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前期末テスト一週間前のある日。
「鯨井、火狩とケンカしてるみたいよ」
北都も既に帰った、夕暮れ時の五嶋教官室。陽が一日一日短くなり、秋の訪れを身近に感じる。開いた窓から流れ込んでくる風も、涼しいを通り越して寒さすら感じるようになった。
回覧板を届けに来ていた諏訪は、苦笑して五嶋に答えた。
「みたいですねぇ。実験中も険悪な雰囲気でしたよ。どうしちゃったのかなぁ」
めずらしく五嶋も仕事をしている。まとめた書類を数えるように見ていた。
「どうせいつもの痴話ゲンカだろ」
「痴話ゲンカって……別にあの二人、付き合ってるとかじゃないでしょう?」
「そうなったらそうなったでおもしろいんだけどさ。まあでも、なんだかんだでいいコンビだって証拠だよ」
「ケンカするほど仲がいいって言いたいんですか?」
「そうそう」
いいコンビだという感想には、諏訪も同感だ。直情的に突っ走るタイプの彼女と、それを諌め、冷静に物事を見ることのできる火狩と。二人のバランスが取れて、三Eは上手く回っているのだと思う。
そんな正反対な二人だけに、ケンカすることも度々だ。といっても、ほとんど一方的に彼女が怒っているだけのようだが、彼女の機嫌が悪くなると、真っ先にとばっちりが行くのは諏訪だ。もっとも、最近の彼女が諏訪にキツク当たるのは、それだけが理由ではない。
「そういや、お前にもなんかケンカ売ってたねぇ。忙しいヤツだこと」
さすがに五嶋はちゃんと見ていたようだ。
「何があったの?」
五嶋の探るような視線を真っ向から受けて、諏訪はすまして答えた。
「教えません」
「何もったいぶっちゃって」
「弱みは自分だけが握るからこそ、弱みになるんでしょう? そう教えてくれたのは五嶋先生ですよ」
五嶋は唇の端に笑みを浮かべると、諏訪から視線を外した。
「お前、オレに似てきたね」
「それはそれで心外なんですが……」
諏訪はげんなりして、肩を落とした。
五嶋が手にしていた書類の束を机の上に置いた。
「見学旅行の申込書ですか」
見学旅行へは学生主事と各科の担任、副担任が同行することになっている。血気盛んで異性への興味が尽きない十代後半の、しかも大部分が男子学生の群れを引率するとなれば、何事もなく終わるほうが無理な話だ。諏訪も学生として行った当時を思い出し、今から頭の痛い思いだ。
「全員参加ですよね」
五嶋は首を横に振った。
「井ノ原だけが不参加だな」
「あー……そうか。彼は留年したんでしたっけ……カンニングで」
言葉を濁し気味にいうと、五嶋は声を出さずに笑った。
「毎年数人はいるんだよな。見つかるマヌケが」
「学生はそれだけ必死なんですよ」
リスクを犯してでも、テストを切り抜けようと必死になる。諏訪はもちろんやったことはないが、その気持ちはわからないでもない。
「井ノ原のカンニング見つけたの、オレなんだよ」
諏訪は驚いて、目を見開いた。
どちらかといえば五嶋は、そういうものを躍起になって見つけようとするタイプではない。めんどくさいという理由で、見て見ぬふりをするタイプだと思っていたが……
「だって、カンペが通路の真ん中に落ちてたんだもん。無視して通り過ぎるわけにはいかないでしょ」
「通路の真ん中……ですか」
「そう。で、拾おうとしたらさ、横にいた井ノ原が自分のだって言ったんだよ。そう言われちゃったら、いくらオレでもどうしようもないよね」
「それは確かに、どうしようもないですねぇ」
カンニングペーパーという物証があり、何より本人が認めたのだから、これは不正として成立することになる。
「井ノ原くんも、いさぎよいというかなんというか……」
認めるいさぎよさがあるくらいなら、最初からやらなければいいのに──というのは愚問だろうか。
諏訪は半ば呆れて笑ったが、五嶋はなぜか頬杖をついて、思案顔だった。
「……どうかしましたか?」
「うん……いや、井ノ原はなんであんなことしちゃったのかなと思ってさ」
そんなこと、五嶋には言わずもがな──と思ったが、口には出さなかった。五嶋の妙に真面目な面持ちが気にかかったからだ。
◇
九月下旬。いよいよ前期末の試験が始まる。
前期だけしか履修できない科目もあり、緊張感は中間テストの比ではない。後期を余裕を持って過ごすためには、ここで単位を落とすことなく無事に切り抜けたいところだ。
