7
北都は夜の街を走っていた。
冷たい夜風を切り、辺りに目を走らせながら、鳥飼の姿を探す。
交差点を曲がり、大きな通り沿いに歩道を走ってみるが、鳥飼の姿は一向に見つからない。通りすがる人々が、全力疾走する自分の姿を怪訝そうに眺めるばかりだ。
通りの両側には、金色に染まったいちょう並木。だが今はその美しさを堪能するヒマなどない。
あいつ……まさか自殺するつもりじゃ……
見たことのない、思いつめたような顔をしていたというだけで、何の根拠もない考えだ。ホテルを飛び出して行ったのだって、単に遊び足りなかったからというしょうもない理由かもしれない。
それでも……あいつがあんな顔するなんて、絶対何かあったに決まってる。きっと、七瀬さん絡みの話だ。
その根拠はと問われれば、女のカンと言うしかない。皮肉なものだが、こういう緊急事態には妙なカンが働くのだ。
しばらく走っていくと、道は緩やかに上り跨線橋になった。線路が何本も横たわる、大きな橋だ。人通りも車通りも北陵とは比べ物にならない多さで、広い歩道には飲み会帰りのサラリーマンみたいな人々が大挙して歩いている。
その跨線橋のてっぺんに、歩道が物見台のように丸く突き出している部分があった。様々な電車が走る姿を眼下に眺められる、絶好のポイントだ。今も誰か、手すりに手をかけ、身を乗り出すようにして下を走る電車を眺めている男が──
「いた────っ!」
北都が大声を上げ、指を差したその先にいた男。
「鳥飼! 待てコラ!」
北都はダッシュで橋を駆け上がり、身を乗り出す鳥飼の身体にタックルをかました。
「バカ! 早まるな!」
「えっ、わっ、なん……く、鯨井!?」
ジタバタもがく鳥飼の身体をしっかりとホールドする。だがタックルの力が強すぎたのか、彼の身体が持ち上がり、手すりからさらに身を乗り出すかたちになってしまった。
「わーっ! 鯨井! 危ない、落ちるって!」
手すりをつかんで必死に抵抗する彼に、北都は拍子抜けして手を離した。
「え、飛び降りようとしてたんじゃないの?」
「そんなことするわけねーだろ」
「じゃあ何してたんだよ。深刻な顔して」
「電車見てたんだよ。新宿にはいろんな路線が乗り入れてるからさ。北陵じゃなかなか見れないよ、こんだけの電車」
鳥飼は屈託なく笑った。あ然……
「……ただの鉄ヲタかよっ!」
暢気な鳥飼に、北都は怒り心頭だ。
とはいえ、自殺しようとしていたわけではなさそうで、ひとまず安心した。
「ったく……心配させやがって。お前、まさか電車が見たいから脱走したとか言わねーだろうな」
「何となく歩いてたら電車が見えて、ここで足を止めただけだよ。脱走……そっか、オレ、飛び出してきちゃったんだよな」
今やっと、事の重大さを自覚したらしい。よほど衝動的に飛び出してしまったようだ。
鳥飼は、それきり黙りこんだ。
黙秘というよりは、どう話を切り出したらいいのか迷っているように見える。北都は横に並び、彼が自分から話し始めるのをじっと待っていた。
自分たちの後ろを、大勢の人々が行き来している。だが、誰も自分たちを気にとめようともしない。
これだけ大騒ぎしていても、何事もなかったかのように通り過ぎる人々。何となく都会の冷たさを感じて、無性に北陵が恋しくなってきてしまった。
「史佳……彼女と外出時間に会ってたんだ。そこで『別れよう』って言われちゃってさ。何となく、感づいてはいたんだ。最近はメールもあんまり来なくなったし、オレが東京に行くって言っても、あんまりうれしそうじゃなかったからな」
鳥飼はようやく口を開いた。
やっぱり……想像はしていたことだが、実際に聞くと途端に気持ちが重くなる。
