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かくして、北都の級長としての新生活が始まった。
級長になったとはいえ、今のところ主な仕事は教室での号令とプリント集め、そして五嶋の部屋の掃除だけ。
クラス内の雰囲気はあいも変わらずだ。
初日、二日目くらいまでは担任が変わったせいか様子見のような雰囲気で、比較的落ち着いてはいたが、前の担任とは違って五嶋は口うるさくないどころか無関心みたいな態度を取るので、級友たちはすっかり気が抜けてしまった。
早くも授業態度は最悪、サボリ癖が出始めている者もいる。
「今ぶつかっただろ」
「てめーがぶつかってきたんだろうが」
授業が終わるなり、椅子がぶつかっただの机がぶつかっただのでケンカを始める男子二人、辰巳と土屋だ。仲の悪いこの二人のいさかいは、このクラスの日常茶飯事だ。血気盛んな中学生かよと思いつつ、去年までなら確実に無関心を決め込んでいたところだ、が。
「やめろって」
一応は級長らしく、二人の間に割って入った。
「お前には関係ねえよ」
「ジャマ」
退けといわんばかりに肩を小突かれる。
ここで女らしく涙でも見せればまた違うのかもしれないが、北都にそんなことができるはずもない。
「てめーら……人の気も知らないで」
それどころかこっちの頭に血が上ってしまう。何が何でもケンカをやめさせようと乱入して暴れたろかと思ったその矢先。
「……うるさい」
二人のすぐ横に座っていた火狩が、短くつぶやいた。だがその目線は手にしている本から外そうとしない。
二人は火狩に対してもキレるのかと思いきや、意外にも興ざめしたように二人とも席に座ってしまった。
たった一言でケンカをやめさせるとは、さすがは元級長というべきなのか。
立つ瀬のなくなってしまった北都が突っ立っていると、火狩はチラリとこちらを一瞥して、冷たい視線を送ってきた。完全に敗北した気分だ。
あれから結局、級長職を受けてしまった北都に対し、火狩は特に何も言ってこなかったが、内心では快く思っていないのをひしひしと感じた。
元々感情を露にするタイプではないが、北都に向けられる視線に険が含まれているのがよくわかる。本当に級長をやりたかったわけではないだろうが、プライドを傷つけられて意固地になっているのかもしれない。
当然北都と協力する素振りなどまったくなく、自分の成績を上げることだけにひたすら注力している始末だ。ほとんど話したことがないので知らなかったが、ウワサによれば火狩はT大編入を目指しているらしい。
今からでも職を譲ってもいいのだが、あの五嶋が許してくれるはずもない。
それに、一度引き受けてしまったからには、最後までやり遂げなければ気がすまない自分の性格もあった。押しに弱く、頼まれると断れないこの性格は本当に損だと思う。
五嶋のあの部屋を掃除するからには徹底的にやってやろうと、北都は初日から火炎放射器ならぬマスクとエプロン持参で五嶋の部屋に殴りこんでやった。
「汚物は消毒だ──ッ!」
目を丸くする五嶋をよそに、散らかっている本や書類をてきぱきと集めて片付け、ゴミらしきものは全てゴミ袋につめ、集積場に持っていく。窓を開けて高いところにはたきをかけ、轟音を響かせながら掃除機をかける。
「ゲホッ……ゴホッ……」
舞い上がるホコリにマスク越しでも咳き込んでしまうが、当の五嶋は悠々と椅子に座り、スポーツ新聞を広げていた。掃除機の轟音にも、ジャマとばかりにガンガンぶつけられる吸い込み口にもめげずに、もはや椅子と一体化しているのではないかとさえ思える五嶋の姿には妙なポリシーみたいなものさえ感じる。
「おお、キレイなったなぁ」
数日かかった一通りの掃除がようやく終わったところで、五嶋がわざとらしくつぶやいた。北都的にはまだ雑巾がけもしたいところだが、そこまでやり始めたら泥沼に陥りそうな気がする。だがこれだけキレイにしておけば、少なくとも一週間は持つだろう。
