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その日のうちに、井ノ原は北都に付き添われて五嶋教官室に行き、これまでのことを洗いざらい白状した。
その上で、井ノ原はどんな処分でも受け入れるとし、それでも許されるならば学業を継続したいことを伝えて、その日は帰宅した。
後日、学科会議が行われ、そこで決まった井ノ原の処分は「応用物理の課題提出」という、何とも微妙なものだった。
北都は教官室でそれを聞かされた。もちろん不満はないが、疑問がより大きかった。
「カンニング身代わりの件については、井ノ原はもうすでに処分受けてるようなものでしょ」
その疑問に、五嶋はそう答えた。
「それゆえの留年だからね。身代わりの件だけ見れば、ちょっと重過ぎるかもしれない」
諏訪もそう言うが、北都はイマイチ釈然としない。
「じゃあ、見城さんについてはどうなるんですか?」
「そっちはね……まあ、どうにもならんよ」
五嶋は頭をポリポリとかきながら、申し訳なさそうにつぶやいた。
「そんな……」
「成績訂正の上、高卒認定取り消しって意見も出たけどね。教授連中がそういう面倒ごと嫌がったんだよ」
頭の固い、事なかれ主義の教授たちが言いそうなことだ。
井ノ原が負った留年と停学という重すぎる処分を考えれば、見城がまったくの処分ナシというのは納得いかないが、五嶋も人の子、いつもいつも上に反抗してばかりという訳には行かなかったらしい。
「今回の、応用物理でのカンニングは?」
気を取り直して、今回の件について聞いてみた。
すると五嶋はいつものようにニヤリと笑い、小さな紙切れを机の上に差し出した。見覚えのある紙切れ、件のカンニングペーパーだ。
「よく見てみ」
促されて、北都は手にとって紙切れに書かれた小さな文字を読み込んだ。
「あっ」
思わず、声を上げてしまった。
カンニングペーパーに書かれた物理の公式をよく見てみると、微妙にまちがっているのだ。sinがcosだったり、αがβだったり、MがFだったり。一箇所だけではない、書かれているすべての公式が、どこかしらまちがっていた。
これをそのまま使用すれば──まずまちがいなく問題は解けないし、点数ももらえない。
眼前に突きつけられたあの時は動揺していたし、まじまじと見たわけでもなかったので気づかなかった。
「先生……これって」
おどろいて、北都は五嶋の横顔を見つめた。
「それはさ、井ノ原が作った、最後の逃げ道だったんじゃない? 万が一、お前が追い詰められても、ギリギリのところで逃げられるようにってさ。結局、その逃げ道は使うまでもなかったんだけど」
それは井ノ原に残っていた、小さな良心だったのだろう。八つ当たりだとわかっていたからこそ、卑劣にはなりきれなかったのかもしれない。
「そのカンペは、カンペとしてはまったくの役立たずだったわけ。見城の件を問題にしないかわりに、今回のカンニングは単なるイタズラってことで手打ちになったよ」
そういうことならば、見城に対する処分がナシという結果でも致し方あるまい。
「後は、お前が見たって言う世界史でのカンニングだけど、それは報告してないよ。どうする? 問題にする?」
またこの手かよ……ウンザリした顔で、北都は首を横に振った。おそらくあのカンニングペーパーも、まちがいだらけのニセモノだろう。ブツも押さえていないので、もはや証明することは不可能に近い。
「その代わり、個人的に罰を与えますから」
そう言うと、五嶋の代わりに諏訪がギョッとした。五嶋は笑っている。
「ゲンコツだけじゃ足らないの?」
「級長のあたしにナメくさった真似したらどうなるか、ガッツリ思い知らせてやりますよ」
凶悪な笑みを浮かべる北都に、諏訪は完全に引いている。
「お、穏便にね……」
「女は怖いねぇ」
くわばらくわばら、とつぶやいて、五嶋は首をすくめた。
◇
数日後の放課後。
北都は教室の窓辺に立っていた。
九月ももう終わり。秋はその速度を早め、見上げた空に流れる雲のように、あっという間に通り過ぎてしまうのだろう。月初には半袖だった服装も、いつの間にか皆長袖に変わっている。
北都はふと視線を下ろし、窓枠を人差し指でなぞった。
指先にしっかりとついた、ホコリのあと。フッと息を吹きかけて飛ばすと、冷徹な瞳で後ろを振り返る。
「ちょっと、井ノ原さん」
タイル敷きの床にヒザをつき、雑巾で懸命に床を拭いていた井ノ原は、顔を上げて目を見張った。
「ここ……全然掃除ができてませんよ。やりなおし」
北都が窓枠を指差して言うと、井ノ原はあわてたように立ち上がった。
「ええっ? だってそこさっき……」
「私がやり直しって言ったらやり直しなんですよ」
途端に井ノ原はしょんぼりとなり、水の入ったバケツへと向かった。
「それが終わったら、次は黒板周り。この掃除を毎日、卒業まで続けてもらいますからね」
「卒業まで毎日!?」
