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「井ノ原だよ」
話はおとといに遡る。
あの時、教官室から帰ろうとドアノブをひねった北都を、五嶋の言葉が再度引き止めたのだ。
「ちょっ……五嶋先生!」
諏訪のあわてた声。無粋な仕打ちに、北都は頭にきて怒鳴ってしまった。
「だからそういう不意打ちはやめてくださいよ。聞きたくないって言ったでしょう!」
「驚かないの?」
ハッとして振り返ると、そこには五嶋の、いつものすべてを見透かした顔があった。
「お前のその顔は、わかってたって顔だな」
「それだって先生はわかってたんでしょ? ったく……五嶋先生もそういうとこドSですよね」
「いやぁ、オレはドMだよ?」
こうやってはぐらかすところがまたいやらしい。だがこちらの負けは明白だった。
「……あのカンペ見せられたときに、井ノ原さんの字じゃないかって思ったんです」
北都は素直に告白した。
旅行の申込書で見た特徴的な字。それによく似た字で、あのカンペは書かれていた。場所から言っても、最も疑わしきは井ノ原だと、すぐに想像できた。
「あたしだって、信じたくないですよ……井ノ原さんが同じまちがいをするなんて……」
「なんで誰にも言おうとしなかった? もしかして、あいつをかばおうとか思っちゃった?」
「いえ……」
否定しかけて、その気がカケラもなかったとは言えないことに気づいた。
自分のものでないと認められれば、それでいい。あのカンペを作ったのが誰かなど、わからないままでいいと、ついさっきまで思っていたのだ。
「井ノ原はさ──かばっちゃったんだよ」
五嶋がポツリとつぶやいた。
「は?」
聞き返すと、五嶋はいつになくマジメな顔でこちらを見つめた。
「あいつは、お前と同じ状況で、友だちをかばっちゃったんだよ」
「まさか……井ノ原さんの学年末でのカンニングって」
「あいつは、友だちが落としたカンペを、『自分のもの』って言い張っただけ。井ノ原はカンニングなんかしてなかったんだ」
北都は息を呑み、思わず諏訪と顔を見合わせてしまった。諏訪も知らなかったようだ。
だが、そこで北都にはピンとくるものがあった。
「あ、あの、もしかして、井ノ原さんがかばった相手って……見城さん、ですか?」
「よくわかったな。知ってた?」
「仲が良かったとしか聞いてないですけど……見城さん、三修したっていうから」
三年修了退学と、単位が取れなくて中途退学するのでは、同じ時期にやめるのでも天と地の差がある。見城は去年の冬ぐらいから三修を決めていたというから、成績が悪くてもどうしても高校卒業の資格は欲しかっただろう。
最後のテストで、見城のカンニングが露呈しそうになり、井ノ原は自らその罪を被ったというのか。
「井ノ原と見城の間に落ちてたカンペを見つけて、一瞬どうしようかなって思ったんだけどさ。井ノ原が先に『自分のものだ』って言ったの。その時の見城の様子がおかしかったから、後でこっそり筆跡調べてみたら、ビンゴだったんだよ」
「なんでそれを公表しなかったんですか!」
「井ノ原が認めなかったからね。あれはあくまで『自分が作ったもの』だって。それがまたクラス全員の前で宣言しちゃってたからねぇ……オレも見なかった、聞かなかったことにはできなかった。もちろん、井ノ原の無実を証明する手立てはいくらでもあったんだよ」
五嶋はめずらしくため息をついた。
「でも、井ノ原が自分の意志で決めたことを、ムリヤリひっくり返してまで正義貫けるほど、オレも人間できてないから」
自分もその立場になれば、確かにためらうかもしれない。時間があれば解決できたかもしれない問題でも、当時は学年末で、さすがの五嶋にもそこまでの時間がなかったのだろう。
そう考えると、北都には五嶋をなじることはできなかった。
「処分が決まったときに、最後にもう一度、あいつをここに呼んで聞いたんだよ。『お前は本当にそれでいいの?』って」
それはきっと、五嶋が井ノ原に与えた、最後のチャンスだったのだろう。