「その場では『わかった』って引き下がったんだけど、ホテルに戻ってからやっぱりあきらめ切れない気持ちが強くなって……もう一度会って、『やり直したい』って言おうと思って、ホテル抜け出した」
「会えたのか?」
鳥飼はかぶりを振った。
「いや……それが、段々と未練がましい自分が嫌になってきてさ。『オレってすげーカッコ悪いんじゃね?』って。電話で呼び出そうとしたけど、結局やめちゃった」
鳥飼は手すりに肘をついた。白く大きなため息が、夜の喧騒の中に溶けて消える。
「史佳とは幼馴染だったんだ。三歳違いで学校は入れ違いばっかりだったけど、ずっと好きだった。ホントはオレ、成績的に高専ムリって言われてたんだけどな、史佳が行った学校だったから、どうしても行きたくて必死に勉強した。合格発表見て、その足で史佳に告白しに行ったんだ。オレってしつこいヤツだろ?」
鳥飼は三Eの中でもそれほど目立つ男ではない。ちょっとイキがってる、くらいにしか思っていなかったが、垣間見せた情熱的な一面に北都は驚いた。
「史佳が東京の大学に編入が決まったときは、『遠恋になっても大丈夫』なんて強がっちゃったけどな。ホントはすごく寂しくて、辛くて……彼女が東京で変わるなんて思いたくなかったんだろうな。でも案の定、これだよ。史佳にとって、オレはやっぱり弟みたいなもので、それ以上にはなれなかったらしい。大学に行って、その思いが強くなったんだとさ」
溜まりに溜まった感情を少しずつ吐き出すように、鳥飼は淡々と話を続ける。
「史佳にふさわしい、大人の男を目指してたはずなのにな……クールにも情熱的にもなりきれなかった。物分かりいいフリしてさ、別れようって言われても、その場じゃ何にも言えなかったくせに、後から後悔するばっかりで……そうやって一人ジタバタしてる自分が嫌で、結局ここで電車を眺めてるだけのヘタレにしかなれなかった」
女に格好悪いところを見せたくない、そんな妙な見栄だけは強い。男というものは、案外そういうものかもしれない。
黙って話を聞いていた北都に向けて、鳥飼は自嘲気味に笑った。
「ほーんと、だっせーよな。男なら、すっぱりあきらめろっつの。未練がましく思い続けるなんて、そんな女々しいこと……」
「──未練持つことのどこが悪いんだよ」
そう言い切った北都を、鳥飼は驚いた目で見上げた。
北都は力をこめて、ずっと思っていたことを口に出した。
「それだけ、七瀬さんのことを本気で好きだったってことだろ。そこまで誰かのことを好きになれるなんて、あたしはお前がうらやましいよ。誰かを好きになる前から臆病になって、好きになるだけの勇気も自信も持てなくて、自分のことすら嫌いになりかけてるあたしに比べりゃ、お前はずっとずっと勇敢で、強い人間だ」
悩んで悩みぬいて、挙句夜の街に飛び出してしまうほど、それくらい彼にとってはこの恋が大事なものだったということなのだ。自分には真似できない強さを、彼は持っている。
鳥飼は目をパチパチさせて、こちらを凝視している。恥ずかしかったが、北都は胸を張って続けた。
「みっともなくなんかない。そりゃ迷惑かけるようになっちゃダメだけどさ、もうしばらくは、静かに想い続けてもいいんじゃない? いつか忘れられる日がくるかもしれないし、その日が来なかったら、その時また考えれば?」
そう言うと、鳥飼は呆れたように頬をゆがめた。
「問題の先送りかよ」
「時間が経たないと、分からないことだってあるだろ。今のこの気持ちに整理がつくその日まで、自分の感情ムリに捻じ曲げることないさ」
