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翌朝。
北都が登校して教室に入ると、その場にいたクラスメイトがいっせいにざわめいた。
「鯨井……お前、停学なんじゃ……」
席に着くと、後ろの黒川が微妙な顔で聞いてくるので、つっけんどんに答えた。
「やってもないカンニングで停学食らってたまるか。あれは富永先生のカンチガイだったんだよ」
「あ、そうなの?」
「だからこうやって学校来てるんだろ」
黒川も、そして周囲で聞き耳を立てていたクラスメイトたちもそれで納得したようだ。
気づくと前に座る火狩が、今日も朝から愛想の悪い顔でこちらを振り返っていた。
「昨日はありがとう」
先に声をかけると、あわてたように火狩のポーカーフェイスが崩れた。
「べ、別にオレは何も」
「お前に止められてなかったら、話がこじれてたよ」
「あ? ああ……」
しどろもどろになったり、また急に無愛想になったり、忙しいヤツだ。
「お前も五嶋先生のこと、よくわかってきたね」
「副級長だからな。イヤでもわかってくるさ。で、五嶋先生、何か言ってたか?」
「何かって?」
「その……」
「……鯨井?」
火狩の声をさえぎって声をかけてきたのは、横に立っていた井ノ原だった。
「あ、おはようございます」
「学校来てるってことは……大丈夫だったんだな」
「はい、おかげさまで」
「どうなることかと心配したけど、よかったな」
「あはは、ありがとうございます」
井ノ原に心配されるとはなんとも皮肉だが、昨日が心細かった分、気をつかってくれるのは素直にうれしかった。
そして視線を前に戻すと、火狩がそっぽを向いて憮然としていた。
「火狩? どうかした?」
「いや……別に」
別に、という顔でないのは明らかなのだが、この様子からして聞いても教えてはくれないだろう。
この日のテストは大きなトラブルもなく、無事に終了した。
昨日の騒動で勉強時間が削られて、不安なところもあったが、何とか全部埋めることができたので多分大丈夫だろう。
◇
テストが終わってすぐ、鯨井が先に帰るのを確かめて、火狩は立ち上がった。
「井ノ原さん、ちょっと話があるんですけど」
クラスメイトの半分くらいが帰った中、堂本と話していた井ノ原に声をかけた。
「え、何?」
火狩が黙っていると、何かを察したのか、堂本は軽く挨拶をして先に帰っていった。その他のクラスメイトたち全員が退出するのを待ち、教室に二人きりになったところで火狩は話を切り出した。
「オレの言いたいこと、わかりますよね?」
二人だけの教室。対峙するように、井ノ原を厳しい目で見つめる。
「いや……全然わかんないんだけど」
井ノ原は困惑気味に笑っている。ウソなのか本気なのか──どちらとも取れない表情だ。
「しらばっくれないでくださいよ。あのカンペ──井ノ原さんのものでしょう」
ほんの少し、井ノ原のまなじりがピクリと動いた気がした。
「カンペが見つかったあの時……鯨井のこと、笑ってましたよね? オレ、見たんですよ」
火狩はハッキリと見ていた。
鯨井がカンペを突きつけられ、顔面蒼白になるその横で──うつむき、テスト用紙に向かいながらも、その口元をニヤリと歪ませる、井ノ原の姿を。
その彼は一つ大きく息をつくと、火狩をじっと見つめてきた。
「……なーんだ、見られちゃったのか。ああ、あれ、オレが作ったんだよ」
こともなげに言って、井ノ原は屈託のない笑みを浮かべた。
「そんで、鯨井のイスの下にわざと落としたのもオレ」
火狩とて、井ノ原がわざとやったとは認めたくなかった。何かのまちがいであってほしかった。
しかし、目の前に立つ井ノ原のすました顔は、彼が故意にやったことを腹立たしいまでに証明している。
「留年して一人このクラスに入ってきたあんたのことを、鯨井は随分と心配してたんだぞ。それなのに
……」
「あいつのそういうとこ、ウザいんだよな。『みんなのためにガンバってます』って、押し付けがましくてさ。ああいう偽善者はハメて貶めて、ボコボコにしたくなるんだよ」
