とも実験室でイチャついて……もうお前を他のヤツになんか渡さない!」
ツッコミどころは山ほどあったが、もはや北都に否定するだけの気力は残されていなかった。
「鯨井先輩。この人、【受】ですよ」
聞きたくなかった楓花の解説に、北都の開いたまま塞がらない口から魂が抜けかける。
篠山の告白は、冷静に聞けばとても情熱的な愛の言葉だが、彼のその愛情は男として、しかも【攻】としての北都に向かっているのであって、ベクトルとしては虚数方向だ。掛けても掛けてもマイナスにしかならない。
ダウン寸前の北都に追い討ちをかけたのは楓花だった。彼女は篠山を挑戦的に見つめ、言い放った。
「【ヤンデレ襲い受】……それもアリだと思います。けど……鯨井先輩はあなたには渡さない」
今度は北都に正面から抱きつき、下から潤んだ目で見上げてくる。
「先輩が男性にしか興味なくてもいい。それでも私……鯨井先輩のことが好きです!」
楓花が何を言おうと驚かないつもりだったが、これはさすがに想像の斜め上だった。楓花に抱きつかれたまま、北都は真っ白に燃え尽きた。
「身を挺して私を守ろうとしてくれたこのご恩、忘れはしません! 一生おそばに仕えさせてください!」
北都を挟んでにらみ合う篠山と楓花。
女としての自分は望まれていないと知って、北都のプライドはもはや微塵も残っていない。
なんで──なんでこんなのばっかり……
自分の中で、何かがブチギレた。
楓花の身体を黙って引き剥がす。北都から醸し出されるすべてを拒否するオーラを感じて、楓花も篠山もそれ以上近づけない。
ライフは既にゼロだが、ゾンビ状態ゆえの不思議な無敵感に満ちている。
たじろぐ楓花と篠山を涙のにじむ目で見つめ、地の底を這うような低い声で北都は唸った。
「あたしはホモでもレズでもない──どノーマルだっ!」
自分もみんなも──大大大大ッキライだ!
火狩、黒タイツに目覚める。




