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十月に入ると、北海道は一気に冬の準備に入る。
日一日と増していく寒さに、学校の樹木も色づきはじめ、紅葉した葉が冷たい風に揺れて落ちていく。
足早に通り過ぎていく秋を名残惜しむ──そんなセンチメンタルな感情を持ち合わせているわけではないが、長い冬の季節を前にして、侘しさとでもいうのだろうか、胸の中にもすきま風が通り抜けるような感覚を覚えることがある。
窓から見える、屋外で寒さに身を寄せ合うカップル。自分にもそんな相手がいたら、こんな思いはしないのだろうか──
いやいやいや。ありえないことを妄想するだけ時間のムダと言うものだ。
恐るべし、秋。モテないどころか性別すらまちがいかけてる自分にまで、こんなことを考えさせてしまうとは。北都は思わず身震いしてしまった。
書類を持って電気棟の階段を上ると、二階の教官室前の廊下に諏訪が佇んでいた。
呼びかけようとして、一呼吸置いた。
中庭を見下ろすその横顔にいつもの笑みはなく、憂いを帯びて物思いにふけっているようにも見える。この万年笑顔の諏訪も、秋の魔力に取り付かれてしまったのだろうか。
「諏訪先生?」
思い切って声をかけると、彼はすぐにこちらに微笑みかけてきた。
「鯨井さん」
「どうかしたんですか?」
「ああ、今晩何食べようかなと思って」
どうやら感傷的になっていたわけではなく、晩御飯の献立に悩んでいただけらしい。
官舎で一人暮らしだとは聞いているが、遅い時間に学校前のコンビニで弁当を買っている姿もよく目撃されている。
「コンビニ弁当ばっかし食ってると、老けるの早いですよ。さっさとゴハン作ってくれる彼女作ればいいじゃないですか」
この顔と性格なのだから、彼女の一人や二人や三人できてて当然と思うのだが、未だにそういう女性には恵まれていないようで、なんとも不可解である。やはりパッと見にはわからない難点があるのだろうか。
「あはは……そうだねぇ。考えとくよ」
諏訪は苦笑気味に答えた。
「身体によくないとはわかってるんだけどね……三食出てくる寮がうらやましいよ」
正直言って、寮のゴハンはあまり美味しくない。それは男子寮も女子寮も同じようで、口の悪い男子など「マズイ」とあからさまにこき下ろしている。
かつては寮生だった諏訪もそれを知っているはずだが、それでもバランスの取れた食事が出てくる環境というのは羨望の的らしい。
北都は本題を思い出し、手にしていた紙を諏訪に差し出した。
「そうそう。おばけ屋敷の企画書、野々宮が書いてきてくれたんで、見てもらえますか」
三Eの副担任ということで、おばけ屋敷の担当教員も諏訪になった。この諏訪と五嶋と、学生会の了承をもらって初めて製作に着手することができる。
「じゃあ、五嶋先生の部屋で見せてもらうよ」
書類を受け取った諏訪は、そのまま五嶋教官室のドアをノックして入った。北都もそれに続いた。
三人分のコーヒーを淹れているあいだに、諏訪はソファに座って野々宮の書いた企画書に目を通していた。部屋の主・五嶋はもはや置物のように、いつもの格好で雑誌を読んでいる。
「うん、いいんじゃない? スイッチ類を多用して無人化をはかりながらも、アナログな部分も残して、おばけ屋敷本来の心理的な怖さを追求してるところがいいね。これ、野々宮くん一人で考えたの? すごいなぁ」
諏訪にコーヒーを差し出したのと、企画書を読み終わったのが同時だった。
「らしいですよ。カンタンに書いてきてって言ったのに、こんなレポートみたいにまとめてきて、あんな無表情に見えて気合入ってるみたいですね」
「どれ、オレにも見せてくれよ」
五嶋も雑誌を投げ出して手を差し出してきたので、企画書を渡した。
「野々宮も多才だよなぁ。プログラミングの知識だけなら、ウチの教授連中なんて歯が立たないね」