「じゃあなんであいつに優しくしたりするんだよ!」
「そりゃ、ハメたときのダメージ大きくするために決まってんじゃん。ちょっと優しくしてやっただけで、まんざらじゃない顔してバカみたいだよなー。あんなブス、友だちにもなりたくないっつーの」
火狩はとっさに井ノ原の襟首をつかんでいた。
冷静に問い詰めようとこらえていたが、限界だった。歯を食いしばり、殴りたくなる気持ちを必死で抑える。
だが井ノ原は、そんな自分をもあざ笑うかのように、ヘラヘラとした笑みを浮かべ続けていた。
「鯨井にバラしたかったら、バラしてもいいよ。でもさ、アレがオレのモノだってバレたら、オレ今度こそ退学になっちゃうじゃん?」
まさかこの人──
井ノ原の笑みが、恐ろしく醜悪なものに思えてくる。
「鯨井は今まで他のヤツらのために何でもやってきただろ? そんなあいつが、オレだけを見捨てるかな?」
鯨井の弱みを的確に突いてくる物言いに、怒りを通り越して吐き気さえ催してきた。
「あんた……どこまで性根腐ってんだよ!」
火狩は襟をつかむ手を離し、井ノ原を突き飛ばした。
これ以上、この人と話をしてもムダだ。立ち去ろうとした自分の背中に、井ノ原は聞き捨てならない言葉をかけてきた。
「火狩は、なんでそんなに鯨井のこと気にかけてんの? まさか……」
「ゲスな勘ぐりはやめてくださいね。あいつはただの友だちです」
「その『ただの友だち』のために、こんながんばっちゃってるの? おかしくない?」
本当に、鯨井は友人以上でも以下でもない。気の置けない仲間だと火狩自身は思っている。
自分が鯨井を手助けする理由……それは。
「確かにあいつはうざったいですよ。単純で、突っ走って壁にぶつかっては悩んで、効率悪いことばっかりで、はたから見てたらイライラしっぱなしですよ。でも──オレにはあんなことできない。自分じゃない誰かのために心配したり、頭下げたり、走り回ったり……自分のことだけ、それも効率ばっかり考えて生きてきたオレにはできないことを、平気でやれるあいつがうらやましいです」
口が悪くて乱暴なくせに、責任感が強くて、困っている人を放っておけない。
そんな鯨井の不器用な優しさは、卒業まで変わることはないだろうと思っていた三Eのよどんだ空気を吹き飛ばし、クラスの意識を大きく変えた。
他人のためにがんばれるヤツだからこそ──あいつのためにがんばる人間が一人くらいいたっていいじゃないか。
それが、副級長たる自分に与えられた使命なのかもしれない、と火狩は最近思い始めている。
「あいつが男だろうと女だろうと関係ない。オレはあいつを尊敬してるからこそ、あいつを陥れるようなマネをしたあんたが許せないんですよ」
いつの間にか、話を聞いていた井ノ原の顔から笑みが消えていた。
「お前ってもっとドライなヤツだと思ってたけど、そうでもないね」
冷え切った目。背筋がぞわりとする。
「友だちを尊敬? お前、ただの友だちに何期待しちゃってんの? 友情なんて、打算がなかったら成り立たないんだよ。そいつが自分にとって役に立つか立たないか、友だちなんてそんなもんだろ」
垣間見えた井ノ原の深い闇に、火狩は言葉を失っていた。
そうじゃないと言い返したいのだが、薄ら笑いさえ浮かべてエゴを丸出しにする井ノ原に、気圧されたかのように言葉が出てこない。
「結局お前だって、打算なんだろ。級長下ろされて副級長にされたから、仕方なく鯨井のサポートに回ってる。そうしとけば、大学編入のときに役に立つってな」
「見くびらないでくださいよ。そんなこと考えるほど、頭悪くないですから」
火狩はやっとの思いで吐き捨てると、井ノ原に背を向けた。
「もういい。あんたがかわいそうな人だってことはよくわかりました。あんたが鯨井をどう思おうと構わない。けど──あいつを陥れるようなマネは二度と繰り返さないでください」
もう顔も見たくない。
また声をかけられてしまう前に、火狩は足早にその場を立ち去った。




