6
見城と初めて話したのは、入学式の次の日だった。
学校へ向かうバスの中で、隣に立った見城から声をかけられたのだ。
『あれ、同じクラス……だよな? お前、どこの中学?』
『市内の桜ヶ丘だけど……』
『もしかしてサッカーやってた?』
『あ、うん』
『やっぱり? 試合のときに見た気がしてたんだよね。オレ、緑園中から来た見城っていうんだ。お前は?』
『……井ノ原』
その時は軽い会話で終わったが、互いにサッカー部に入ったこともあり、自然と会話することも増えていった。
だがその時はまだ、親友と呼べるような関係ではなかった。どちらかといえば内向きな性格の自分は、明るく、人懐っこくて誰にでも優しい見城に気後れしていたのだ。
そんな関係に変化が訪れたのは、五月のある日のこと。
放課後の教室で探し物をしていると、ふと見城がやってきたのだ。
『井ノ原、何してんの?』
『いや、バスの定期なくしちゃったみたいで』
『マジで? オレも探してやるよ』
そう言って、机周りを探していた自分と共に、見城も教室の中を探してくれたのだ。
だが日が暮れ、辺りが薄闇に包まれ始めても、定期は見つからなかった。もうかれこれ三十分は探しているが、どこにも見当たらない。
『もういいよ。今日は金払って帰るさ』
ため息をつきながら見切りをつけた自分に、見城は少し怒った顔を見せた。
『よくねーよ。定期なくしたら、親に怒られんだろ。もうちょっと探そうぜ』
見城は教室の電気をつけ、なおも探そうとする。
驚きつつも、見城だけに探させるわけにはいかないので、自分もまた探し始めた。
再び教室の隅々まで探していると、いつの間にかドア口に立っていたスーツ姿の男に声をかけられた。
『君……井ノ原くん? 玄関前にバスの定期が落ちてたって、学生課に届けられてたよ』
学生課の職員らしい。差し出された定期入れは、まさしく自分のものだった。どうりで散々探してもここにはないはずだ。
『あ……ありがとうございます』
礼を言いながら受け取ると、職員は去っていった。バツの悪い思いをしながら見城を振り返る。
『なんか……ゴメン』
『あやまる必要なんかないだろ。見つかってよかったな』
そう言って見城は笑った。つられて自分も笑う。
こんなにも、他人のために一生懸命になれるヤツがいるなんて──
自分にとってはそれは軽い衝撃だった。もちろん、口に出して言えるわけがないが、見城という男がひどくカッコよく見えた。
友人に対してもどこか一歩引いて付き合ってきた自分が、初めて「友だちになりたい」と思える相手だった。
見城は学業の成績はそれほどよくなかったようだが、クラスでもムードメーカーのような存在だった。
クラスの中で誰かが困っていれば、誰であろうと躊躇なく助け、手を差し伸べる。そんな見城が、なぜか自分のことのように誇らしかった。自分にはできないことをやってのける見城を、心のうちで尊敬していた。
いつも周りには誰かがいて、笑い声が絶えない日々。自分も見城の一番近くにいて、一緒に笑っていた。いつの間にか、消極的だった自分の性格も変わりつつあった。
このまま卒業まで、変わらぬ日々を送れると思っていたのに。
『オレ、三修するわ』
去年の秋。見城が突然切り出した。
『えっ……なんで?』
『公務員試験受けようと思ってさ。このままこの学校を卒業してよくわかんないとこ就職するより、市役所あたりに入って親を安心させたほうがいいかなって。正直、専門科目もちょっとキツくなってきてるしさ、方向転換するなら早いほうがいいよな』
『そうか……やめちゃうのか……でもお前、すごいな。そこまで考えてるなんてさ。オレにはムリだわ』
笑顔で内心の動揺を隠したつもりだったが、苦い笑いになっていたかもしれない。
『がんばれよ。試験大変だと思うけど、応援してるから』
『学校辞めても市内にはいるんだから、いつでも遊べるよ』
見城には見城の人生がある。
引き止めることなどできないとはわかっていても、どこか割り切れない気分だった。
友だちだったのに──いや、友だちだからこそ、今の時期に教えてくれたのだろう。だが、途中で学校を辞めてしまえるほど、自分たちの友情は軽いものだったのだろうか。
でも、もっと早くに言ってくれれば、三修しなくてもすむ道もあったかもしれなかったのに。
小さなわだかまりを抱えたまま、時間は無情にも過ぎていく。しかし、そのわだかまりも、時間と共に前向きな考えに変えることができた。
見城のいうとおり、学校を辞めたからといって友だちでなくなるわけではない。せっかく自分が変わるきっかけをくれた見城に、みっともないところは見せたくないと、いつも以上に明るく、積極的に振舞う自分がいた──
火狩を見ていると、昔の自分を思い出してしまった。
一人取り残されて、机の横にリュックをかけたままだったのを思い出し、歩み寄って手をかけた。
ふと、自分の横の席を見る。今は鯨井の席。
あの時──そこは見城の席だった。
『自分のです。自分が──やりました』
カンニングペーパーが見つかって、自分がそう言ったときの、見城のあの見開かれた目。驚きの中に侮蔑を含んだ、いたたまれない目。
オレたち、友だちだったよな? それなのに……
なんでそんな目で見るんだよ。オレのやったことは、そんなにまちがってたのか?
