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「ぎゃははははははははははは!」
その日の夜。女子寮の北都の部屋に、下品な笑い声が響いた。
声の主はもちろん、希だ。北都のベッドに腰掛け、文字通り腹を抱えて全身で笑いを表現してくれる希に、イスに座る北都は怒る気にもなれず渋い顔をするのみだ。
「希先輩……やっぱ知ってたんですね」
涙が出るほどおかしかったらしい。希は涙を拭いながら答えた。
「うん、知ってた。いつあんたに言おうかなーって思ってたんだけど」
「ま、あたしは信じてなかったけどね」
希の横で、多佳子がすました顔で言う。そういいつつ、希と一緒に笑っていたのはどこの誰だ。
「そうそう。北都はそんなこと隠せるほど器用じゃないし、その子の早とちりだと思ってたから。でもまさか、北都と火狩くんのBL展開だったなんて……ぎゃはははははは」
希はまた笑い転げている。
「だからって……黙って笑い者にすることないじゃないですか」
憮然となって言うと、希は笑いすぎて息を切らしながらも謝ってきた。
「ごめんごめん。今度の誕生日にケーキ買ってあげるから」
今月末には北都の誕生日がある。去年も一昨年も寮の中でささやかなお祝いをしてもらっていた。
今年はホールケーキ買わせてやる……
「北都さん……ホント、すみません!」
北都の横に立っていた綾乃が、深々と頭を下げてきた。今日の騒動を、同じクラスである自分の責任だと気に病んだのか、ここまで謝りに来ていたのだ。
「いや、綾乃ちゃんは悪くないから……」
北都はなだめたが、綾乃は申し訳なさそうに頭を垂れるばかりだ。
「私はちゃんと言ったんですよ。北都さんは女子寮に住んでる、正真正銘の女性だって。それなのにあの子、とんでもない解釈しちゃって……」
「とんでもないって、どんな?」
「『鯨井先輩は男だけど、女性として生きていかなければいけない、悲しい宿命の持ち主』だとかなんとか。女子寮に入れたのだって、文書を偽造できるだけの力が働いていて、北都さんはむしろ女子寮にかくまわれている存在だとか何とか…………って、なんか自分で言っててもわからなくなってきました」
頭痛めまいに加えて、寒気までしてきた……
「何その厨二病設定」
多佳子が吹き出す。
「北都さんは男にしか興味ないから、女子寮にいても大丈夫、みたいなこと言ってましたね」
「もういい……もういいよ……」
もはやノックアウト寸前。今日一日でどっと疲れてしまった。
「楓花、腐女子なんです」
腐女子──男同士の恋愛、ボーイズラブを好む女性をさす言葉。さすがにそれは北都も知っている。
この女子寮の中でも、そういう本を好んで読む学生もいる。希もその一人だ。それについては個人の趣味だし、実害さえなければ北都があれこれいう問題ではないので、特に何の感想も持っていなかった。
だがしかし、こうやって実害が及ぶようになってくると、さすがに笑い事ではすまなくなってくる。
「でもさ、今まで二次元で満足してたはずの子が、なんで急に三次元の北都に萌えちゃったの?」
「体育祭のときに北都さんを見て、あまりのイケメンぶりに一目ボレしたんだそうです。でも楓花は腐女子だから、付き合いたいとかじゃなくて、北都さんが他の男子とイチャイチャしてるのを見てるだけで満足してたんですけど……」
イチャイチャ……クラスの男どもを怒鳴りつけ、どつきまわしていたのが、どうやったらイチャコラに見えるんだ。そんな風に見られていたというだけでショックだ。
「この間、北都さんと火狩さんが二人で建築棟を歩いているのを見かけて、そこで北都さんが……」
「北都がどうしたって?」
綾乃は口篭りながらもこちらをチラッと見て、頬を軽く染めた。
「火狩さんに『惚れた』って言ったのを聞いたって」
アイタタタタタ…………まさかあのセリフを聞かれていたとは。
案の定、希がすごい勢いで食いついてきた。
「えっ!? 北都、マジで火狩くんのこと好きだったの?」
「ちがいますって! 『惚れたって言ったら気持ち悪いだろ?』って、ふざけただけです!」
北都は必死で否定するが、それでも希は半信半疑を目を向けてくる。
「ホントにぃ?」
「ホントですって……信じてくださいよ」
軽い気持ちで茶化しただけなのに、それがこんな大惨事を招くなんて……「口は災いの元」とはよく言ったものだ。
「楓花がそれを聞いて、北都さんを、その……男でありながら男が好きな、いわゆる【ホモ】だと盛大にカンチガイしちゃったんです」
綾乃も説明しながら顔が真っ赤だ。こんな恥ずかしい説明をさせてしまって、申し訳ない気持ちになる。