日々進歩しているコンピュータの世界。古い知識のまま止まっている教授連中と野々宮とでは、比較するだけムダと言うものだ。
「黒川が言ってましたよ。『野々宮はこの学校で勉強する意味あるのか』って」
「黒川がそんなことをねぇ」
「あたしは意味がないとは思わないですけどね」
「けど?」
北都は息をついた。
「喜怒哀楽に乏しいからか、時々『学校楽しくないのかな?』って思うことはあります。まあ、こんな男ばかりの学校、楽しいから来るってものでもないでしょうけど」
「それもそうだな」
企画書をめくりながら、五嶋は気のない返事をした。
「ま、おばけ屋敷はおもしろくなりそうだな。オレは見に行けないけど、よしなにやってくれ」
広い北海道のあちこちから学生が集うこの北陵高専では、学校が一般開放される高専祭にあわせて、年に一回の保護者面談が行われる。北都の両親も来る予定だ。五嶋は二日間、この面談にかかりっきりになる。
「じゃあこれ、学生会のほうに回しときますね」
五嶋が読み終わった企画書を掲げて、北都は諏訪に言った。
「お願いするよ。たぶん通ると思うから、今から製作に取り掛かったほうがいいかな」
「そうですね……一から作らなきゃならないものが結構あるから、時間かかるでしょうし」
「あとでお金渡すけど、予算オーバーしないように。あと、学生会と学校側に出す諸々の書類も渡しておくから、早めに出してね」
「わかりました」
諏訪から書類の束を受け取り、企画書とともにバッグにしまう。
自分の分のコーヒーも淹れていたことを思い出し、ソファに座ってカップに口をつけた。
「当然ながら……諏訪先生が学生だった当時にも、おばけ屋敷ってあったんですよね?」
目の前に座る諏訪に、ふと聞いてみた。
「あったよ。僕は部活のほうのお店手伝ってたから、おばけ屋敷自体にはかかわってないんだけど」
「え、部活やってたんですか?」
「うん、テニス部」
なるほど納得、軟弱そうなイメージを想像を裏切らない選択だ。
「強かったんですか?」
「専体連の北海道大会で四位だったよ……あ、今『微妙』って思ったでしょ」
図星──顔に出てしまったようだ。
専体連というのは高専生だけの体育大会で、北海道大会では道内にある四つの高専がしのぎを削るわけだが、逆に言えば四校しかないので、インターハイの北海道大会に比べれば胸を張って誇れる成績、とも言いづらいのが正直なところだ。
だが諏訪はそれほど気にしていないようだ。
「それはともかく、おばけ屋敷は昔から人気だったよ。何と言っても、女子とお近づきになれる絶好の機会だからね」
「みんなそう言いますけど、そんなもんなんですかねぇ?」
「鯨井さんも、男子と一緒に入ってみればわかるんじゃない?」
上から目線の物言いに、北都はカッチーンときてしまった。教師なのだから上からで当然といえば当然なのだが、こと諏訪に関してはモノの言い方が癪にさわるのだ。
「そういう諏訪先生は、女子と入ったんですか?」
返す刀で切りつけてみた……が。
「あはは、どうだったかなぁ。忘れちゃったよ」
見事にすっとぼけられた。諏訪もこちらの扱いに慣れてきたようで、一筋縄では行かなくなってきたのがまた腹立たしい。
「諏訪はモテたぞー」
ふと、五嶋が口を挟んできた。彼の学生当時を知る男の、貴重な証言である。
「あれはお前が三年のときだったか。誰が諏訪とおばけ屋敷に入るかで、女子学生がもめて大騒ぎになったんだよな」
「五嶋先生、そういうこと言わないでくださいよ……」
「人気ホストを取り合う客の争いみたいっすねー」
北都は妙に感心してしまった。
恐るべし、天然たらし。やはり学生当時からその力は発揮されていたようだ。
「それであいつがエラく怒ってなぁ」
「あいつ?」
「五嶋先生、もうその辺にしといてください」