彼の苦しい胸の内を少しでも和らげる方法は、それくらいしか思いつかなかった。長年の恋に終止符を打った彼をこんな言葉で納得させられるとは思わないが、少しでも力になれればと、言語のあらん限りをつくしてひねり出した言葉だ。
鳥飼ははにかむように薄く笑っていた。
「そんなもんかな」
「そんなもんだろ、きっと」
北都は鳥飼と顔を見合わせ、そしてしっかりと笑った。
もっともらしく語ったが、後半に関しては何の自信も根拠もない。思いつきと勢いで半分口からでまかせだが──鳥飼が立ち直れたのなら、それでいいことにしよう。
ひとしきり笑った後、鳥飼ははたと気づいたように真顔に戻った。
「ところで鯨井。今更だけど……なんでお前ここにいるの?」
ギクリ、と身体を硬直させる。
「……お前を探しにきたに決まってんだろ」
「ってことは、お前も無断外出?」
わなわなと握り締めた拳を震わせ、そして北都は叫んだ。
「……そうだよ! あたしもとっさに飛び出しちゃったんだよ! 悪いか!」
人のことは言えない。自分も今ようやく、規則を破ってしまったことを後悔しているのだ。
「くっそ。あたしもお前と同罪だよ……どうやって帰ればいいんだ」
悲しくなって夜空を見上げたが、星はほとんど見えなかった。周囲が明るすぎて、星の灯りが届かないのだ。
見下ろせば、線路を走る色とりどりの電車。「眠らない街」といわれるこの新宿で、雑踏に紛れて途方にくれてしまう。吹き抜ける夜風が、惨めさを増してくれた。
背後に人が立ち止まった気配を感じたのと、ほぼ同時だった。
「──鯨井さん、鳥飼くん」
やけに聞き慣れた声。朗らかだが、妙に険のある声が後ろから聞こえてくる。
「その声は……」
嫌な予感がするが、振り返らないわけにはいかない。北都と鳥飼はゆっくりと後ろを向いた。
「やーっと見つけたよ」
笑顔で仁王立ちになっていたその男。
名前を呼ぶまでもないが、予想通りの展開についつい口に出してしまう。
「諏訪先生……」
三Eの副担任・諏訪は、自分と鳥飼の姿を確かめて、疲れたように大きくため息をついた。
わずかだが彼の息は上がり、寒風が吹きつける中だというのに、その額にはうっすらと汗が浮かんでいる。
きっと自分たちを心配して、あちこち走り回っていたのだ──見つかってしまったことより、この副担任に心配をかけていたことに気づき、ふとどうしようもなく申し訳ない気持ちになる。
一言謝ろうとしたその時、諏訪がフッと表情を緩めた。自分たちの無事を喜ぶ、その優しい微笑みに──
「──二人とも! 無断外出とはどういうことだっ!」
いきなり飛び出した激しい叱責の言葉に、北都は思わず身をちぢ込ませた。
いつもの諏訪からは想像もできないほどの大声。怒鳴られるとは思っていなかったので、ことさらに驚き、堪えた。
彼を正視できず、上目遣いにチラリとみやると──
アカン、これ……完全ブチギレモードですやん。
静かな怒りをたたえて自分たちを見下ろすその顔は、見たこともないほどに恐ろしいものだった。
普段は温厚で、声を荒らげるところなど想像できなかった諏訪が、これほどまでに怒るとは……改めて自分たちのしでかしてしまったことの重大さに、愕然となる。
「あの、その、これはですね、理由があって……」
鳥飼が言い訳しようとしたが、諏訪はそれをバッサリ切り捨てた。
「どんな理由があろうとも、規則で禁じられていることをやっちゃダメだ! こんな知らない土地で、もし何かあったらどうするつもりだったんだ!」
さらに諏訪の怒りは、北都一人に向いてきた。
「特に鯨井さん! 君は女の子なんだよ。夜遅くに新宿だなんて、都会の人間でもどうかと思うのに、ましてや何も知らない君が出歩くなんて、軽率にもほどがある!」