「そして『北都と火狩くんが付き合ってる』なんて口を滑らせちゃった、と」
「はい……」
多佳子のまとめに、綾乃は苦笑気味に答えた。
「しかも、北都が【攻】だって? まあ、確かに火狩くんの【クール受】は目のつけどころがいいと思うけど」
希はそっち方面にも詳しそうだ。北都は疑問に思っていたことを聞いてみた。
「何なんすか、【攻】って」
「挿すか挿されるかで言ったら、挿す方」
何ともまあ、直接的な表現だ。北都の身体に悪寒が走る。
こちとらホンモノの女だというのに、一体どういう考え方をしたらそういう想像ができるのだろう。
「確かにあんたは【受】より【攻】って感じよね」
多佳子は笑うが、どちらもイヤだ。
「えー、そう? 北都みたいな強気キャラが【受】に回るほうがおもしろくない? あたしは【強気受】好きなんだけどなぁ」
希にいたっては、もうワケのわからないことを言い始めている。
「お願いだから、もうその話はやめてください……」
半泣きになって北都は机に突っ伏した。悪寒は増す一方で、何だか本当にだるくなってきてしまった。
翌朝、北都が登校しようと寮の玄関を出ると。
「鯨井先輩、おはようございます」
「うげげっ!?」
出たところで、楓花が満面の笑みをたたえて待っていた。
「な、なんでここに……」
「先輩、今日からはちゃんと自分のこと、【オレ】って言ってくださいね」
なんなんだこの女は……昨日の話を一つも聞いていなかったのか。「男ではない」と散々否定したのに、やっぱりわかってくれなかったようだ。
「私、鯨井先輩のこと応援してますから」
「……何を?」
「火狩先輩との恋ですよ。カミングアウトしちゃって、周りの目は厳しいかもしれませんけど……私だけは先輩の味方です」
真剣な目で、祈るように見上げられても。
「だからちがうって言ってんだろおおおおおお!」
朝から目いっぱい否定させられて、すっかり疲労困憊だ。いちいち付き合っていたら、こっちの頭がおかしくなりそうだ。
教室に駆け込んで一安心──しかしそんなカンタンに終わるわけがなかった。
朝から二時間ぶっ通しの数学が終わり、休み時間になってやっと息をついた北都の元に、また楓花がやってきたのだ。
北都のすぐ横のドアから、こちらをじっと覗き込む楓花の姿に、思わず背筋が寒くなった。
「ひっ」
顔を引きつらせる北都の横で、火狩もまた同様に顔を引きつらせている。
「ホ、ホモォ……」
女子には目がないはずの黒川でさえ、顔を青くしていた。
昨日の騒動は既にクラス中に知れ渡っている。鬼の級長と三Eが誇る秀才、そしておまけの三人が、この一見可憐な一年生の女子にひどい返り討ちにあったというのだから、皆目を丸くしてこちらを見ている。
「な、何!?」
「あ、お構いなく。見てるだけですので」
見てるだけとは言っても、そこは男が二人いれば妄想爆発という屈指の難敵・腐女子。三Eの教室内をぐるりと見渡すその視線を受けるだけで、男どもはぶるぶると震え上がる。
楓花の視線が一人の男をロックオンした。
「あ、火狩先輩」
声を上げた瞬間、火狩は背を向けて逃げ出していた。
「鯨井、健闘を祈る」
「ちょっ……逃げんなって!」
北都の罵声もなんのその。逃げるが勝ちと言わんばかりに秀才は敵前逃亡した。反対側のドアから出て行く火狩を空しく見送る北都に、楓花が慰めの言葉をかける。
「鯨井先輩、気を落とさないでください。恋は障害が多いほど燃え上がるものですよ」
当然ながら、まったく慰めになっていない。クラス中の、同情を含んだ生温かい視線が集まってくるのを感じた。
それでも楓花は小首を傾げて、訳知り顔で続ける。
「ああいうクールな人って、意外と強気な攻めに弱かったりするんですよね。一気に押し倒しちゃえばいいんですよ」
恐ろしいことを言う彼女に、本気で戦慄が走った。
「ぎゃー! やめろおおおおおお!」
耳を塞ぎながら、北都もまたその場から逃げ出した。
「ぶあっはっはっはっは!」
放課後の五嶋教官室に、これまた下品な笑い声が響く。声の主はもちろん五嶋だ。
ソファに座る北都をあからさまに笑い者にするこの担任に、さすがにこの時ばかりは殺意が沸いた。
「五嶋先生、笑いすぎですよ。かわいそうじゃないですか……」
とか言いつつ、自分も横を向いて笑いをかみ殺している諏訪。
こいつら──いつか絶対復讐してやる。
「やっぱり知ってたんですね。ったく、みんなしてあたしのこと笑い者にしやがって……」
「そのうちほとぼりが冷めるかなーって思ってたんだよ。でもその前にウワサが広まっちゃったみたいでね」
諏訪はそう言うが、絶対おもしろがっていただけだと思う。
