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見学旅行四日目。
この日で京都に別れを告げ、午前中のうちに新幹線で東京に向かった。
新幹線の車内でお弁当を食べ、十三時過ぎに東京駅に到着。あいにくの雨だったが、そのせいか蒸したように感じられた。
「うお──っ! 東京!」
「都会だーっ!」
「お前、それ大阪でも言ってなかった?」
その後、またバスで移動し、東京郊外にある自動車工場の見学へと向かった。ここは工業高専、たとえ都会に来ても工業から離れられないのだ。
東京での宿は、新宿駅近くの大きなシティホテルである。
ここではツインルームで二人一部屋。北都は多佳子と一緒だ。部屋に入った頃にはとっぷりと日も暮れ、大きめの窓から見える景色はそれは煌びやかなものだった。
「うっわー……夜景キレイ」
結構な高層階を割り当てられたものだ。こんな高いところに泊まったことがない。
「北都……やっと二人きりになれたわね」
後ろでは、多佳子がなにやらひそめいた声で囁いている。
「って、去年まで二人部屋だったじゃん」
「ノリ悪いわね」
旅行も四日目ともなると、そろそろ疲れが溜まってきた。大きなスーツケースの中は洗濯物とお土産でいっぱい、帰ってからのことが思いやられる。
寮と学校の往復だけの一日よりは充実しているが、平凡な日々が少しだけ懐かしくなってきた。
翌日、見学旅行五日目。
今日はまた、一日自由行動の日だ。とはいえ、京都よりはショッピングメインの計画になっている。
朝九時に出発し、原宿、東京タワー、お台場にスカイツリーに浅草観光、各地でショッピングとここでしか食べられないグルメを堪能して、夜八時までにホテルに戻ってくる長丁場。今日は夕食も各自でとることになっている。
「わかってると思うけど、八時は最終到着時間だからね。これを過ぎて戻ってきたら、門限破り扱いされて、長い長いお説教が待ってるからね」
朝食会場で、諏訪がテーブルを回りながら三Eの学生たちに声をかけていた。
「迷ったらすぐ連絡しろよー。すぐに飛んでいくから」
それを突っ立って見ているだけの五嶋が言う。北都は驚いて聞き返してしまった。
「えっ、五嶋先生が来てくれるんですか?」
「諏訪が行くに決まってんだろ」
「……ですよねー」
忘れかけていたが、諏訪は三月までこの東京にいたのだ。具体的にどの辺にいたのかは知らないが、少なくともこのあたりは勝手知ったる庭ということか。
諏訪の世話にだけはならないようにしようと心に決め、北都たちの班も出発した。
まずは電車で新宿から原宿へ。さっそく多佳子や有希、真菜たちの服屋めぐりに付き合わされ、しょっぱなからげんなりしていたが、美味しいクレープを食べて少しだけ気力を取り戻した。希に頼まれたポップコーンを買うこともできた。
東京タワーは、古い割りに意外とテンションがあがり、お台場で遅めのランチを食べて、TV局やショッピングモールを見て歩いた。
その後は水上バスに乗り、隅田川を遡って一路浅草へ。
東京スカイツリーは東京タワーとは比べ物にならない高さで、地上よりも空の雲のほうが近く感じたくらいだ。
そういえば、三Eの船橋はあれだけ背が高いのに高所恐怖症で、彼のいる班は東京タワーもスカイツリーも自由行動から外したそうだ。
浅草寺では外国人に紛れてお参りをしつつ、さまざまな老舗の味を堪能。自分はともかく、他の三人はかなり食べてお腹いっぱいになっているのではないかと心配になるが、次々とスイーツを食しているあたりやっぱり大丈夫そうだ。
東京でもいいだけ買い物をして、さすがに疲れを感じたと思ったら、時間は既に六時を過ぎていた。
「あんまりおなか空いてないけど……けど最後のお店は外せないっしょ」
一応、合意の上で真菜が夕食場所に決めたのは、新宿のかわいいカフェレストランだった。浅草から地下鉄で移動し、新宿に着いたのが午後七時前。夕飯を食べて、ホテルに戻ればちょうどいい時間だ。
真菜がチョイスしたレストランは童話をモチーフにした、煌びやかな装飾にあふれる内装だった。豪華なシャンデリアが頭上で輝き、赤やピンクや緑や紫などの原色が目をちらつかせる。ハートがいたるところにちりばめられ、絵本から飛び出てきたような、かわいらしいメイドさんが店内を闊歩していた。
客も女性ばかり。自分には到底似合わないお店であることはわかりきっている。北都は大きな身体をなるべく小さくして、案内された席に向かった。
