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四月も半ばを過ぎ、新入生もかなり学校に慣れてきたようだ。中学を卒業したばかりの初々しさを残しつつ、高校とは違う高専の独特の雰囲気に戸惑いつつも、思い思いの私服に身を包んで学校生活を楽しみ始めている。
だが、気が緩み始めるのもこの頃だ。新学年の緊張がほぐれてきたこの時期、学校のあちこちで小さな事件が起こり始める。
北都のクラスも御多分にもれなかった。
「えっ……飲酒?」
「そう」
五嶋は平然として雑誌を読んでいたが、聞かされた北都は動揺を隠せなかった。
「橘兄弟……右京と左京がね、寮で」
橘右京と橘左京、一卵性双生児のこの二人はなかなか見分けがつかない上にいつも一緒で、イタズラ好きの子どもみたいな問題児兄弟だった。かく言う北都も未だに右京と左京の見分けがちゃんとついていない。
「現行犯じゃなくて部屋からビールの空き缶が見つかったって。一応初めてだし、今回は厳重注意ですみそうだけど」
「ったく……何やってんだあいつら」
珍しく昼食後に教官室に呼び出されたと思ったら、イヤな話を聞かされたものだ。
「橘兄弟……成績は三十人中二十七番と二十八番。去年は揃いも揃って【基礎電気回路】落としてんのな。まー、何から何まで同じ双子だな」
成績表を見ながら五嶋は暢気に言うが、級長としては気が気でない。ただでさえ成績の悪い二人である。次に何かやらかしたら、今度こそ退学だろう。
「ま、そういうことで、一応お前に報告しとこうと思って。昼休みに悪かったな」
「いえ……失礼します」
五嶋の部屋を辞して、北都は頭が痛くなるのを感じながら階段を上った。
どうしろっていうんだよ……
さすがに寮で起こったことに関しては、北都にはどうしようもない。しかし、ここは級長として、あの双子に何か言った方がいいのだろうか。注意したところで、聞くような奴らではないだろうが。どうしたもんかな……
悩みながらも三階の一番奥にたどり着き、三Eの教室の引き戸を開けた。その瞬間から、ヘンな匂いが漂っていた。このニオイ……あれ?
首をかしげながら窓際に目をやる……が、目に映った光景がどうにも信じられない。
「ここ……教室……だよ、な?」
何度見てもここは教室だ。だがその窓際では、ついさっき話題に上ったばかりのあの橘兄弟が、周りを憚ることなく堂々とタバコを吸っていたのだ。
北都の頭が瞬間沸騰した。
「────何さらしとんじゃてめーらぁっ!」
慌てて双子にダッシュで駆け寄り、くわえたタバコを電光石火の早業で抜き取って床に叩きつけ、足で踏みつけて火を消した。
「げほっ……」
すぐに全ての窓と扉を開け、ニオイを消すべく空気を入れ替える。双子も、そして周囲にいた級友たちも、あっけに取られたままその光景を呆然と見つめていた。
「何すんだよ」
窓を背に椅子に座る橘兄弟の兄、右京が不機嫌そうに北都を見上げた。
「何すんだじゃねーだろっ! お前ら飲酒で厳重注意されたばっかだろが!」
「お前には関係ねーだろ」
隣に座る弟の左京も、兄とまったく同じ不機嫌の表情で口を尖らせる。
「こんなとこでタバコ吸ってんの見つかったら、今度は間違いなく退学なんだぞ?」
「別にいいよ。見つかったら見つかったその時」
「こんな男ばっかの学校、いつ辞めてもいいよ」
双子は口を揃え、屈託なく笑った。
北都は呆れて声も出なかった。だがそれ以上に──
改めて周囲を見回す。五時間目の授業を目前に控えて、ほとんどの級友が着席していたが、誰一人として橘兄弟を咎め立てする雰囲気ではない。見て見ぬふりというか、無関心を決め込んでいるのだ。火狩でさえも、遠く離れた場所であれば実害はないとばかりに、本に集中している。
北都は愕然となった。このクラスがここまで崩壊していたなんて……教室での喫煙などという級友の明らかな不始末ですら注意できない。「自分には、お前には関係ないこと」で全てが終わってしまう。自分さえよければ、ほかはどうでもいいのだ。
そして──ついこの間まで、自分もそちら側だったのだ。
やっぱり……こんなんじゃダメだ。
改めて、北都は心を決めた。級長だからとか、五嶋に脅されたからとか、もうそういう次元ではない。
自分ひとりが勝手に級友、仲間と思っているだけかもしれない。それでも、北都はこのクラスを何とかしたかった。今まで二年、これから三年、一緒にやってきた、一緒にやっていかなければならない仲間たちなのだ。
北都は黙ってティッシュを一枚取り出し、床のタバコの吸殻を拾い上げて包んだ。橘兄弟はやってられないとばかりに顔を見合わせて肩をすくめたが、五時間目のチャイムが鳴ったこともあり、それ以上タバコを取り出す真似はしなかった。