そんな北都の微かな希望はあっという間に打ち壊された。
「──なんじゃこらああああああああ」
翌日の放課後、五嶋の部屋にこだまする北都の咆哮。そこには散乱する本と書類の海という、片付ける前と同じ惨状が目の前に広がっていたのだ。
「なんで? なんで一日でこんなに散らかせんの?」
これでは確かに諏訪が毎日片付けても変わらないはずだ。北都はガックリとうなだれた。
永遠に終わらぬ掃除地獄に想いを馳せつつも、このままにしておくわけにはいかないと、今日のお掃除を始めた。
秘書業は掃除だけではなく、電話や来客応対、届け物や買出し等の外回りも含まれる。五嶋という教師は本当に自分から動くのがイヤらしい。イイ年した中年なんだから、もっと動いて運動しろよと思うのだが。徹底的に動かない割にはメタボでもない、不思議な中年である。
「お前、今日家庭教師のバイトだろ?」
「あ、はい」
時計を見ると、バイトの時間まであと三十分だった。学校の近くに住む女子中学生が相手で、去年からの継続である。
「じゃああがっていいよ。帰りにこれ、諏訪の部屋に持ってって」
五嶋は回覧板を差し出した。隣なんだから自分で行けよ……と思っても、この男はとことん人をこき使う性分らしい。
「……わかりました。じゃあお先に失礼します」
「はい、お疲れさーん」
抗うことをあっさりとあきらめ、回覧板とバッグを持ち部屋を出た。隣の諏訪の教官室をノックすると、すぐに返事は返ってきた。
「失礼しまーす」
初めて入る諏訪の部屋は、五嶋の部屋と同じ広さとは思えないくらい、広々と感じられた。整理整頓が行き渡り、なんだか光り輝いて見える。空気が清々しく感じられて、五嶋の部屋との落差にめまいを覚えた。元級長というのもうなずける。
諏訪は机でノートパソコンに向かっていたが、近づくとキーを打つ手を止め顔を上げた。服装も五嶋とは対照的で、ノーネクタイながらも三つ揃いのスーツをきちんと着こなしている。
「回覧板です」
「ありがとう」
回覧板を渡し、軽く頭を下げてすぐに踵を返す。
「鯨井さん」
呼び止められて、北都は振り返った。
「クラスの様子はどう?」
諏訪は眼鏡を外し、レンズを拭きながら聞いてきた。眼鏡がないとより童顔が強調され、自分と同い年くらいに見えるから不思議である。
学校が始まって一週間、この軟弱そうな優男の助教は、早くも全女子学生にその存在を知られるまでになっていた。
「どうって言われても……特に大きな変化はないですよ。今までと変わらず──」
北都は肩をすくめて見せた。
「他人には興味なし、そのくせ妙にギスギスしてて一触即発。常に火種を抱えてる状態ですよ。幸い、まだ殴り合いのケンカは勃発してませんけどね」
つまりはバラバラ──小学校の教室に掲げられたスローガンみたいな【協力・友情・団結】などクソくらえな状態なのだ。
「こんなクラス、どうやってまとめろって……」
誰にともなく吐き捨てると、諏訪は苦笑しつつ、椅子の背にもたれて北都を見上げてきた。
「誰だって、最初はうまくいかないものだよ。でも大丈夫、君ならきっとできるよ。だって、五嶋先生が選んだ級長だからね」
教師なので当たり前なのだが、この男から上から目線で言われると妙に癪にさわるものがある。微笑ですらイラ立ちを加速させた。
「……それって遠まわしに『前の級長だった自分はエライ』とか言いたいんですか」
「いや、そうじゃないけど……」
「諏訪先生は超優秀だし、クラスもそれほど荒れてなかったんでしょう? こちとら歴史に名を残しちゃいそうなバカ揃いの武闘派クラスですから。比べ物になりませんよ」
ひがみっぽいセリフというか完全にひがみだ。自分でも卑屈だと思うが、口から滑り出した嫌味は止まることを知らない。
「うわべだけの優しさは毒にしかなりませんよ。それならまだ五嶋先生みたいに、ほっぽっといてくれたほうが気がラクってもんです」
諏訪が何か言い出す前に、北都はさっさと頭を下げて部屋を出た。
