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井ノ原が単位を取れなかった理由は、本人に直接聞いたわけではないが、当時大きな話題となっていたので、自然と耳に入ってきていた。
彼は、カンニングをしたのだ。
昨年度の学年末試験、三年生最後のテストで、カンニングペーパーが足元に落ちていたのが見つかったらしい。井ノ原もそれが自分のものであることを認めた。
カンニングは発覚すれば全教科〇点と、さらに一週間の停学という厳しい処分が科される。これが中間テストだったなら挽回するチャンスもあったかもしれないが、期末テストではどうしようもない。
かくして井ノ原は二教科六単位を超えて赤点となり、留年決定となった。
人は見かけによらない──とはよく言うが、北都は井ノ原がカンニングをするような人間にはどうしても思えなかった。
中間テストでも怪しい動きなど一切なかったし、成績も中の中ぐらいだったはずだ。一度懲りたからという見方もできるかもしれないが、カンニングなどしなくても十分テストを切り抜けられるだけの力はあるはずだ。
だが──火狩の言うとおり、自分は他人を好意的にとらえやすいのかもしれない。どんな人間でも、ふと魔がさすことだってあるだろう。井ノ原もそれがたまたま期末テストだったというだけのことかもしれない。
入浴後に寮の部屋で一人、ベッドに腰掛けて北都はため息を漏らしていた。
火狩の言うことは正しい……と思う。だがその一方で、自分にも自分の考え、信念がある。火狩の考えをそうやすやすと受け入れることはできない。
副級長として、いたらない級長を諌めてくれるのはありがたいとも思うが、それにしてもあの言い方はないだろう。だいたい、火狩は言葉がキツすぎる。誰に対してもそうだが、こと北都に対しては一際厳しい。
くそったれが……やっぱ級長になれなかったこと、恨んでるんじゃねーか?
一度はおさまった怒りが、また沸々とわいてくる。
頭を切り替えるように、北都は立ち上がり、多佳子の部屋に向かった。
「多佳ちゃん、見学旅行のことなんだけど」
開いたままのドア口から、中にいる多佳子に声をかける。
「あ、聞いてるよ。あんた、ウチのクラスに混じることになったんだって?」
「そうなんだよ。だからグループと部屋割り、どこでもいいからテキトーに入れといて」
「いいわよ。あたしと同じところに入れとくね。東京のホテルは二人一部屋だっていうから、あたしとあんたでいいでしょ」
「それでいいよ」
突然、背中に当たる、むにゅっとした柔らかい感触。
「なーに二人でコソコソ話してんの?」
希が北都の背後から抱きついていた。男子なら確実に萌えるシチュエーションだが、北都にそのケはないのでまったくの無意味だ。
「見学旅行ですよ。多佳ちゃんと二人部屋にしようって話を」
「去年はさ、新宿の結構雰囲気のいいホテルだったのよね。夜景もきれいだったし。あたしも北都と二人部屋になりたーい」
「はいはい、あたしとの百合展開は需要ないのでやめましょうね。ってか、希先輩は諏訪先生オンリーじゃないんですか」
からまった腕をほどくと、希がふと表情を曇らせた。憂いを帯びた、オンナのカオだ。
「あの人……どんな女にも優しい男なのよ。そこに惹かれたけど、やっぱり苦しくて……あたしだけを見てほしいのに……」
「はあ」
「こんな想いするくらいなら……やっぱり北都のほうがいい! 北都、なぐさめてよ!」
今度は前から思い切り抱きつかれ、Fカップの柔らかい胸が北都のペッタンコの身体に押し当てられた。男子なら即死レベルのシチュだが、いつものことなのでやはり北都には無意味だ。
「カンベンしてください……」
「もう、ノリ悪いんだから……」
希は興ざめした顔で北都から離れた。
「あの、希先輩は井ノ原さん、知ってます?」
自室に帰ろうとした希に、北都はさりげなく聞いてみた。
「井ノ原くんて、ダブってあんたのクラスにいるイケメンでしょ? カンニングバレたっていう」
「そうなんすけどね……」
あっけらかんと言う希に辟易しながらも、イケメンの情報に詳しいところには恐れ入るばかりだ。
「なんかあったとか……聞いてないですか?」
「カンニングの話以外は、特に何かやらかしたとかは聞いてないけど。確かにイケメンなんだけど、あたしの琴線にはあまり触れないのよねぇ。可もなく不可もなくっていうか、印象に残らない、地味で物静かなタイプ?」
「え? そうなんですか?」
確かにそれほど強い存在感があるわけではないが、地味で物静かというイメージとはまたちがう気がする。
「そうねぇ……一般棟にいた頃は、同じクラスだった見城くんと仲良くて、一緒にいるとこよく見たけど、それくらいしか覚えてないわねー」
同じ学年でも、科がちがえばそんな程度の印象だろう。元々期待はしていなかったので、情報量が少なくてもそれほど落胆はしなかった。