七時間目が終わり、今日の授業は全て終わった。
皆が帰路に着く中、北都は今日が締め切りの健康調査票をなんとか集め、五嶋の部屋に持っていくことにした。
「先生、これお願いします」
「後で医務室持ってって」
そうくると思った。
「はいはいー」
投げやり気味に返事をする。
昼休みの橘兄弟の悪行を言った方がいいのかどうか、迷ったが、結局言わないことにした。言えば処分は免れないだろうし、仮に免れたとしても、橘兄弟への対応は結局北都に任せられることになるだろう。
ため息をつきつつも、今日のお片づけ開始──あ、しまった。
「バッグ忘れてきた……」
考え事をしながらの作業だったので、バッグを教室に置いてきたままだった。財布や携帯は身につけているが、大事なものが入っているので今のうちに取りに行っておこう。
「ちょっと教室行ってきます」
そう言って三階へと駆け上がった。四年生、五年生も授業が終わり、教室が並ぶあたりに人の気配はない。だが奥の三Eの教室に入ろうとして、北都はまた目を疑った。
「お前ら……」
引き戸を開けると、窓際に橘兄弟が並んで座っていた。揃ってタバコを手にして……
「なんだ、鯨井かよ」
双子は悪びれることもなく、歩み寄る北都から逃げ出すわけでもなく、悠々とタバコをふかしている。怒りよりも情けなさがこみ上げてきて、北都は唇を噛み締めた。
拳を握り締め、自分たちを見下ろす北都を、右京はあざ笑った。
「さっさと先生に言ってこいよ。教室でタバコ吸ってますーってな」
「退学上等、みたいな?」
左京も右京と顔を見合わせ、唇の端を歪めて笑う。
こっちがあれこれ心配してるって言うのに、こいつらは……
頭にきて北都はまたタバコを奪い取ろうとした……が、今度は相手の動きのほうが早かった。
双子は素早くタバコを口にし、肺に貯めた煙をイヤがらせとばかりに北都に向かって吹きかけた。ダブルで吹きかけられて、煙に巻かれて思いっきり吸い込んでしまう。
「……ホッ……ゴホッ、ゲホッ……」
途端にむせる北都を見上げて、双子は笑っていた。
「よっわ」
「タバコも吸えねーのかよ」
「ゴフッ……はぁはぁ……ゴホッ、ゴホッ……」
北都は何も言い返せず、ただ咳き込み続ける。涙まで出てきた。
「はぁはぁはぁ……ゴホッゴホッ」
身体全体で大きな息を吸うが、喉の奥に空気が入っていかない。吸っても吸っても咳が出て、苦しみのあまり身体が折れ曲がる。
「お、おい……」
さすがに双子も北都の異変に気づいたようだ。彼らは席を立ち、北都を助けるのかと思いきや──二人ともそそくさと教室を出て行った。
「……ま、待て……ゼェゼェ」
追いかけようとするが、走るのはもちろん、歩くこともままならない。
ヤバイ……このままじゃ……
よろめきながらも北都は自分のバッグを掴み、なんとか教室を出た。廊下の遠く向こう、橘兄弟が走って逃げていくのが見える。
あいつらをつかまえて……やめさせなきゃ……
だが激しい咳は止まらず、身体中が酸素を欲して言うことを聞かない。もつれる足で前に進みながら、バッグの中に手を突っ込むが、目的のものがうまく掴めない。
とうとう北都は冷たい床の上に膝をついた。喉がヒューヒュー言い出している。喘息発作──
「……鯨井さん!」
後ろの階段を駆け上がってくる足音と誰かの声。だが北都は返事をすることも振り返ることもできない。イラ立つ気分さえどこかに行ってしまった。
その誰かが自分の背中に手を回す。朦朧となりつつある視界の中に現れたのは、諏訪の驚いた顔だった。
「どうしたの!」
「せん……せい…………ゴホッ……はぁはぁ……くす、り……はぁ……バッグ……」
それだけ言うのがやっとだった。
だが諏訪はそれでわかってくれた。うなずくとすぐに北都のバッグを開け、中から特徴的な形の薬──吸入型の気管支拡張剤を探し出し、北都の震える手に握らせてくれた。
キャップを開け、薬を吸う。薬剤が気管支に広がり、呼吸がいく分楽になってきた。
「あり……がとう……ございます」
息も絶え絶えに礼を言い、北都は立ち上がってまた歩き出した。あの双子を追わなければ……
「そんな状態でどこに行こうっていうんだ。肩を貸してあげるから、医務室に行こう」
諏訪が珍しくきつい口調で押しとどめた。
「それどころじゃ……あいつ……らを……」
諏訪を押しのけてでも先に進む──つもりだったが、次の瞬間には視界が回っていた。
「あ……れ?」
倒れたのかと思った……が、それにしては身体は痛くないし、何より天井が近い。身体が宙に浮いているようだ。そしてすぐ目の前にはなぜか諏訪の怒った顔。
これって……もしかして、もしかする?