「しかし、楽しいこと考えるヤツもいるもんだな。お前と火狩の同性愛って」
「こっちは一ミリも楽しくないですよ」
「そいつに追い回されて、ここに逃げ込んでるようじゃ級長も形無しだな」
五嶋にからかわれて北都は頬を膨らませたが、何も言い返せなかった。
あれからも休み時間のたびに楓花の密かな突撃を受け、妄想を過分に含んだ視線を投げつける彼女との攻防戦が繰り広げられたのだ。
彼女としては、【同性愛者】というマイノリティの北都を応援しているつもりらしいが、激しい誤解の上にもはやストーカー以外の何物でもない。ただじっと見つめてくるだけならまだしも、あれやこれやと見当違いな恋愛指南をしてくる楓花に、辟易を通り越して生気を吸い取られている気分になっていた。
放課後になっても楓花に静かに追いまわされ、北都は追跡を振り切ったところでこの五嶋教官室に逃げ込んでいたのだった。
「火狩の名誉のために、あたしと火狩と付き合っていないことについては納得してもらったんですが、そしたら今度は『ツライ片思いなんですね……』とか言い出しやがって」
まったく、頭がおかしいとしか思えない。
諏訪がクスッと笑って聞いてきた。
「ホントにそういう感情はないの?」
「あるわけないでしょう!」
北都は憤慨した。
火狩のことは尊敬している部分もあるし、キライではないが、仲の良いクラスメイト以上の感情は持っていない。そういう感情を持つこと自体、失礼なことだと思っている。
「大体、あたしがホンモノの男で、ややこしい設定背負って女子寮住んでるだなんてホラ話、よくも考えた──」
「あ、それ考えたのオレ」
五嶋の軽々しい言葉に、北都はあ然となった。
「は!?」
「ずいぶん前に軽い冗談で話したのに、信じてるヤツがいたんだなぁ」
まるで他人事のように話す五嶋。その軽い冗談でこちらがどれだけ迷惑してるかも知らずに……
「……やっぱりアンタが諸悪の根源かっ!」
立ち上がり、目を剥いて怒るが、五嶋は相変わらずどこ吹く風だ。
途端にめまいに襲われた。ずっと頭は痛いし、寒気はするし、喉も痛くなってきている。
怒る気力もなくしてフラフラとソファに座り込んだ北都に、諏訪が心配そうに声をかけてきた。
「大丈夫? 寮に帰って休んでたほうがいいんじゃない?」
「熱はないから大丈夫です。それに今、廊下に出たくないんですよ」
北都は青ざめた顔をげんなりとさせた。まだ楓花がこの辺をうろついているかもしれない。見つかったらまた面倒なことになる。
「ホントにどいつもこいつもムカつく……なんかホントにムカムカしてきた」
胸のむかつきに加えて、咳も出てきた。諏訪が眉をひそめる。
「風邪かな。やっぱり今日は帰って、薬飲んで寝たほうがいいよ。顔色もあんまりよくないし、ひどくなる前に早めに治しなさい」
今日のところは、諏訪の言うことを聞いておいたほうがよさそうだ。
「万が一インフルだといろいろと面倒だしな。帰れ帰れ」
てめーが言うな……といわんばかりに五嶋をギロリと睨んだが、言った当の本人は週刊誌に目を向けてそ知らぬ顔だ。もう今日は逆らわず帰ることにしよう。
「まあ、きっとそのうち落ち着くよ」
バッグを担いでソファを立った北都を、諏訪は苦笑気味ながら慰めてくれた。普段はわずらわしい優しさが、弱っているとことのほか身にしみる。
「熱しやすい分、冷めるのも早いと思うけどな」
そうは言うが、あの楓花が簡単に引き下がってくれるとは到底思えない。
「ならいいんですけどね。じゃ、失礼します」
投げやり気味に言って、北都はドアへ向かった。
教官室のドアをそーっと開け、廊下を見渡す。幸い、楓花の影は見当たらなかった。
一安心して廊下に出て、階段に向かった……が。
「うげっ」
階段の下から楓花が上がってくるのが見えて、北都はあわてて物陰に隠れた。やっぱり放課後になってもここに来ていたのだ。
彼女が三階に上ったのを確かめて、北都は早足で階段を下りた。
「うわっ」
角を曲がったところで、誰かにぶつかりそうになって足を止めた。
見ると、知らない顔の男子学生だった。北都と同じくらいの身長だが、ガッチリとした身体つきで、短髪の頭に色黒の顔、凛々しい眉毛が印象的だ。野球部仕様のスポーツバッグを肩から提げている。電気棟では見たことがない顔なので、他の科の学生だろう。
「すみません」
年上っぽいので、頭を下げてその横をすり抜けた。
「あ、鯨井先輩」
楓花の声が追ってくるのを感じて、北都は急いで玄関を出て女子寮に向かった。寮に逃げ込んでしまえば、同性でもカンタンには入れなくなる。
逃げる北都と、追う楓花。
二人の背中を、男子学生の視線がさらに追う。その目つきは一際厳しかった。