普段の北都なら言い返していただろう。
だが今は、自分に非があることは十分にわかっている。これだけ叱られても仕方ないことを自分たちはやったのだ。
「……すみません……でした」
北都はまっすぐに諏訪を見つめて、深々と頭を下げた。鳥飼も一緒に腰を折り頭を下げる。
顔をあげると、諏訪はまだ口をへの字に結んでいたが、ため息とともに溜飲を下げたようだった。
自分と鳥飼の頭を、軽く握った拳でコツンと叩く。痛くはなかったが、その代わりにほろ苦い思いが胸に広がった。
「とにかく……二人とも無事でよかったよ。見つからなかったらどうしようかって、本気で焦ったんだから」
苦笑い気味に頬をゆがめて、ようやくいつもの諏訪に戻った。
北都も思わずホッとしてしまった。やはり怖い諏訪では落ち着かないのだ。
鳥飼がおずおずと声を上げた。
「あ、あの……鯨井は本当に悪くありません。級長として、オレのこと心配して探しにきてくれたんです」
「うん、わかってるよ」
諏訪はうなずいた。
鳥飼だけの責任にするつもりは毛頭なかったが、こうやって彼が少しでもかばってくれたことに、うれしさを感じてしまう。
通りを走る車の甲高いクラクションの音に、ふと我に返った。
東京屈指の歓楽街が近いだけあって、遅い時間なのに人の流れは依然として多い。ホストみたいなチャラ男にキャバ嬢みたいな派手なお姉さん、客引きらしき男やあやしい外国人、それに酔っ払いの客も混ざって、混沌とした雰囲気だ。
辺りを見回して、改めてここが都会であることを思い知る。
時間を見ようとポケットの携帯電話を探ったが、そこには何もなかった。ホテルに置き忘れてきたらしい。
携帯も財布も持たず──諏訪が来てくれなかったら、鳥飼と二人、ホテルまで戻れたかどうかもわからない。
「さてと……最初に飛び出した鳥飼くんには、ホテルで学生主事の浦沢先生からのお説教を受けてもらうとして……」
諏訪の鋭い瞳が北都を捕らえた。
「鯨井さん」
「は、はい?」
「君にはこっそりホテルに戻ってもらわなければならない。級長までも無断外出したなんて、今度こそ三Eの危機だからね」
自分もたっぷりお説教コースだと思っていたから、意外だった。
ということは、自分の無断外出は公にはなっていないらしい。諏訪が探しに来たということは、火狩が五嶋に話した……いや、きっと吐かされたのだろう。
「どうやってこの難局を乗り切るか……」
諏訪は腕組みし、難しい顔で考え始めた。
こっそり戻る──といっても、正面から突っ込んで行ったのでは確実にバレる。飛び出したときは宴会客に紛れたからよかったものの、今度はそうもいくまい。
「あ、いいこと思いついた。一石二鳥だ」
諏訪は急に明るい声を上げた。笑顔に邪悪なものを感じるのは気のせいだろうか。
「夏休みの借り、まだ返してもらってなかったよね」
戦慄が走る──夏休みの悪夢がまざまざと思い出される。
「……ま、まさか?」
嫌な予感しかしない。寒気を覚えたのは、冷たい空っ風だけのせいではないだろう。
「ああ、そうか。返してもらわなくてもいいのか。これは君に対する罰でもあるんだから。僕も五嶋先生みたいな真似は、本当はしたくないんだけどね。でも背に腹は代えられないんだよ」
そう言いつつ、こちらに迫ってくる諏訪の顔はどこか楽しそうだ。
「い、いやだ……」
後ずさり、イヤイヤしながら拒絶してみるものの。
「君に選択権はない。僕の言う通りにしてもらうよ」
諏訪の悪魔のような微笑を前にして、北都には絶望しかなかった。