その途中、急に多佳子が足を止めたので、北都はぶつかりそうになってしまった。
「あれ……鳥飼くん」
その名前に驚いて、多佳子が見ている方向に顔を向けた。
少し離れた、低いパーテーションで区切られているボックス席、その中に鳥飼の横顔が見えた。
「あ、そうか。多佳ちゃん、部活同じなのか」
鳥飼は笑っている。その笑みを向ける先、テーブルの向かい側には、髪の長い女性が座っていた。
「一緒にいるのって、もしかして七瀬さん?」
「だろうね」
北都はうなずいた。暗めの照明で顔はハッキリとは見えないが、あの感じは多分、今年の春に卒業した先輩、七瀬史佳だろう。
「なんか……声かけちゃ悪そうな雰囲気ね」
「久しぶりの再会なんだろ。見なかったことにしてあげようや」
北都と多佳子はまた歩き出した。
皆が夕食を取っているであろうこの時間、鳥飼は一人班から離れて彼女との逢瀬を楽しんでいるらしい。
それにしても──京都で見せた妙に不安げな表情はいったい何だったのか。こちらの勝手な心配をあざ笑うかのように、今の鳥飼はとても楽しそうだ。彼女のほうも、光の当たる口元がほころんでいるのがよくわかる。
思い過ごしか。やれやれ──と思いつつ、北都は他の三人と一緒にテーブルについた。
目がチカチカするような店内だったが、料理は見た目も味も素晴らしいものだった。食べる前は「お腹空いてない」と言っていた三人も、すべての料理を、デザートまでペロリと平らげていたくらいだ。
「さすがに……お腹いっぱい。北都、ホテルまでおぶって」
「自分で歩いて消化する!」
食べ終わり、動きの鈍くなった三人を連れて席を立った頃には、あのボックス席に鳥飼と彼女の姿はなかった。先に店を出たようだ。
レストランを出て、歩いて約十分。七時四十分にはホテルに到着した。
「おかえり」
ロビーでは諏訪が笑顔で出迎えてくれた。
「ただいまっす。他のヤツらは戻ってるんですか?」
「ウチのクラスはあと二班かな」
「あの、鳥飼たちの班って戻ってます?」
「鳥飼くんたちっていうと……七班か。さっき戻ってきて部屋に行ったようだよ。どうかした?」
「いえ、なんでもないです」
心配はなさそうだ。北都も多佳子とともに自室に戻った。
明日の朝に慌てないよう、ベッドの上で荷物をまとめつつ、お風呂に入る準備をする。
「そういえば昨日さ、建築科の男子が夜中に女子の部屋に行こうとして、見つかって正座させられたらしいよ」
多佳子は話ながらベッドに足を伸ばして、むくんだ足をマッサージしている。
「バカだねー」
「しかも間の抜けたことで、マズイもの持ってるの見つかったって」
「……マズイものって、何?」
「コンドーム」
冷や汗、たらり。
「……ヤル気まんまんですか」
「いくら雰囲気いいホテルだからってさ、ちょっとマヌケよね」
「マヌケって言うか、なんて言うか……」
何もこんなところに来てまで──と北都などは考えるが、その男子にとってはここが千載一遇のチャンスだと考えたのだろう。実行に移そうとしたその勇気は認めるが、いかんせん無謀すぎる。
「正座くらいですんでよかったじゃん」
「こんだけ話が広まったら、公開処刑みたいなもんよね」
時間は門限の八時を過ぎたようだ。
多佳子のスマホにメールが来た。
「ありゃりゃ……やっぱ、まだ戻ってないみたい班があるみたいよ」
「あーあ、やっちゃったね」
毎年門限破りをする輩が出るとは聞いていたが、やはり今年も出てしまったか。
と、同時に、三Eの男子連中のことが心配になってきた。全員ちゃんと戻ってきたのだろうか。
「ちょっと下見てくるわ」
北都は部屋を出てエレベーターに乗り、一階下の男子フロアへ向かった。
フロアに着き、エレベーターのドアが開く。降りようとして、ドアの前で突っ立っていた人物にぶつかりそうになった。
「おっと……ん? 鳥飼?」
鳥飼はうつむいたまま、顔をあげようともしなかった。降りた北都と入れ替わりで、フラフラとエレベーターに乗り込み、止めるヒマもなく閉ボタンを押す。
ドアが閉まる直前にチラリと見えたその顔は──絶望の淵に立ち、その深淵を覗き込んでいるかのような、およそ見たこともない暗さだった。
思わず、鳥肌が立った。
「なんだ……?」
エレベーターはそのままロビーフロアまで下りていく。
北都ははたと気づいた。
鳥飼……あいつ、コート着てた?