「……このまま医務室に行くのと、肩を貸して行くのと、どっちがいい?」
自分の身体が、諏訪に軽々と抱きかかえられている。つまりはお姫様抱っこ──状況を理解するのと同時に血の気が引き、肌が一気に粟立った。
「医務室に行く! 行く、から……下ろしてください!」
思わず叫ぶと、諏訪はにこやかに微笑んで、速やかに下ろしてくれた。
「ゼェゼェ……気持ち悪い事、しないでください……」
驚きのあまり、また呼吸困難を起こしそうだ。膝から崩れそうになる北都の腕を取り、諏訪は肩に回して半ば引きずるようにして歩き出した。
「文句は後で聞くよ。医務室に急ごう」
それに逆らえるだけの力は、北都には残っていなかった。
医務室につくと、真っ青な顔の北都に驚いて、中年女性の保険医がすぐにベッドに横にならせてくれた。喘息発作も薬のおかげでかなり落ち着いたが、ここで少し休んだら近くの内科外来に行かねばなるまい。
ここまで連れてきてくれた諏訪は、カーテンの向こうで保険医と何やら話していたが、それが終わるとカーテンを開け、ベッド横の椅子に腰掛けた。
「鯨井さん……君、気管支喘息の既往歴があるんだってね。だから薬持ってたんだ」
保険医と話していたのはそのことだったようだ。確かに保健調査票に書いた記憶がある。
「ここ数年は発作起こしてなかったんですけどね。でも一時期酷かったことがあって、お守り代わりに薬持ってたんです」
小学生くらいまでの北都は大きな身体に似合わず病弱で、かつて喘息発作で入院したこともあった。だが身体を鍛えることでそれは徐々に改善され、時折風邪を引いて咳がひどくなることはあっても、喘息発作まで引き起こしたことはここ数年なかった。気管支吸入薬も、親元を離れて寮生活をするに当たって、健康面での心配をした母がかかりつけの医者に頼んで出してもらったものだ。
「それが何で急に発作起こしたの?」
諏訪は微笑みながらも痛いところをついてくる。もちろん北都はすっとぼけた。
「……さあ? あの教室ホコリがひどかったからかな」
「毎日君が掃除してるのに?」
なんでそういうことを知ってるんだ……五嶋といい諏訪といい、油断も隙もならない教師だ。
「それにね……君の身体からタバコのニオイがする」
諏訪の目がキラリと光る。北都はギクリとなりながらも、内心の動揺を悟られないよう努めて無表情を装った。
「喘息持ちがタバコ吸うとは思えない。君の性格から言ってもね。となると……誰かがタバコ吸って」
「気のせいじゃないですか」
ことさら大きな声で北都は言った。
「誰かが吸ってるところ、実際に見たわけじゃないでしょう? あ、五嶋先生の部屋にいたから、きっとニオイがついちゃったんですよ」
口元に笑みを作りつつも、視線は諏訪から外さない。外せばウソだとバレてしまいそうだからだ。諏訪もまた、北都の挑戦的な視線を受けてなお、目を逸らそうとしなかった。
どのくらい、そうやって睨み合っていただろうか。
先に視線をはずしたのは諏訪だった。ふと目を伏せ、ため息をついた。
「君が倒れたことは、五嶋先生には僕から伝えておくよ。だから今日はもう帰って、病院に行きなさい」
諏訪は立ち上がり、背を向けた。
「……余計なこと、言わないでくださいね」
北都のつぶやきに諏訪は振り返ったが、北都はそっぽを向いて、寝たふりを決め込んだ。
◇
「……鯨井が喘息発作?」
諏訪の報告を聞いて、五嶋はタバコの箱を取り出したままの格好で止まった。
この驚きようだと、既往歴については本当に知らなかったらしい。
「そうですよ。だから五嶋先生、ここでは絶対禁煙です」
五嶋はしばらくタバコの箱と諏訪の顔を交互に見つめていたが、やがてあきらめたようにしまった。
