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北都が出て行った後の五嶋の部屋では。
「……五嶋先生、彼女をわざと怒らせましたね」
諏訪はなげかわしいとばかりに嘆息をもらした。
「あ、わかった?」
反対に五嶋はどこかうれしそうだ。
「筋金入りのフェミニストのお前が相手なら、あいつキレるかなって思ってさ」
鯨井北都──クラスに一人女子がいるとは聞いていたが、それがあの彼女だったとは。
確かに、普通の女子とはちょっと変わったところにスイッチがあるようだ。今回は自分の発言も不用意だったとは思うが、こちらにも「女性に優しく」という信念がある。はてさて、うまくやっていけるだろうか……
「僕をダシに使わないでくださいよ。ホント、人の弱みを握るのはうまいんだから」
諏訪は散乱した書類を集めはじめた。一方五嶋はまた週刊誌を読み始め、椅子から一歩も動く気がない。
「弱みがないなら作れってな」
「上司になったとはいえ、そういうところは真似したくないですよ、先生」
「お前も言うようになったねぇ。さすがに学生の時のままっていうわけにはいかないか」
この人は昔のままだよ……ホント変わんない。
半ば呆れながらも、諏訪は書類の束を机の上に積み上げた。
「先生……そろそろ教えてくれませんかね」
「何を?」
「【級長の適性】ってやつですよ。僕のときも結局教えてくれなかったでしょう」
五嶋は鼻で笑った。ここでも教えてくれないのか……と思ったが。
「三つある」
五嶋は指を三本立てて見せた。
「一つ目は寮生であること。これは絶対条件だな」
確かにこれは元寮生の諏訪も当てはまる。多少遅くなっても寮生なら近いし、急な呼び出しにも対応できる。呼び出されるほうはたまったものではないが。
「二つ目はマメでキレイ好き」
「彼女がそうだって、何で先生が知ってるんですか。僕のときみたいに、寮の部屋覗いたわけではないでしょう?」
女子寮は教員といえども男子禁制だ。
「鯨井は気づいてないだろうけどさ、オレ、あいつが放課後に一人で教室掃除してるとこ見ちゃったのよ」
各教室の掃除は学生に任されているが、強制ではないし掃除の時間も当番もあるわけではないので、ほとんどの教室はホコリだらけという惨状だ。そこを一人で掃除していたということは、確かにキレイ好きの要素は感じられる。
三つのうち二つが出たが、これでは級長の適性というより五嶋の秘書の適性だ。
「で、三つ目は?」
「……どうしても聞きたい?」
ここまできてもったいぶるとは、まったく性格が悪い。それとも大層な理由でもあるのだろうか。
「ええもちろん」
うなずくと、五嶋はニヤリと笑って──諏訪を指差した。
「イケメンだってことかな」
聞いた僕がバカでした──
奇しくも北都と同じ感想を持って、諏訪はわざとらしく大きなため息をついた。
◇
北陵高専の全学生約八百名に対し、女子は約百五十名。一昔前まではもっと少なかったが、徐々に増え、今では物質化学や建築システムでは男女半々という学年もある。
北海道という広大な土地にあってはさすがに通学が困難な学生も多く、北陵高専は設立当初から学生の住まう寮が併設されてきた。
近年まで女子寮はなく、男子寮【向陽寮】だけだったが、増え続ける女子学生に配慮し、 今から六年前、女子寮【六花寮】が設立された。この寮では現在一年生から五年生まで約四十名が生活している。
北都もこの六花寮の住人だ。実家はここから車で二時間ほどの大都市にある。
「北都……ねえ北都ってば」
個室の開きっぱなしのドアから聞こえる声。返事を待たずに入ってきたのは長い黒髪の美人だ。ベッドに横になり、毛布に包まっていた北都は気だるい返事を返す。
「今日一緒に買い物に行こうって言ってたのに、どうしたのさ」
黒髪の美人、佐久間多佳子はそう言いながら毛布をはいだ。
多佳子は物質化学科の三年生。この間の三月までの二年間、二人部屋で北都と暮らしていた元同居人だ。三年生になりそれぞれ個室に移ったが、寝食を共にし北都を知り尽くしている彼女は今でもこうやって遠慮なしに北都の部屋に入ってくる。
「悪りぃ……なんだか疲れちゃってさ。明日行こう」
眠い目の北都はそう言いながら毛布を引っ張り返す。
「ご飯の時間よ」