北都は身を翻し、廊下を走った。適当に三Eの男子部屋のドアを叩こうとして、ちょうど向こう側の部屋から出てきた火狩を見つけた。
「火狩! 鳥飼の部屋どこだ!?」
「鳥飼? えっと……確かここだな」
ドアを破らんばかりの勢いでその部屋をノックすると、同室の市川がめんどくさそうな顔で出てきた。
「何?」
「鳥飼、どこに行った?」
北都の剣幕にビビリながらも、市川は答えた。
「え……知らない。オレ、イヤホンしてゲームしてたから……」
「ちょっと中に入るぞ」
「え、え、何?」
北都は火狩とともに部屋の中に入った。ドア近くのクローゼットのドアは開きっぱなしで、中にはコートが一つ、市川のものしか掛かっていない。靴も探したが、鳥飼の外靴は見当たらなかった。
「くっそ……鳥飼、あのバカ!」
「どうしたっていうんだよ」
一人悔しがる北都に、火狩は怪訝そうに聞いた。
「あいつ、外に出て行きやがった」
「え? 今から?」
「一人で? 何しに?」
市川も一緒になって聞いてくる。
何をしに──それはこっちが聞きたいくらいだ。だがあのとてつもなく暗い顔……それなのに、何かを決めたような妙に力のある目。まさか──
「あたし、連れ戻してくる!」
北都のセリフに、火狩も市川も慌てた。
「悪いけど火狩、なんとか先生ごまかしといて」
「そんなことできるわけないだろ! だいたい何処に行ったのかもわからないのに……鳥飼だって自業自得だ。お前まで一緒になって飛び出して行ってどうするんだよ」
北都は拳を握り締めてつぶやいた。
「あいつ、ものすごい思い詰めた顔してたんだ。そんなヤツのこと、ほっとけるわけないだろ!」
「でも……」
「何が何でもごまかせ!」
最後は命令するように怒鳴って、北都は一人部屋を飛び出した。
「待てって!」
後ろから火狩の声が追いすがってくるが、振り返ってなどいられない。
ちょうど来たエレベーターに飛び乗るようにして入ると、宴会なのか結婚式の二次会なのかはわからないが、大勢の酔客が乗っていた。ちょうどいい、彼らがロビーで降りて外へ向かうようなら、そこに紛れて行こう。
何としてでも、鳥飼を無事に連れて帰らなければ。
◇
鯨井のことを市川に口止めして、火狩もロビーへと下りた。時刻は八時半を過ぎている。
ロビーに着いてまず目に入ったのは、学生主事にガッツリ怒られている機械科と建築科のグループだった。門限破りをしたという連中だろう。やっと帰ってきたらしい。
他を見渡すと、諏訪が厳しい顔でスマホで誰かに電話をかけている姿が見て取れた。柱の陰からそっと近づいて、耳をそばだてる。
「……ダメです。つながりません。携帯電話は持って出て行ったと思うんですけど」
「鳥飼は何処行っちゃったんだろうねぇ」
五嶋の暢気な声。
「バタバタしてる隙を突くように出てっちゃうとは……」
どうやら、鳥飼は正面切って出て行ったらしい。鯨井の名前が出てこないあたり、彼女はこの混乱に乗じてこっそり抜け出すことに成功したのだろうか。
だが遅かれ早かれ、教師の誰かが鳥飼を探しに行くことになる。その時鯨井も一緒にいるところを見つかればさらに大問題になるだろう。いや、その前に、ホテルの部屋に鯨井がいないことがバレてしまうことが先か。
鯨井と同じ部屋の佐久間に話をつけておいたほうがいいか……
「火狩、そこで何やってんの」
急に後ろから声をかけられて、火狩は飛び上がらんばかりに驚いた。
「ご、五嶋先生!?」
いつの間にか五嶋が立っていた。自分がちょっと考え事をしている間に忍び寄られていたようだ。
「……何でもないですよ」
返した声が若干上ずる。
「ふーん」
五嶋は気がないような返事をするが、その目がキラリと光ったような気がした。
「あの……何かあったんですか?」