井ノ原がギョッとして振り返る。
「今まではあたしが毎日やってたんです」
「こんな隅々までやってなかったくせに……」
「だまらっしゃい! 『文句言わない』って言ったのはどこの誰!」
こちとら、大勢が聞いていたという証拠がある。井ノ原はぐうの音も出ず、半泣きになりながら雑巾を洗い出した。
その様子を北都の横で見ていた火狩は、すっかり呆れ顔だ。
「お前はどこのクソ姑だ。またえげつないことして」
頭を叩かれて、北都は火狩をにらんだ。
「つーか、何でお前がここにいるんだよ」
「級長がやり過ぎないように見張るのも、副級長の仕事だろ」
とは言うものの、火狩が井ノ原を助ける様子はない。
「だいたい、罰って、自分がやってた仕事一つ押し付けただけじゃないか。っていうか、そんなに大変だったなら、なんで当番制にしなかったんだよ。級長権限でできただろ」
「あ」
その手があったか──何故今まで気づかなかったのだろう。
マヌケ顔を晒す北都を、火狩は鼻で笑った。
「……やっぱお前バカだろ」
「誰がバカだって?」
「鯨井、そろそろ時間なんだけど」
一触即発の空気を読まずに、井ノ原が声をかけてきた。
あわてて時計を見ると、確かに約束の時間が迫っている。
「もうこんな時間か。仕方ない、明日からきちんとやってもらうからな」
そう言うと、井ノ原は掃除道具の片付けに立ち上がった。何も知らない火狩はキョトンとするばかりだ。
「まだ何かあるのか?」
「ちょっとな。人に会う用事があるんだよ」
井ノ原と二人で向かうつもりだったが……
「お前も来る?」
そう聞くと、火狩は戸惑いながらもうなずいて見せた。
三人で向かった先、それは北陵市内にある、とある公園だった。
夕暮れ時を過ぎ、辺りが薄暗くなってきた公園に子どもの姿はもうない。ついさっきまで誰かが乗っていたであろうブランコだけが小さく揺れている。
公園の中央で、井ノ原は一人立って、相手を待っていた。北都と火狩は少し離れたベンチに並んで座って、その様子を見守ることにした。
「あ、来た来た」
「あれって……」
座る二人の目に、公園の入り口からこちらに歩いてくる人影が映る。自分たちと同じくらいの年齢、背格好の少年だ。
井ノ原は手を上げて応えた。
「見城、久しぶり」
井ノ原の親友・見城は人懐っこい笑顔を携えて、彼もまた手を上げて応えた。
北都は見城と話した事はないが、目立つ男だったのでうっすらと顔は覚えている。
「お前から呼び出してくるなんて、めずらしいな」
見城はチラリとこちらに目をやったが、少し眉根を寄せただけで、すぐに視線をそらした。
「話したいことって何?」
井ノ原はいったん目を伏せ、それから意を決したように顔を上げた。
「期末テストでのカンニングのこと、学校に全部バレたよ」
「えっ……」
見城の顔色がサッと変わった。
「安心しろよ。学校側は、お前の高卒認定取り消すつもりはないそうだから」
「そ、そうか……」
笑って見せてはいるが、明らかに見城は動揺している。
それも当然か。カンニングの罪を被ってもらうよう頼んだのが露見したのだから、不処分とはいえ落ち着かないのだろう。
井ノ原は見城に向かって、深々と頭を下げた。
「見城……悪かった。あの時、お前のことをちゃんと考えてやれなくて……」
「いや、そんなこと……」
見城は驚いたのか、慌てふためいている。
「友だちなのにな。お前とギクシャクするのがイヤで……結果自分のことしか考えてなかったよ」
再び顔を上げた井ノ原は、見城をまっすぐに見据えていた。
「見城……オレたち、今でも友だち、だよな?」
「あ、ああ……決まってんだろ」
「よかった」
井ノ原もまた、柔らかい笑みを浮かべた。
「じゃあ、これからは自分にも、そしてお前にも正直になるよ」
そう言うと、井ノ原はおもむろに胸の前で右手の拳を握り締めた。
見城の笑顔が引きつり始めた。
「な、何?」
「ずっと、お前に言いたかったことをガマンしてたんだ。でも、今日でそれも終わりだ」
「井ノ原……落ち着けって。カンニングのことなら、謝るからさ」
「カンニングのことはもういいんだよ。それにオレはずっと落ち着いてるよ」
拳を構え、井ノ原が一歩踏み出す。それにあわせて、見城が一歩下がった。
二人の距離は、大股で踏み出す井ノ原によってあっという間に縮まった。すっかり腰の引けた見城は両手を前にかざし、顔を守ろうと必死だ。
「……うわあああああああああっ」
振りかざされた井ノ原の硬い拳は、見城の頭頂部にまっすぐ振り落とされた。
第五話終了です。
苦しんだあとがあちらこちらに見受けられるでしょうw
カンニングは犯罪です。良い子はやめようね!
次は第六話、高専祭編です。
学科の出し物の一つとして、おばけ屋敷を任された3E。
高専祭は無事成功するのか?
6月21日頃の予定です。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。




