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セントポールホテル、ロビー階。
メインエントランスの前には、イラつきを隠そうとしない北陵高専の学生主事・浦沢教授の姿があった。
あの悪名高い三Eのことだから、旅行中問題を起こさないわけがないとは思っていた。ここまで何のお咎めもなくやってきたので、薄気味悪いものさえ感じていたが、やっぱり最後の最後でやらかしてくれたものだ。
担任の五嶋准教授はといえば、申し訳なさそうにするわけでもなく、ロビーのソファに座って堂々とスポーツ新聞を読んでいる。この男が頭を垂れていても、それはそれで気持ち悪いのだが、だからといってこうまで臆することない態度を取られるのも非常に腹が立つ。彼曰く、体力と土地勘のある副担任に探しに行かせたらしいが……
見学旅行には、毎年多かれ少なかれトラブルがつき物だが、一日に何度も学生を叱責するのは体力の要ることだ。できることならやりたくないが、そうもいかないだろう。
時刻は九時半を過ぎた。ロビー階にいる人影はまばらで、そのほとんどが北陵高専関係者だ。脱走した学生と同じ三Eの学生数人も、心配そうに外の様子をうかがっている。
「あっ、帰ってきた!」
学生の一人が声を上げた。自動ドアのガラス越しに、見覚えのある人影が二つ見える。
副担任に連れられて、脱走した張本人・鳥飼は自動ドアを開いて入ってきた。
疲れた表情の彼は浦沢の前までやってくると、深々と頭を下げた。
「あ、あの……すみませんでした」
殊勝な心がけだが、そう簡単に許すわけには行かない。早速お説教の開始だ。
「まったく……一人で無断外出するなんて何を考えてるんだ!」
鳥飼を叱責することに忙しかった浦沢は、その時ロビーを通り抜ける客に気づくはずもなかった。
その客に目を向けたのは、鳥飼を見守っていた同じ班の学生、市川と光井、梁瀬だけである。
彼らの目の前を、ヒールの靴音を響かせながら颯爽と歩いていく女性客。長い髪を翻してあっという間に去っていった彼女の背中を、三人はボーっと見送った。
「すげー……」
「……足長っ!」
「モデルみてー」
◇
一方その頃、火狩は少し離れたエレベーターホールの陰で、コートを持って立っていた。
「なんでこんなところに……」
それは五嶋の指示だった。理由を聞いても、五嶋はニヤニヤと笑うだけで教えてくれない。ただ「待ってればわかる」としか言わなかったのだ。
毎度のことながら、五嶋ののらりくらりとした姿勢にはイラ立ちが募るばかりだ。本当に、このピンチな状況がわかっているのだろうか。
鯨井からも諏訪からも、連絡はない。通路に背を向け、スマホの画面を凝視するが、着信の気配すらなかった。
「ったく……人の気も知らないで」
一人悪態をついたその時、背中に衝撃を感じた。
「ぎゃっ」
「……っと」
誰かがぶつかったようだ。これだけ広い通路なのに、わざわざこちらに向かってぶつかってくるとは……イラ立ち紛れに、険しい表情で後ろを振り返る。
大きなバッグを抱えた、セミロングの黒髪を持つ女性だった。
ミニ丈のワンピースから伸びる細く長い脚。黒タイツフェチではないが、思わず目を奪われてしまう艶かしさがある。スレンダーで、ずい分と背が高い。
よく見ると、キレイな顔立ちをしている。少しキツメだが、冷ややかに存在を主張してくるハッキリとした顔立ち。「クールビューティ」という言葉がしっくりくる。
声をかけられるまで、魅入っていたことに気づかなかった。
「……火狩」
彼女の艶やかな唇から、聞きなれたアルトボイスが漏れ出す。
「ん?」
なぜ自分の名を……という疑問はすぐに払拭された。
「あたしだよ」
こちらを見つめたキツイ瞳。不機嫌そうに眉根を寄せるその表情。
何故気づかなかったのか……見覚えのありすぎるその顔に、火狩はおどろきのあまり、とっさに声を上げてしまった。
「……くじ」
名前を全部言う前に、手で口を塞がれた。大声を出すなということか。
火狩は一瞬で状況を理解した。無言でコクコクとうなずくと、物陰に隠れるようにして彼女にコートを羽織らせ、ちょうどやってきた無人のエレベーターにその背中を押し込んだ。