子どもじみているとは思うが、あの張り付いたような笑顔を見ているとどうしても嫌味を言いたくなる。顔を合わさないのが一番精神的にいいのだろうが、こういう状況ではそうもいかないのが実情だ。
小さく舌打ちをして、北都は玄関に向かった。
◇
「すっかり鯨井さんに嫌われちゃったみたいです……」
諏訪はコップのビールを飲み干して言った。
チェーン店系の居酒屋の一角で、テーブルの向かいでは五嶋が自分でビールを注いでいる。
「ありゃ、男から『女扱い』されるのに慣れてないんだよ。みんな呼び捨てか君付けだもんな。さん付けで呼ばれたことなんてないんじゃないの?」
五嶋はなぐさめるように、諏訪のコップにもビールを注ぐ。仕事終わりに五嶋に誘われて飲みに来たのはいいが、こちらが一方的に愚痴をこぼすばかりだ。
「女扱いって……さん付けで呼んだだけで?」
「年頃の女の子ってのはムズカシイもんだねぇ」
「他人事みたいに言わないでくださいよ。こっちは真剣に悩んでるんです」
「じゃあお前も呼び捨てか君付けにすればいいじゃん」
「それはちょっと……」
そこは自分のポリシーがあるので曲げられない。
五嶋は持っていた焼き鳥でこちらを差してきた。
「女にモテまくりで扱いのうまかった諏訪くんも、ああいうタイプの女は初めてだったと見える」
「人を女ったらしみたいに言わないでください。僕は一途でしたよ」
「そうだったな」
ふとグラスをあおる手が止まった。
彼女は──元気にしているだろうか。いや、元気に決まっている。自分がこうやって飲み屋でくだを巻いているこの時間にも、彼女は自分の夢に向かって邁進している事だろう。
それに比べて僕は……
「まああいつもさ、あの事件以来、クラスの中では微妙な立場だったみたいよ。ただでさえたった一人の女子ってところに、あの事件で男どもは扱いに困っちゃった。去年のあいつはひっそりとしたもので、触ったらこっちが傷ついちゃうような刺々しいヤツだったよ。そもそも自分から打ち解けていく感じでもないしな。幸い、女子の中ではうまくやってるみたいだけど、あれで色々と苦労してんだって」
彼女がクラスの中で浮いた存在であることは、諏訪も感じていた。元々バラバラなクラスの中で、彼女が一際際立って見えたのは、何も性別のせいだけではないだろう。
「とにもかくにも、うまくやってもらわないと困るよ」
五嶋はそう言って焼き鳥にかぶりついた。
「なんで僕に押し付けるんですか。五嶋先生のクラスですよ? 僕はあくまで副担任です。大体、あのクラスの全権限を持つ代わりに責任は全て負うって、学科会議で約束したのは先生でしょう?」
「そうだよ」
五嶋はこともなげに答えた。
「責任は負うけど、口は出さないの。現場のことは、現場に任せるのが一番」
「まさか、全部鯨井さんに任せるつもりですか」
諏訪が睨むと、五嶋は鼻で笑ってビールをあおった。
「まあ、あいつが助けを求めてきたら助けてやらないでもないけど。でも、あいつはなかなか自分から助けを求めるようなヤツじゃないな」
「呆れたなぁ……もう」
諏訪はため息をついた。そこまで彼女の分析ができているのに、なぜこの人は突き放すような真似をするのだろう。
「そこでお前の出番だよ、諏訪」
諏訪は持ち上げたコップをそのままに、五嶋の言葉に耳を傾けた。
「高専の教員ってのは、教授と名はつくが、大学のそれとは違う。担任を受け持って始めて一人前といわれるんだよ。お前は研究者としては既に一人前かもしれないけどさ、教員としてやっていくために、この初めての難関を見事クリアしてみろよ」
学生だった頃とはもう違う。今は学生を教え導く側なのだ。
彼女に対して苦手意識を持つだけでは何も始まらない。自分に何ができるかはわからないが、自分にしかできない何かがきっとあるはずだ。
五嶋の言葉に納得しつつも、どうしてもこれだけは言いたかった。
「先生……自分がラクしたいだけでしょう」
五嶋は最後に残った卵焼きを口に放り込んで、答えようとしなかった。