「なんでだよ……」
オレは──お前みたいに、なりたかっただけなのに。
『あいつ、カンニングバレて留年したんだぜ。バカだよなー』
◇
「五嶋先生!」
ノックもそこそこに、火狩は五嶋教官室のドアを開けた。
部屋の主は、怒鳴り込むようにして入ってきた優等生に目を丸くしている。それでも鷹揚に構える担任に、火狩は噛み付いた。
「どうして井ノ原さんを処分しないんですか」
「決定的な証拠がないでしょ」
間髪いれずに答えたあたり、自分が怒鳴り込んでくるのは予想の範疇だったということだろう。
「あの人は、カンペが自分の作った物だって認めましたよ」
だったら何だ──といわんばかりの五嶋の冷笑。
「明確な証拠ですよ! いくら人のいい鯨井だって、そこまでされてあの人を助ける義理なんて……」
「鯨井はとっくに知ってるよ」
その言葉に火狩は耳を疑った。
「は? 知ってるって……何を?」
「井ノ原がやったってこと。オレが教えたの」
何気ない顔でそう言って、雑誌を読み始めた五嶋に火狩はポカンとなった。
「だったらなんで……あいつは何も言わないんですか」
知っていたのなら何故──何事もなかったかのような顔で、あの人に笑いかけたのだろう。
「さあ? 鯨井には鯨井なりの考えがあるんでしょ」
火狩は閉口してしまった。
五嶋には五嶋なりの考えがあるのかもしれないが、それにしても放任主義過ぎる。もはや丸投げだ。鯨井は信頼しているようだが、自分にとってはどうもアクが強すぎてムカついてくる。
「五嶋先生は……鯨井に何を背負わせてるんですか」
ムカついたついでに、ずっと聞きたかったことを思い切って口にしてみた。
「わざわざあいつを級長に指名したってことは、あいつにしかできない何かをやらせようとしてるんでしょう?」
鯨井のやってきたことは、級長の職務の範疇を完全に逸脱している。いったい何が鯨井をそこまで突き動かしているのか──
「知りたい?」
五嶋がこちらを見てニヤリと笑った。この人の浮かべる笑みは、どうしても邪悪なものに思えてならない。
「聞いちゃうと、お前も一蓮托生になっちゃうけど……いいの?」
気圧されて、火狩はつばをゴクリと飲んだ。
◇
テスト最終日。
今日の電気磁気学と世界史のテストで、前期の全日程が終わる。
井ノ原が登校すると、鯨井は既に席についていた。前に座る火狩と話し込んでいる。
火狩が先にこちらに気づいた。一瞥し、すぐに視線をそらす。挨拶する気もないようだ。
「井ノ原さん、おはようございます」
突然、いつもの元気な声で鯨井に挨拶されたので、井ノ原は面食らってしまった。
「……おはよう」
どもり気味にかえすと、鯨井はきょとんとした顔でこちらを見上げてきた。
何も聞いていないのだろうか? それとも、聞いた上で平静を装っているのか。
鯨井はそれ以上何も言わず、火狩との会話に戻っていった。
いや──何も聞かされてないわけがない。火狩は昨日あれだけ怒っていたのだ。鯨井もきっとシラを切っているだけだ。
そう思うと、胸がムカつき始めた。
いったいどういうつもりなのかはわからないが、二人して自分のことを憐れんで、蔑んでいるにちがいない。
井ノ原はポケットの中に手を突っ込んだ。指先に紙切れが触れる。それを確かめて、井ノ原は自分の席に着いた。
電気磁気学のテストがつつがなく終わり、次はいよいよ大トリの世界史。これが終わればテストの緊張感から解放されるからか、教室中がそわそわした雰囲気だ。
世界史の講師が入ってきて、テスト用紙が配られる。チャイムと共に試験が始まった。
