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一月。
より一層冷え込みが厳しくなる中、冬休みが終わり、後期後半が始まった。
さすがにこの時期になると、寮から学校までのちょっとの距離でも、ダウンジャケットを着ないと外に出られない。学校や寮の中はガンガンに暖房が入っているので暑いくらいだが、外気との温度差が身体にこたえる時期だ。
冬休みが開けてすぐの二日間は、スキーの集中授業があった。
北海道は当然ながら雪が多く、スキー場も多い。小中学校でも冬の体育はスキーというところが多いが、中にはスケートがメインの地域もあり、北海道人でありながらスキーがまったく滑れないという、ある意味見掛け倒しな人間もいる。
北都の身近で言えば、多佳子や同じ三Eの光井がその類であった。
「スキーなんて、何が楽しいのよ!」
始まる前から多佳子はキレ気味だ。
「確かに、寒いし重いし、あたしもあまり楽しいとは思わないけどね」
北都は滑れる方の人種なので、普通の体育の授業ぐらいにしか思わないが、滑れない人間にとっては苦痛以外の何物でもないらしい。
「マジ、バックレればよかった……」
光井もバスの中で早くも青ざめた顔だった。
光井は帰国子女で、小学生までは東南アジアで過ごしていたそうだ。英語の成績は三E随一だが、体育の成績はスキーに限らず、あまりよろしくない。
まったく滑れないチームから上級者チームまで四グループに分かれて、北陵郊外のスキー場で授業は行われた。
二日目は午前で授業は終わり、午後は自由滑走になっていた。
「めっちゃ冷えるわ。早く寮帰って風呂入りたい……」
暖かいカフェテリアで、北都は三Eの数人とともに、ランチ後のまったりとした時間を過ごしていた。スキーはそれほど嫌いではないが、授業でくるスキーほど楽しくないものはない。いい加減疲れたし、もう滑る気はなくしていた。
「風呂って言えば」
同じように、滑り疲れてまったりしていた黒川が声を上げた。
「鯨井……お前ってさ、当然女子寮の風呂に入ってんだよな」
「当たり前だろーが」
なんだかこの先の展開が読めた気がするが。
「ってことはさ…………芹沢さんのあのFカップを、毎日生で拝んでるってことだよな?」
「……まあ、一応」
ほらやっぱり。
黒川は大仰なため息をついて──そして、カッと目を見開いた。
「……なんで鯨井ばっかり!? お前もオレも大して外見かわらねーじゃん! なのに何でお前は女子寮で生活できんだよ!」
「黒川、モテなすぎてとうとう頭おかしくなったか」
横にいた火狩がすましてつぶやくが、黒川は意に介さず、真剣な表情で北都に迫ってきた。
「鯨井! 一緒に階段の上から転げ落ちたら、お前と中身入れ替わるかも。そしたらオレも女子寮に……」
指をパキポキ。北都は瞳孔の開いた目で黒川を見下ろした。
「……てめー一人だけ、階段の上から突き落としてやるよ」
「ぎゃー! 鯨井に殺される!」
とはいえ、思春期真っ只中の男どもにとっては、男子寮以上に入館規制が厳しい秘密の女の園、【女子寮】という響きですら甘く狂おしいものに聞こえるらしい。
女ばかりの目くるめく耽美な世界──
だが男どもは知らないのだ。女子寮の中の、目を覆いたくなるような悲しい現実を……
「北都ー、見て見てー」
自室のドア口から響く希の声。机に向かって実験レポートを書いていた北都は、振り返るなり顔をしかめて答えた。
「希先輩! お願いですから、そんなカッコでウロウロしないでくださいよ!」
「いいじゃない。減るもんじゃないし。それよりも見てよ、おにゅーのブラ」
豊満な胸が今にもはちきれそうなタンクトップ姿。その肩ヒモをずらして、買ったばかりのブラを見せ付けてくる。北都が本物の男なら確実に前かがみになっているところだが、残念ながら北都は身も心もれっきとした女だ。
「先輩……しかも何食ってるんですか」
「え? さきいか。北都も食べる?」
学校の中では男子学生の羨望のまなざしを集めるFカップの美女が、寮の中ではおっさんよろしく、さきいかを食いながら下着姿で堂々と闊歩しているなど、男どもは露とも思わないだろう。
しかもこれは希だけに限った話ではなく、多くの女子寮生が同じようにあられもない格好で生活しているのだ。