二人だけのエレベーターが動き出し、やっと人目を避けることができて、彼女──鯨井は緊張の糸が切れたように大きく息をついていた。
「……お前……なんでそんなカッコ……」
火狩はそっぽを向いたまま言った。急に恥ずかしくなって、鯨井を正視することができない。
言えない……絶対に言えない。死んでも言えない。
たとえ一瞬でも──コイツのことを「美人」だと思ったなんて。
「あたしだってこんなカッコしたくねーよ。けど、勝手に飛び出して行ったバツだって、諏訪先生が……」
鯨井は苦りきった顔で言葉を濁らせた。
誰にも見つからず、ホテルに戻ってくる方法もあっただろう。だが、諏訪はあえて鯨井を変装させたのだ。
このモデルのような女が鯨井だとは、誰も思わなかったようだ。隠れてコソコソ動くよりは、これくらい堂々と入ってきたほうが目立たないのかもしれない。
「そういうことか……くっそ」
思い当たるフシを思い出して、火狩は一人歯軋りした。
自分を鯨井の保護に当てたのは、きっと諏訪の差し金だろう。鯨井のことを認めない自分に、美しく変身した鯨井の姿を見せつけたかったのだ。
大人の手のひらの上で弄ばれている気がして、無性にムカついてきた。
「ったく、お前、死ぬほど似合わないな」
ぶっきらぼうに、語気を強めてそう言うと、鯨井は目を剥いた。
「改めて言われたくねーよ! わかってんだよ、そんなこと」
こういうところは、やはり鯨井だ。
黙っていれば美人に見えるのに……ああ、まただ。
火狩は地団駄を踏みたい気持ちを抑えて、気を落ち着かせるために大きく息をついた。
エレベーターは鯨井の部屋があるフロアに着いた。先に火狩が降りて、廊下に誰もいないことを確認する。そこからは猛烈な早足で、鯨井の部屋に向かった。
部屋をノックすると、中から心配そうな佐久間の顔がのぞいた。
「……まさか、北都!?」
ここでも大声を上げそうになった佐久間を制し、鯨井は部屋の中にすべりこんだ。
「火狩くんも入って」
うながされるままに、火狩も二人の部屋に入ってしまった。
「ちょっと、あんたそれ変装? えらく変身したものねえ……」
どこかうれしそうな佐久間が、鯨井を上から下まで眺める。
「諏訪先生にあちこち連れて行かれて、店員に身ぐるみ剥がされていろいろされたんだよ。こんな変装させられるくらいなら、鳥飼と一緒に叱られたほうがマシだった……」
いくらバツとはいえ、この鯨井にイヤイヤながらも女装させるとは……諏訪の手腕には目を見張るものがある。
「火狩……わかってんだろうな」
急に鯨井に詰め寄られて、思わずたじろいでしまった。
「え……何が?」
「何がじゃねーよ。あたしがこんなカッコしてたこと、他の奴らにバラしたら、ブン殴るからな」
「……言ったって、誰も信じるわけないだろ」
「……それもそうだな」
火狩ですら、声をかけられるまでわからなかったのだ。通りすがりに見ただけのやつらは絶対にわかっていないだろうし、信じもしないだろう。
「化粧までしてもらって……あんた、美人だったのねぇ。ね、写真とってもいい?」
佐久間は暢気にスマホを取り出している。
「今の話聞いてたでしょ! 絶対ダメ!」
「北都のケチ!」
写真を撮られてはかなわないと、鯨井はさっさと髪の毛をつかみ、ウィッグを剥ぎ取った。
いつもの髪型に戻って、途端に全身アンバランスになった。ヒールも脱ぎ捨てて、ティッシュをつかんで顔をゴシゴシとこすり始める。あわてた佐久間がメイク落としシートを渡さなければ、ティッシュでメイクを落とすつもりだったのだろうか。
すっぴんに戻った鯨井は、いつものように目を吊り上げてこちらに迫ってきた。
「いつまで見てんだよ」
「え……あ、いや」
鯨井の顔と頭がいつも通りになっただけで、ホッとしてしまったのは何故だろう。
「ここまでついてきてくれたのはありがたいけど、着替えるからもう出てって」
「ああ……」
文句を言う気になれず、火狩は素直にドアに向かった。
「火狩……また迷惑かけて、悪かったな」
声をかけられて振り返ると、鯨井は疲れた笑みを浮かべていた。
こんな顔、いつも見慣れているはずなのに──なんだろう、胸のあたりが妙にもぞもぞする。
「もう慣れたよ」
火狩は冷たく言って、ドアを乱暴に開けて出て行った。