「でもあいつは改めて『自分がカンニングしました』って言うだけだったよ」
「なんで……そこまでして、見城さんをかばおうと……」
「さあね。井ノ原が何を思ったのかなんて、そればっかりはオレにもわからないな。でもあまりにも代償が大きすぎるよね」
大きすぎるなんてものではない。三年生という貴重な一年を、たったそれだけのことでフイにしてしまったのだ。一年という時間をムダにしてまで、見城をかばうことに意味があったのだろうか。
◇
「あんたが何を思って、見城さんをかばおうと思ったのか──あたしなりにいろいろ考えてみた」
北都は井ノ原をじっと見据えて言った。
井ノ原は怯えた目で、こちらを見つめ返すばかりだ。
「でも結局、そんなことどうでもいいと思ったよ。あたしにただ一つ言えるのは、あんたはまちがってたってこと。友だちが悪いことして、それを注意しないどころか身代わりになるなんて……そんなの、本当の友だちじゃない」
北都のまっとうな正論に、井ノ原はうなだれ、そしてため息をついた。先ほどの勢いはどこへやら、毒気を抜かれたように、しおらしくなっている。誰にも言えなかった真実をさらけ出されて、観念したようにも見えた。
「まちがってたことくらい……わかってるさ。自分がどれだけバカなことしたのか……ちょっとカッコつけようと思っただけなのにな。けど、見城に頼まれて後に引けなくなった。『頼むからそのまま罪を被ってくれ』って。『友だちだろ』ってさ」
北都はひそかに息を呑んだ。
井ノ原が勢いでやってしまったのだと思っていたが、見城がさらにそれを利用していたとは。善意で助けたつもりが、なんとも後味の悪いオチがついてしまったものだ。
「オレだってあいつのこと、親友だと思ってたさ。だから、あいつの代わりに留年しようって、そう決めたんだ……それなのに」
声が震えていた。彼はそこでいったん言葉を切ると、深呼吸して、それからまた声を絞り出した。
「夏休みに、街中で見城に会ったんだ。別のツレがいてさ、オレにはなんだかよそよそしくて……オレが余計なことしゃべらないようにって、警戒してるのがよくわかったよ。でも、それだけならまだよかったんだ。別れた後、何となく気になって、こっそり後をついていったら……あいつ、オレのこと笑ってた。『カンニングバレて留年したバカ』ってさ」
親友だと思っていたのに、罪を被ってまで助けたのに、恩を仇で返すその暴言は井ノ原をひどく打ちのめしたのだろう。
井ノ原は今にも泣き出しそうな顔になっていた。
自分のしでかしてしまったことを改めて思い知り、今更ながら後悔の念にとらわれているのかもしれない。だが遅すぎた。
「陰で笑われて、けなされて……それでもオレは何も言えなかった。親友だと思ってたから……見城とケンカすることなんてできなかった」
本来の井ノ原はおとなしい性格なのだろう。争うことを嫌い、事なかれを貫いてきた彼が、初めて親友のために奮起したのが、きっとあのカンニングだったのだ。
それだけに親友に裏切られたショックは大きく、こんな暴挙に出てしまったのか。
「お前をハメたのは、完全な八つ当たりだ。雰囲気が見城に似てるってだけで、アイツにぶつけられなかった怒りを、お前にぶつけてた。許してくれなんて言わない。お前の好きなようにしてくれ」
そう言い切った井ノ原の顔はさっぱりとしていた。胸の内にたまっていたモヤモヤを全部吐き出して、すっからかんになったところで腹をくくったようだ。
黙って井ノ原の話を聞いていた北都は、ようやく口を開いた。
「本当に──好きなようにしていいんだな」
「文句なんかいわねぇよ。蹴るなり殴るなり、さっさと先生に突き出すなりしてくれ」
「そうか……」
井ノ原の覚悟を確かめて、北都は静かに背を向けた。
「あんたも辛かったんだな。友だちに利用されて、裏切られて……」
出来心に出来心が重なって、このような結果を招いてしまったのだ。自業自得とはいえ、井ノ原に同情すべき点もあることはある。厳しい処分を与えることだけが彼のためになるとは、一概には言い切れないだろう。
目の前に立つ火狩が、目を見張っている。