静まり返った教室に、ペンを走らせる音だけが響き渡る。井ノ原もとりあえず、勉強してきた成果をテスト用紙に書き綴った。
試験時間も残り十五分を切った頃、講師が離れた場所に移動したのを確認して、井ノ原はポケットの中の紙切れをそっと取り出した。
世界史の、カンニングペーパーだ。自分のためではない、鯨井を陥れるためのもの。
前回はタイミングよくスキができたが、今回はそんなスキはなさそうだ。だが、これが見つかって、自分のものだとバレてもかまわない。それで自分が停学や退学処分になっても、鯨井が苦しめばそれでいいのだ。
鯨井は、アイツとはちがう──頭の中に響く声を掻き消し、意を決して、カンニングペーパーを机の端に置く。
いや、お前は、アイツと同じなんだ──目をぎゅっとつむった、その時だった。
ふと頬に刺さる視線を感じ、ゆっくりと横を向くと……
鯨井がこちらをじっと見つめていた。
無表情──怒りとも悲しみともつかない、感情の見えない顔だ。ただ、自分を見据える目に力を帯びて、威圧的ですらある。
鯨井が、小さく、本当に小さく首を横に振った。それはあきらめでも哀れみでもない、すべてを見透かした慧眼。
背筋に冷たい汗が流れ落ちる。
今まさにすべり落とそうとしていた紙切れを、井ノ原は反射的に握りつぶした。鯨井はそれを見て納得したかのように、また自分のテスト用紙に向かい始めた。
テスト終了までの時間が、永遠にも感じた。握り締めた拳を机の上でただ震わせるだけで、顔を上げることもできない。
覚悟は決めていたはずなのに、今になって激しい罪悪感に苛まれている。
鯨井は何も言わず、ただ目の前のテストに集中しているようだ。そのことが、井ノ原をなおさら追い詰めていた。
チャイムが鳴り、試験が終わった。空気が一気にゆるみ、教室中にため息が満ちる。
期末試験の全日程が終わり、皆がざわめきながら次々と教室を出て行く中、井ノ原はイスに座ったまま立てずにいた。
隣の鯨井はそんな自分に構うことなく、さっさとバッグを取り出して帰る支度をしている。
「あれ? 井ノ原さん、帰らないんですか?」
後ろから堂本に声をかけられる。
「あ、ああ……」
曖昧な答えを返し、自分も荷物をまとめていると、鯨井が席を立って帰る素振りを見せた。とことん、こちらのことは無視するらしい。井ノ原の焦燥感は頂点に達した。
「……鯨井!」
いたたまれなくなって、井ノ原は自分から呼びかけた。
鯨井はドアの一歩手前で足を止め、こちらを振り返った。その顔からは相変わらず何の感情も読み取れず、不気味ですらある。
「なんで……何も言わねーんだよ! 何か言えよ!」
一度吹き出した感情は、止まることを知らなかった。
「お前に情けかけられるくらいなら、ここで自爆してやるよ。どうせ全部知ってるんだろ? お前も……オレのこと『バカなヤツ』って笑ってるんだろ!」
胸の内のモヤモヤを、ここぞとばかりに大声と共に吐き出す。
鯨井は──ニヤリと笑っていた。
「やっと……本性出したな」
いつもは敬語なのに、初めて敬語を使わなかった。
嘲笑を浮かべ、こちらを見下ろすその迫力に、井ノ原はあからさまにひるんでしまった。
「ああ。あんたが何をやったかなんて、とっくに全部知ってるよ。あんたがカンペを落としたことも、あたしをハメようとしたことも」
周囲がざわめいて視線が集まってきたが、金縛りにあったように逃げ出せない。
自分を見つめる鯨井の厳しい視線が、ふと和らいだ。
こいつ、まさか──
「あんたがそもそも──カンニングなんてしてなかったことも」