女子寮の中では羞恥心など風の前の塵に同じ。男の目がないと、こうまでもだらしなくなるものなのか。
呆れて、北都は苦言を呈した。
「もうちょっと羞恥心持ってくださいよ……」
「北都にそれを言われるとはね」
希は何処吹く風。
「失礼な。そりゃあたしは乱暴でガサツですけど、寮の廊下で下着を見せながら歩くような真似はしませんよ」
「あーあ、北都が本当の男だったらなー。もうちょっとおもしろい反応してくれるのに」
寮の中では、北都はすっかり希のオモチャである。冬休み中に散髪して、いつもよりも短くなった北都の髪を、ツンツンつついて遊び出す始末だ。
「本当の男だったら、ここにはいませんよ」
「女子寮ハーレムとか、男だったら垂涎モノよね」
「それなんてエロゲですか。アホなこと言ってないで、仕事してください。点呼の時間ですよ、寮長」
寮生が各自の部屋に戻っているか、点呼を取るのも寮長の仕事だ。希は口を尖らせながらも、名簿を取りに自分の部屋へと戻っていった。
年が明けて新年も半月以上経ったが、北都たち学生の生活に大きな変化はない。
授業に実験に実習にレポートに、追いかけられるものが多くて、イヤな人気者になった気分だ。
それに加えて北都は級長としての仕事もあり、毎日が目まぐるしい忙しさだ。宿題のドイツ語翻訳を片付けたいのに、五嶋に仕事を押し付けられるとノートを叩きつけたくなる。
今日もまた、イスから動こうとしない五嶋にこき使われた。
「建築の杉原先生のとこに、これ持っていって」
五嶋は机の上に積まれた紙の山を、あごで指して言った。
「何すか、これ」
「四Aの情報処理演習のレポート。杉原先生が担任なの」
どうやら、五嶋が担当した四年建築のレポートを返却してこいということらしい。このように、科をまたいで他科の教員が授業を受け持つこともままある。
「はいはい、わかりましたよ」
紙の束を両手で抱えて教官室を出たところで、さっそく山が崩れてレポートが落ちてしまった。あわてて束を床に置き、散らばったレポートをかき集める。
「ああっ、めんどくさい!」
「何やってんだよ」
拾いながら振り返ると、火狩が立っていた。諏訪の部屋から出てきたところを見ると、実験レポートを出しに来たようだ。
「建築棟に持ってくレポートだよ。ったく、人づかいの荒い担任なんだから」
ブツクサ文句を言いながら集めていると、火狩がいつの間にか紙の束を抱えていた。
「早く行くぞ」
「え……あ、ああ」
あまりに自然な言い方だったので、それ以上何も言えず、先を歩き出した火狩の後を追いかけた。
「半分持つよ」
「触るなって。また崩れるぞ」
そう言って、火狩はレポートを渡そうとしない。仕方なく北都は数枚のレポートだけを握り締め、彼の隣に並んで建築棟につながる渡り廊下を歩いた。
「お前ってさ……女の子にモテるでしょ」
「はあ? なんだよ、いきなり」
「諏訪先生みたいに見るからに優しいタイプもいいけど、お前みたいに一見冷たいタイプに優しくされるのにも、女の子は弱いって」
火狩は絶句してこちらを見ている。
「希先輩が力説してた。【ギャップ萌え】だって」
「あっそ……」
気抜けしたように火狩は吐き捨てたが、そっぽを向いてつぶやいた。
「お前はどうなんだよ」
「どうって……何がさ」
「お前も一応性別は女だろ」
一応、をやけに強調してくる。
北都は少しだけ目を伏せて、答えた。
「……うん、惚れた」
「えっ…………ええっ!?」
北都の爆弾発言に、火狩は二度見してこちらを凝視してきた。まるでバケモノでも見るかのような目だ。
「なーんて言ったら、『気持ち悪っ!』て思うだけだろ?」
「ま、まあな……」
火狩はホッとしたように、苦笑いを浮かべた。
普通の男の反応なんて、そんなものだろう。
「あたしは女の子だなんて、そんな可愛いもんじゃねーし。まあでも、優しくされることに対して悪い気はしないけどな」
「諏訪先生に対してもか?」
「あの人の優しさは……なんつーか、イヤミなんだよな」
「……そうか?」
「言うことなすこと全部キザったらしいしさ、毎回鳥肌モンだよ」
「まあ、オレらには絶対に言えないようなこっぱずかしいことでも、平気で言うからな」
「だろ? なんでアレが女子に人気あるのか、あたしにはわかんねー」