多佳子が容赦なしにまた毛布をはぐ。ぼやける目で腕時計を見ると、確かに六時を過ぎていた。明かりをつけていない部屋の中も薄暗い。
仕方なく起きて一つ伸びをすると、北都は多佳子と連れ立って食堂へと向かった。
「帰ってきてからずっと寝てたの?」
「うん……」
オシャレな部屋着に着替えている多佳子に対して、北都は学校に行ったときのままのカットソーにジーンズという格好。頭はボサボサだ。
結局、入学式を終えて寮に戻って、ベッドに倒れこむようにしてそのまま惰眠をむさぼっていた。今日の夜は寝つきが悪くなりそうだ。
廊下を歩いていると、知らない顔がちらほら見える。昨日入寮したばかりの新入生だ。今日正式に入学を果たした新入生たちはまだ北都の存在に慣れないらしく、顔を見るたびにビクッとしては、慌てて頭を下げる。
これはまだいい方だ。昨夜など、風呂に入ろうとして脱衣所に足を踏み入れた瞬間、大音量の悲鳴を上げられてしまった。
「卒業まで春の恒例行事になるね、これは」
とは多佳子の弁である。かく言う多佳子も寮で初めて顔を合わせたときには叫んだものだ。
『えっ……男? 男がいる!』
イヤな恒例行事だが、避けては通れない道のようだ。
食堂に着くと、主なメニューが乗せられたトレーを受け取り、温かいご飯と汁物をよそってもらう。それを持って長机に座り、多佳子と一緒に食べ始めた。
「朝からN高の男に絡まれたんだって?」
何処から聞いたものか、多佳子はさすがに耳ざとい。
「あのN高のバカビッチがやらかしてくれたんだよ」
口いっぱいにご飯をほおばり、芋の煮っころがしに行儀悪く箸を突き刺す。
「ああ、北都が誰だかに似てるって言ってたやつ?」
N高の美華ちゃんは、北都が誰だかという芸能人に似ているといってアタックしてきたのだ。北都はそういうことにはまったく詳しくないので、もちろん誰に似ていたのかはよくわかっていない。
「よく逃げられたわね」
「うん、まあ……」
諏訪に助けられた、というとまた説明がややこしくなりそうなので、黙っていることにした。
「不毛よねー。この学校に男なんて腐るほどいるっつーのに、その中であんたを選ぶなんてさ」
まったく以って、多佳子の言うとおりだ。
北都は顔も身なりも確かに男だが、別にレズでも性同一性障害でもない。中身は至ってノーマルである。口も行儀も悪いところはあるが、自分のことを【あたし】という、普通に男が好きな人間だ。だがそれを公言すると、もれなく微妙な顔をされてしまう。ホモでもないと言うのに……
もっとも、この容姿ではまともな恋愛はできないととっくに諦めているし、する気もない。身の丈にあった生活が一番だ。
昼食を食べていなかったので、おなかが空いていた。ガツガツとご飯をかっこんでいると、目の前の空いていた席に突然滑り込んできた人物がいた。
「ねえ北都、見た?」
何を──と思い顔を上げると、一つ上の先輩である芹沢希が座っていた。
希は建築システムの四年生。そして今年の女子寮寮長である。溢れんばかりに豊満なFカップの胸が破壊力抜群で、男どもは学校一の美人とウワサしている。今も部屋着の大きく開いた胸元から見える谷間がまぶしい。いつもはゆるく波打つハニーブラウンの髪も、今は後ろで一つにまとめられている。
「何を……ですか?」
白米をかっ込む手を止めて聞くと、希はFカップの胸をテーブルの上に乗せて、肘をついた。トレーを持っていないところを見ると、もう食べ終わったらしい。
「あんたんとこの科の新しい先生よ。めっちゃイケメンじゃない。背も高いし」
どうやら諏訪のことを言っているらしい。
「ああ、諏訪先生ですか。あの先生ならうちのクラスの副担ですよ。T大出の助教です」
「マジで? すごいじゃない」
希の可憐な瞳がキラキラと輝いている。この学校にいて男なんて見飽きているだろうに、いい男はやはり別格ということだろうか。多佳子もお茶を一口飲んで続いた。
「ああ、そういえば一年生の子も騒いでたわ。電気棟ですごいイケメン見たって。あんたのことかと思ったけど、新しい先生が来たのね」
あれがイケメン──常にヘラヘラ笑ってるみたいな顔してるのが?
自分がイケメンと呼ばれることに関してはそれほどの疑問は感じなくても、一般的女子の美的感覚は理解できない北都である。
まさかその諏訪の胸倉を掴んでしまったとも言えず、北都は黙ってご飯をじっくりと噛み締めた。