「大体、教官室は禁煙になったでしょう。タバコが吸いたかったら、喫煙室まで行ってください」
「喫煙室、遠いからめんどくさいんだよな……」
「そんなこと言ってる場合じゃないですよ。鯨井さんに級長を続けて欲しかったら、禁煙は必須です」
こんな五嶋だが、学生の前ではむやみに吸うことはしない。諏訪が級長だった当時も、どうしても吸いたい時だけ断りを入れて吸っていた。彼女の前ではまだそういったことがなかったのが幸いだ。だが、これからは念には念を入れて、ここでの禁煙を徹底していかねばならない。
「そういうことで、鯨井さんは病院に行きましたからね」
「おお、すまんな」
報告を済ませたところで、諏訪は踵を返してドアに向かった。
「……どうした?」
その途中で足が止まる。五嶋の問いかけに、諏訪は迷いつつも振り返った。
「……鯨井さんは『余計なこと言うな』って言ってたんですけどね」
彼女を裏切ることになる──かもしれないが。
「教師としては見逃せない、ってか。お前も真面目だねぇ」
彼女の気持ちもわかるが、五嶋の言うとおり、今の諏訪にはどうしても看過できなかった。
諏訪はうつむいていた顔を上げた。
「彼女、誰かをかばってます。おそらく、その誰かが喫煙していた現場に居合わせたのではないかと」
「それで発作起こしたか」
諏訪はうなずいた。
「僕が見つけたとき、呼吸困難を起こしながらも誰かを追いかけようとしてました。彼女のことだから、その相手を捕まえようとしていたんじゃないでしょうか」
「相手、見たのか?」
「ハッキリとではないですが、廊下のずっと向こうを走っていく人影が見えました。二人──おそらく……」
あの背中は──
「右京と左京か」
「ええ、たぶん」
五嶋もある程度は予想していたようだ。
「あの二人も懲りないな」
「飲酒疑惑が厳重注意ですんだのだって、五嶋先生が……」
「あいつらはそんなこと知るまいよ」
そう言って五嶋は頬をゆがめたが、諏訪は笑える気分ではない。ましてや、寮で見つかったビールの空き缶の中身がタバコの吸殻だったと聞いていたから、重い処分を突きつけてきた寮務主事の矢面に立った五嶋の苦労は相当なものだっただろう。
三Eの学生の処分については五嶋に一任──そういう通達がなされているとはいえ、五嶋の立場が一段と悪くなったことには変わらない。それでも至って飄々としているところが、この人の憎いところだ。
「鯨井があいつらをかばったんなら、何か考えがあってのことだろう。鯨井に任せときゃいいよ」
「先生ならそうおっしゃるとは思いましたけどね。また発作起こさなければいいですけど」
彼女が橘兄弟の悪事を隠したかった──そうは思わない。まだ知り合って日は浅いが、彼女が口が悪くとも真面目な性格なのは、授業態度や成績、そして他の女子学生からの評判からもよくわかっている。悪事を目の前にして無視できるほど器用でもないだろう。
捕まえようとしてたところを見ると、あの兄弟を問いただし、諌めようとしていたのかもしれない。
これは、級長としての自覚が出てきたということだろうか……
だが正直、彼女一人の力でこの問題を、このクラスをどうにかできるとは、諏訪も思っていない。彼女一人が負うには重過ぎる荷物だ。
しかし、彼女自身がこちらの介入を拒否している以上、むやみに手を出せば恨みを買うだけでなく、彼女の自信や努力をも台無しにしてしまう恐れがある。
何とも言えないもどかしさが諏訪を襲う。
暢気にコーヒーを飲んでいる五嶋が少し恨めしかったが、この人も表には出さないだけで、実はそのジレンマに悩まされているのかもしれない。
少なくとも、そう思いたかった。