とはいえ、ここは悪名高い三年電気。今残っている三十名の中にも、昨年一単位を落とし、辛くも進級できたという者がゴロゴロいる。余裕などない者のほうが多いだろう。
北都も級長として、今までできるだけのことはしてきたつもりだ。
出席日数が危なそうな者には、ちゃんと学校に来るよう、モーニングコールを優しく入れ。
『起きろやゴルァ。来なかったらてめーの家まで迎えに行くぞ』
宿題やレポートなどの提出物をキチンと出してない者がいると聞けば、尻を叩いて大急ぎで出させた。
『ケツカチ割られたくなかったら、さっさと出せヴォケ!』
「鯨井さん……ホントえげつないです……」
「カンベンしてください……」
多くのクラスメイトから泣きが入ったが、北都としてはむしろ感謝してほしいくらいだ。
五日間の試験期間中は座席の位置も変わり、廊下側から五十音の出席番号順に座ることになっている。北都は廊下から二列目、後ろから二番目の位置だ。
試験初日。
電子工学の試験前、横向きに座り、教科書に目を通していた北都は、後ろの席の黒川の怪しい動きに気づいた。
「……何やってんの?」
「え?」
手元にあった何かをササッと隠す黒川。
「今、何隠した?」
ギロリとにらむと、ビビッた黒川は渋々机の中から手を出した。そろそろと差し出された紙片を取り上げる。
「お前……これ」
小さな紙片に、細かい文字で書かれた公式やら法則の説明。いわゆるカンニングペーパーだ。
「見逃してくれよう。オレ、電子工学はヤバイんだって」
泣きそうな顔で言う黒川に、北都は呆れ顔になった。
「お前なぁ……こんなモン、見逃せるわけねーだろ。どんだけリスキーか、わかってるだろ?」
「そんなこと言ったって……中間で四十点だったんだもん。今回八十点以上取らなきゃ単位落としちゃうよ」
「それはちゃんと勉強してこなかったお前の責任だろーが。こんなモンもし見つかって、テスト全部パーになってもいいのか?」
「鯨井……しっ」
突然、黒川が横を気にして慌てた様子を見せる。顔を向けると、そこに座っていたのは勉強中の井ノ原だった。真横にいたのをすっかり忘れていた。
今の会話を聞いていたようで、思い切り目が合ってしまう。バツの悪い雰囲気──
「オレみたいになりたくなかったら、やめといたほうが懸命だよ、黒川」
井ノ原は苦笑い気味になりながらも、諭すように言ってくれた。
「電子工学の緒方先生なら、点数悪くても追試やってくれるよ。去年もそうだったから」
さすがは年の功とでもいうべきか。三年生を一度やってる者だからこそ知る情報だ。
黒川の顔がパアッと明るくなった。
「本当っすか! よかったぁ」
「よくねーよ! 今からでも勉強しろ!」
紙片を握りつぶし、ゴミ箱に投げ捨てて北都は席に戻った。
「あの……スイマセンでした」
隣の井ノ原に一言声をかけると、彼は真顔でこちらを向いた。
「そうやって、ヘンに遠慮されるほうが困るよ」
怒らせたかと思いきや、彼はすぐに笑顔を見せてくれた。
「鯨井は気をつかいすぎなんだって」
「はあ……」
北都も笑いながら、頭をかいた。
結局、電子工学の試験は何事もなく終わった。黒川は頭から煙を吹いて撃沈していたが、追試もあるということだから、しっかり勉強するよう脅しておけば大丈夫だろう。
期末テストなので、人のことばかり心配していられない。次の数学の試験に向けて、北都は教科書を開いた。
自分も最低でも現状維持、できたらもう一つくらいは順位を上げたい。さすがに一位はムリだけど──目の前に座る火狩の背中を見ながら、北都は思った。
意外と広く感じる火狩の背中。立ちはだかる大きな壁のようだ。
この間ケンカしてから、ロクに口をきいていない。応用物理のノートも借りないまま、その部分だけ勉強しそびれている。
自分が居眠りしてしまったのが悪いのだが、火狩もつまらないことでこっちをからかって、まったく意地の悪いヤツだ。
数学の試験が始まって、前からテスト用紙が配られる。火狩が振り返って、北都に用紙を手渡してきた。こちらを見下したような冷たい目を向けられて、北都は眉根を寄せてにらみつけることで応えてしまった。
こんなことがあと四日も続くのかと思うと、気分が重くなってくる。
試験三日目。今日までのテストの出来によって余裕ぶっこきな者、ガタガタ震え出す者、あきらめモードに入っている者と、三Eの男どもの反応も様々だ。
中日の今日は、計算機工学と応用物理の試験がある。