顔は笑っているが、その声には五嶋でさえも黙らせる妙な迫力があった。それ以上の質問を断ち切るような雰囲気に、北都もつい口をつぐんでしまう。
教官室に漂う、気まずい雰囲気。
北都は一気にコーヒーを飲み干すと、ソファから立ち上がった。
「じゃ、学生会室に行ってきます。コーヒー飲み終わったら、カップ片付けといてくださいね」
そういい残し、答えを待たずに教官室を出た。
◇
北都が出て行ったドアが閉められてすぐ。
「あんなに怒んなくてもいいじゃない。鯨井困ってたよ」
「別に怒ってはいませんよ」
他人事のように話す五嶋に、諏訪は笑ったが、ぎこちなくなったことは否めない。
「じゃあ何で隠すのさ」
「隠してもいないです」
怒ったわけでも隠したわけでもない。どちらかといえば、気恥ずかしさに近いものだ。
「僕はもう教員ですから、プライベートをあまり見せるのもどうかと思いまして」
「そんな大層なものじゃないだろ?」
「じゃあ、五嶋先生のプライベート、学生に話してもいいんですか?」
「いいよ」
五嶋の不遜なまなざしが、こちらを向いた。
「話せるものなら、話してみろよ」
できるわけないよなぁ──自分で挑発しておきながら、結局は白旗を揚げざるをえない。
諏訪は大きなため息をつくと、一人ごちるように言った。
「──僕自身、まだ悩んでいるんでしょうか」
年代物のワインの瓶底に、静かに溜まる澱のように。
胸の奥底に溜まるよくわからない感情の残滓を、思い切って吐き出してみた。
「時々、考えてしまうんです。自分の判断は本当に正しかったのかって」
「……後悔してるのか?」
「ちがいますよ。後悔ではないんです」
五嶋の問いかけに、今度は素直に笑えた。
「未練……っていうのもまた、ちょっとちがうんですよね……なんて言うのかなぁ、この気持ち」
このところ、ずっと胸の内がモヤモヤとしている。一度は吹っ切ったはずの感情がよみがえってくるこの感じ。名前がわからず、余計にモヤモヤとしてしまう。
「オレにはわかる気がするけどな」
五嶋の知ったような口調に、それが意地悪だとわかっていてもすがってみたかった。
「じゃあ教えてくださいよ」
「やーだね。自分で考えろよ」
「ホント、意地悪なんですから」
しかめ面になった諏訪を笑うように、五嶋は頬をゆがめた。
「会ってみれば、わかるんじゃない?」
「そう……ですかねぇ……」
もう昔には戻れないし、戻ろうとも思わない。
この感情の正体がわかったところで、どうしようもないこともわかっているのだが……未知のものを未知のままにしておけないのは、理系の性分なのかもしれない。
◇
「というわけで、GOサインが出たので、製作にかかりまーす」
教室に集った、お化け屋敷チームのメンバーに向かって、北都は声を張り上げた。
野々宮が作った企画書に、無事学生会の承認がおりたのだ。
「あたしは会計と全体の進捗状況の確認をするから、実際の指示は野々宮、お前が出してくれ」
「えっ、オレ?」
指名された野々宮は、無表情の中でわずかに驚きの色を見せた。
「そりゃそうだろ。お前が考えたんだから、何を作ればいいのか、お前が一番よくわかってるんだし」
北都は当然のことと思っていたが、野々宮にとっては意外だったらしい。
「あたしは責任者、お前がリーダーってことでさ。ほれ、ここ立って、なんか言えよ」
教壇前のスペースを譲るように、北都はすぐ前の席に座る。彼はしばらく考え込んでいたが、ふと顔を上げると、イスから立ち上がり教壇に立った。
無表情のまま全員を見渡し、ぺこりと頭を下げる。
「……よろしく、おねがいします」
この人選について、異議のある者は誰もいなかった。全員が拍手で、新しいリーダーを認める。
「じゃあ、まずは全体の説明から」
人数分印刷したプリントを配り、お化け屋敷製作についての本格的な話し合いが始まった。