先制攻撃のつもりであえて聞いてみる。
「鳥飼が一人でホテルを脱走しちゃってさ。困っちゃうよね」
「鳥飼が、一人で、ですか」
大げさに驚いて見せたつもりが、おかしな口調になってしまった。
何だか墓穴を掘った気がしないでもない。これ以上しゃべるのは得策ではないようだ。さっさと切り上げて部屋に戻ったほうが……
「うん、鳥飼が、一人で」
そこを強調しないでくれ……焦りのあまり、ニヤニヤと笑う五嶋から顔を背けてしまう。
「そ、そうですか……」
「火狩、どうした?」
頬に五嶋の鋭い視線が突き刺さる。
いつもは半分寝てるんじゃないかとさえ思う怠惰な眼差しなのに──今は恐ろしく目に力を感じて怖いくらいだ。この人、絶対わかっててやってる。
「何か言いたいこと、あるんじゃないの?」
自分は何も悪くない、悪いのは鯨井と鳥飼だ。
でも……友だちを簡単に売るような真似はしたくない。自分を信用してくれた鯨井のためにも、隠し通さなければ。
相反する感情のせめぎあい。その揺れる様すら、目の前の悪魔の瞳は見透かして、楽しんでいるようだ。
その魔力に抗えず──火狩はついに屈した。この人が【北陵高専の陰の支配者】と噂される理由がわかった気がする。
「鯨井が鳥飼を追いかけて行った?」
鯨井に心の中で詫びつつ、事情を説明すると、五嶋はさすがに呆れたように声を潜めた。
「オレは止めたんですよ。でもあいつ、『ほっとけない』って言って、自分も飛び出して行って……」
「……それはますます困ったね」
とは言うが、あまり困ったように見えないのは何故だろう。
「鳥飼だけならともかく、級長まで抜け出したとなると……問題になっちゃうなぁ」
「そんな暢気に言ってる場合じゃないでしょう!」
悠長にあごひげをさすって、不敵な笑みさえ浮かべている。絶対にこの状況を楽しんでいる顔だ。
「どうかしましたか」
と、そこへ諏訪がやってきた。
どうせこの人にも知れることだ。五嶋よりもこの人のほうが頼りになるかも……そんな期待を抱いて、火狩はまた事情を説明した。
「また鯨井さんか……しょうがないなぁ、もう」
諏訪もまた呆れて天を仰いだ。
「ま、これはあいつを級長にした、オレの【任命責任】ってヤツだな」
五嶋はニヤリと笑った。どこかうれしそうにも見えるのは気のせいだろうか。
「鯨井が出てったことは、他のヤツらにはバレてないんだな?」
火狩はうなずいた。市川には口止めしたし、佐久間にはあとで説明すればいいだろう。
五嶋は抱えていた上着を着なおした。
「鳥飼のことも含めて、たまにはオレが責任とらないとな。じゃあちょっくら探しに行って──」
「僕が行きます」
突然の諏訪の声に、五嶋は動きを止めた。
「五嶋先生より、僕のほうがこの辺詳しいですから」
めずらしく、五嶋が目をパチクリさせている。
「それはそうなんだけどさ……でもお前、約束はどうすんの?」
「また今度にしてもらいますよ」
そう言って諏訪は笑ったが、その顔にわずかながら陰が差したのを、火狩は見逃さなかった。約束ってなんだろう……
「……いいのか?」
「今回のことは、鯨井さんを甘やかした僕にも責任があります。彼女に級長職を勧めたのも僕ですしね。というわけで、二人を探しに行ってきます」
諏訪は身を翻し、早足で外に向かっていった。
まさか自分も出て行くわけには行かず、火狩には諏訪の背中を見送ることしかできない。
「二人のことは諏訪に任せよう。大丈夫だよ」
五嶋は火狩の肩をポンと叩いた。
この人もやっぱり先生なんだな……やる気のない姿ばかり見ているので、学生を心配する姿を見ると、少しだけ見直してしまう。
「火狩、お前は鯨井がいないことがバレないよう、がんばって」
「がんばってって……」
前言撤回──やっぱり無責任じゃないか。