計算機工学はそこそこいけるのだが、応用物理はどちらかといえば苦手な部類だ。二年生までの一般物理に比べると、流体力学だの熱力学だの弾性力学だのと幅広く奥深くなり、覚える公式や法則の数がハンパではない。
この間の黒川ではないが、カンペを作りたくなる気持ちに駆られてしまうのも、今なら少しわかる気がする。
とりあえずは計算機工学。これは五嶋の受け持つ科目で、授業もそうだが試験にも楽勝ムードが漂っている。とはいえ、甘く見すぎて中間テストで赤点だった者もいるので、さすがに期末の今回は皆気を引き締めてかかっているようだ。北都も満点を取るつもりでテスト用紙に向かった。
途中、見回りで歩いてきた五嶋が、北都の横で足を止め、答案をのぞきこんできた。じっと見ているので、何かあったのかと顔を見上げると、五嶋はニヤリと笑うだけでまた歩き出した。
不気味というよりは、どこかまちがっていたのかと躍起になって答えを全部確認しなおしたが、特に大きなまちがいは見当たらない。不安を抱えたまま時間になってしまい、答案は回収されてしまった。
終わってみれば、あれは単なる五嶋の冷やかし、たわむれだったような気がしてならない。ムダに精神力を使い果たした気がして、どっと疲れが押し寄せた。
だがここで怒っていてもしょうがない。さっさと気分を切り替えて、次の応用物理の準備を始めた。
始まるまでの時間、教科書とノートを開き、今までやってきた演習問題を中心に再度確認していく。
教室に応用物理の富永教授が入ってきて、試験が始まった。
試験時間は五十分。問題は十問だ。微分や積分などを駆使し、法則にパラメータを当てはめ、問題を解いていく。物理は物理だが、決め手は数学とどれだけたくさんの公式・法則を覚えられるかにかかっていると思う。
脳みその隅っこからチラチラ顔を出している、円盤の回転運動方程式を何とか引きずり出して問題を考えていると、急に大きな音がした。
窓際に座る由利が、缶ペンケースを落としたのだ。ペンケースは試験中は机の中にしまっておかなければならないのだが、由利はそれを忘れていた。富永教授がすぐさま近寄って拾い上げ、中を確認する。不審な点はなかったのだろう。「今後注意するように」と釘を刺すと、缶ペンケースをしまわせ、テストは続行された。
終了時間が近づき、あと十分ほどとなった。北都はなんとか全問埋めることが出来たが、どれもこれも自信のないものばかりだ。
最初から見返していると、富永教授がふと自分の横で足を止めた。
富永は、この三Eの去年までの担任だ。問題だらけのこのクラスを受け持ってしまったからか、常に不機嫌だった印象が強い。やめていく学生に対する対応も実に冷淡で、北都は正直、この富永という教授はあまり好きになれなかった。
やっと担任を離れることが出来たからか、三年生からの応用物理の授業では幾分和んだ雰囲気で、肩の力を抜いて授業を受けられるようにはなったが。
その富永がこちらを見ている気配を感じて、この人もか……とウンザリした気分になる。
顔を見上げようとしたが、富永は突如かがみこんだ。北都のイスの下に手を伸ばし、何かを拾い上げるような仕草。後ろの黒川が消しゴムでも落としたのだろうか。
「鯨井」
自分の名前を呼ばれて、北都はビックリして今度こそ富永を見上げた。
苦渋に満ちた教授の顔、そして目の前に突き出された一枚の小さな紙。
「これは……なんだ?」
「へっ?」
これはなんだと聞かれても、北都にはとんと覚えのない紙なので答えようがない。だが、その紙をよく見ると、ヤング率やポアッソン比、慣性モーメントなどの文字と共に数式が書かれていた。
まぎれもない、応用物理のカンニングペーパー。
「これは君のだな」
富永の問いに、北都は目を見開いた。
自分が疑われている──そうとわかった途端。
「ち、ちがいます!」
大きな声で否定した。教室中の視線がこちらに集まってくるのがわかる。前の火狩でさえも、驚きを隠せない顔でこちらを振り返っていた。
「素直に認めたほうがいい。君のイスの下に落ちてたんだぞ」
「あたしじゃありません!」
絶対に認めない姿勢の北都に、富永は困ったように息を吐いた。
「とりあえず、これは証拠として没収。答案もこちらで預かる。処分と今後の対応については、担任から連絡が行くから、それに従うように」
あまりのショックに、北都はそれ以上の言葉が出なかった。答案が没収されても、皆の哀れみを含んだ冷ややかな視線が突き刺さるのを感じても、たじろぐことも出来なかった。