「そんなこと言える女子も、お前くらいだと思うけどな」
「それならまだ、お前みたいなギャップ萌えのほうが理解できるよ」
「お前は理解しなくていい。むしろするな」
「はいはい、そうですか」
そんなムダ口を叩きながら建築棟に入る。基本的な造りは電気棟と同じなので、目的の杉原教官室はすぐに見つけられた。二人揃って教官室に入り、無事にレポートを届けることができた。
「助かったよ。ありがと」
「通りがかった船ってヤツだ」
教官室を辞し、二人でまた電気棟に戻る。
「他の棟って滅多に来ることないからかもしれないけど、なんかニオイがちがうよな」
建築棟の廊下を歩きながら、北都は鼻をひくつかせた。
「建築はやっぱ女の子多いねー。電気よりもイイニオイがする」
通る道すがら、すれ違う学生も女子の比率が多い。電気棟では女性とすれ違うこと自体まれだ。
「化学棟なんて、女子多いけど、薬品のニオイのほうがキツイぞ」
「機械はホント男のニオイしかしないよな」
火狩と顔を見合わせ、笑ってしまう。
電気棟に入ったところで、火狩と別れることになった。
「じゃ、オレは教室戻ってから帰るから」
「ああ。お疲れ」
階段を上っていく火狩に手を振り、北都はまた五嶋教官室へと向かって歩き出した。
その背中を物陰からじっと見つめる奇妙な視線に、気づくわけもなかった。
一月も後半になると、卒業が迫った五年生の周囲は俄然慌しくなってくる。二月に入ればすぐに卒業研究の発表会があり、早めの期末テストを終えると一足先に春休みに入るからだ。
女子寮の中でも、五年生が自室の机に向かって、必死に発表資料を作っている。二年後の自分の姿を見ているようだ。女子寮にいる五年生は全員進路が決まったと聞いたが、二年後、自分の進路は一体どこに向かうことになっているのだろう。
そんなある日の朝。今朝は特に冷え込み、朝の最低気温はマイナス二十度を下回っていた。
息も凍りそうな厳しい寒さの中、白い息を吐きながら北都が寮を出ると、妙な視線を複数感じた。
元々奇異な目で見られることには慣れているが、それとはちょっとちがう気がする。周囲の学生たちが自分を見ては、ヒソヒソと噂話をしているようなのだ。
そういえば二、三日前から、五嶋や諏訪からも奇妙な目で見られていた。五嶋はいつも以上にニヤニヤとした、そして諏訪はやけに生温かい、そんな目。
どうにも気味の悪い、腹に一物も二物もありそうなものながら、聞けば激しく後悔しそうで聞けなかった。
「おはよっす」
視線を避けるようにして三Eの教室に入ると、ここでもまた、同じ視線がいっせいに北都に降り注いだ。
「な、何?」
思わずたじろぐが、誰もハッキリしたことは言わず、五嶋や諏訪のように微妙な目で見てはヒソヒソ話し込んでいる。
そんな中で、一番わかりやすい顔をしていたのは、やはり黒川であった。
最前列右端の自席に座った北都に、黒川は不気味な笑みを浮かべて近づいてきた。
「よっ、鯨井」
「なんだよ、朝からニヤニヤして気持ち悪い」
こいつがこういう顔をしているときは、大抵何かよからぬことを考えているときだ。締め上げて、何があったのか吐かせたろか──と思ったその時。
「おっ、来た来た」
ドアから入ろうとしている人物に、黒川は同じようにニヤついた顔を向けた。
「おはよう」
入ってきたのは火狩だった。別に何もおかしいところは感じられない、いつもの火狩だ。
「鯨井、お前電子工作の本……」
こちらに近づいてきた火狩を、黒川は捉えるようにしてガシッと肩を組んだ。
「火狩……すまんな、お前がそういう趣味だって気付かなくって……」
「え、何が?」
「またまた、とぼけちゃって」
「だから、何が」
曖昧な黒川に、火狩がキレ出す。
「鯨井も、もう隠さなくていいんだぞ」
「そのもったいつけた言い方やめろよ。なんだって言うんだ?」
北都も同様だ。そろそろ本気で締め上げたほうがいいかもしれない。
イスから立ち上がり、火狩と並ぶ形となった北都に、黒川は最高にムカつく笑みを見せて言い放った。
「お前ら────付き合ってんだろ?」
北都はその言葉の意味を一生懸命に考えた。そして出た言葉は。
「…………はあ!?」
北都と火狩の疑問符が、仲良くシンクロした。