それでも北都は井ノ原の心中を思いやり、声を詰まらせた。
「あんたは苦しんだんだ。もう……十分だろ……」
「鯨井……でもオレは、お前にヒドイことを……」
感極まったのか、井ノ原がつぶやく。
それに応えるかのように、北都はくるりと向き直った。
「……なーんて、言うとでも思ったのかよ」
「え?」
周囲が止める間もなく北都は握った拳を振りかざし、顔を引きつらせる井ノ原に詰め寄った。
「ひっ」
「この────バカチンがっ!」
ゴツン──骨と骨がぶつかる鈍い音。
硬い拳は、井ノ原の頭頂部に垂直に振り下ろされていた。
周囲があっけに取られる中、一呼吸置いて井ノ原は叫んだ。
「……いっっっっってええええええ!」
頬を殴られると身構えたものの、まさか【ゲンコツ】されるとは思っていなかったらしい。井ノ原は不意打ちをくらって、静かに憤怒する北都を見上げて目をパチクリさせていた。
「あいにく、あたしはハメられて、それを簡単に許せるほど心が広くないんだよ。今のはあたしの繊細な心を弄んだ、その代償だ」
今でもはらわたが煮えくり返っている。だが、振り下ろされた拳にこめた思いはそれだけではない。
「言いたいことも言えないのに、何が親友だよ。一緒にバカやって笑ってるだけが親友じゃないだろ。そいつが道を外しそうになったら、全力で、ブン殴ってでも止めてやるのが親友だよ。そりゃ嫌われるかもしれない。ウザイとかめんどくさいとか言われるかもしれない。それでも、相手のことを真剣に考えるからこそのことだろ? いつか絶対、そいつだってわかってくれるんだ」
仲がいいからこそ、それをブチ壊すようなことはしたくないという気持ちはわからないでもない。しかし、そこを乗り越えて、お互いを認められるようになってこそ、本当に何でも言い合える、気の置けない仲になれるのだと北都は信じている。
「真剣にケンカする勇気もない、そんなんなら親友なんて要らない。そう思うんならそれでもいいよ。学校も辞めたきゃ辞めればいい。あんたの好きにすればいいさ」
「鯨井、それって……」
後ろの火狩が何か言いかけたが、構わず続けた。
「でも、あんたがこの学校に残るって言うんなら、あたしはクラスメイトとして、友だちとして、全力であんたのその曲がった性根を叩きなおしてやる。あたしをハメようとしたこと、一生後悔させてやるからな!」
北都は胸を張り、井ノ原をまっすぐに見つめて高らかに宣言した。
ウザくてもうるさくても、たとえ嫌われても──自分はこのやり方しか知らないし、自分の信じるようにやるしかない。
井ノ原はじっと目を伏せ、うつむいていた。答える気があるのかないのか……それでも北都は根気よく、彼が口を開くのを待っていた──
「ああっ、もうめんどくさい!」
結局待ちきれず、北都は自分からさっさと堪忍袋の尾を切った。井ノ原をギロリとにらんで。
「学校辞めるな! 逃げたらコロス!」
「は、はいっ!」
その殺気にビビッたのか、井ノ原は弾かれたように返事をした。
「よしっ!」
どういう処分が下されるかはわからないが、これで井ノ原が自分から辞めるということは避けられそうだ。
満足げにうなずいていたところを、後ろから火狩に叩かれた。
「よしじゃない。ホント短気だなお前」
彼は彼なりにいろいろと心配してくれたみたいだが、いかんせん人の頭を簡単に叩くのが玉にキズな男だ。北都は頭をさすりながらも言い捨てた。
「お前みたいに陰険よりはいいだろ」
「誰が陰険だって?」
腕組みして仁王立ちになる火狩に、それを正面からねめつける北都。
二人の間に漂うピリピリとした緊張感に、至近距離で晒された井ノ原が居たたまれず割って入った。
「ま、まあまあ二人とも……ケンカするほど仲がいいのはわかったから」
だがそのセリフがまずかった。二人の怒りの炎にガソリンを注いだようなものだ。
「こんなヤツと仲いいなんて思われるとは心外なんですが」
まず火狩が無表情で詰め寄り。
「寝言は寝て言え! っていうか、元はといえばあんたが悪いんでしょうがあああああああ!」
北都は井ノ原の襟首をつかみ、ガクガクと揺さぶった。