「三年電気ってさ、何気に顔面偏差値高いよね」
話をずっと聞いていた多佳子が、ふと口を挟んできた。
「またまたまたまた、ご冗談を」
悪ガキ、変人ばかりの男どもをつかまえて、何を言い出したかと思えば。
「井ノ原さんもそうだけど、土屋くんとか船橋くんとか橘兄弟とか、あと火狩くんもクールでいいよね」
「火狩くんって、T大狙ってるんだって? あのテンプレ優等生って雰囲気がたまんないわぁ」
学年のちがう希まで、火狩を知っているとは思わなかった。恐るべし、イケメンデータベース。今頃火狩は盛大なくしゃみをしていることだろう。
「それに加えて、副担任が最強イケメンだからね。乙女ゲー並みじゃない?」
「その乙女ゲーのヒロインが北都じゃ、BLゲーになっちゃいますよう」
多佳子と希がゲラゲラ笑う横で、北都は笑いたいような泣きたいような、複雑な気分だった。
もちろん、こういうキツイ冗談を自分に言えるのは、この二人くらいなものだ。特に同い年の多佳子とは、二年間の同居生活の中でこんな風に何でも言い合える仲になるまでにはいろいろとあった。
北都も多佳子も、わりと物事をハッキリというタイプなので、真正面からぶつかっては希が仲裁に入るなんてことも度々だった。
だがそうやって意見をぶつけあい、話し合うことで、お互いの中で線引きができて、程よい距離で付き合い、言い合える仲になれたのだと思っている。
「そんな誰得なゲームの話で盛り上がるのはやめて」
北都は憮然となって言った。こうやって負の感情をさらけ出せるのも、この二人だからだ。
「あんたさぁ、そんなナリしてながら、毎月生理がくるたびに死にそうになってるじゃん? 重い生理痛って女性ホルモンのバランスの崩れからくるんだけど、それを直す簡単な方法、知ってる?」
唐突に多佳子に話を変えられて、北都はポカンとなった。
確かに自分は男っぽいわりに生理痛が重く、二日目ともなれば鎮痛剤が手放せなくなり、時に寝込むこともある。
それを軽減する方法があるなんて知らなかった。北都は首を横に振ったが、多佳子はなぜかニヤリと笑っていた。
「恋よ」
「コイ?」
「恋愛。恋をすると、その女性ホルモンがキチンと分泌されるらしいよ」
かなり胡散臭く聞こえるのだが、本当だろうか?
「北都、いっそ乙女ゲーのヒロインになったつもりで、マジで恋愛してみたら?」
冷や汗タラタラ。
突拍子もない無理難題に、目が白黒ぐるんぐるん、視線が泳ぎまくる。
「……それこそ無理ゲーです」
「別に男と付き合えって言ってるわけじゃないよ。片思いでもいいんだよ」
「それなら、バファリンで十分です」
「まあまあ、北都が片思いでも何でも恋愛できるようになったら、ちゃんと相談に乗ってあげるから。その時はちゃんと言うのよ?」
希がとりなすが、その顔はニヤニヤ、目は爛々と輝いている。
「おちょくる気マンマンじゃないですか……」
万が一、誰かとそんな話になったとしても、この二人に話したら散々笑われて、後々まで話のネタにされそうでコワイ。
北都はウンザリした顔で、天を仰いだ。
井ノ原が元いたクラス、今の四年電気は三Eのすぐ隣だ。
教室のすぐ横の廊下には個人のロッカーが並んでおり、一人ひとりの名前が書かれている。登校してすぐ、四Eの前を通りながらそのロッカーの名前を見ていたが、なぜか見城の名前が見当たらなかった。見落としたのだろうか?
足を止め、ロッカーを眺めていると、四Eの女子学生がちょうど通りかかった。寮生ではないが、数少ない電気科の女子同士、もちろん既知の仲だ。
「北都、どうかした?」
「あ、いえ……見城さんの名前がないなぁと思って」
女子学生は首をかしげた。何かおかしなことでも言っただろうか。
「あー、北都は知らないか。見城くんなら、三修で学校辞めたよ」
「え……三修?」
「うん。去年の冬くらいから決めてたみたいでね。公務員試験受けるんだって聞いたけど? 見城くんがどうかした?」
「いえ……なんでもないです。ありがとうございます」
頭を下げると、北都は足早にその場を立ち去った。
三Eの教室に入り、席に座ると、その井ノ原がすぐに近寄ってきた。
「鯨井、この間言ってた申込書。親が書いてなかったから、自分で書いてきたよ」
「あ、ありがとうございます」
受け取った申込書は【参加しない】に丸がされ、理由として「昨年度参加したため」と特徴的な字で書かれていた。
「お前も大変だなぁ。級長だなんてめんどくさい仕事押し付けられて」
井ノ原は呆れたように言うが、この程度の仕事でめんどくさいなんて言ってたら、あの教官室の掃除など到底できない。
「そうでもないですよ。最近はちょっと楽しくなってきました」
「これだけじゃないだろ? 他のヤツらのために走り回ったり、頭下げたり……まったく、級長の鑑だよ」
「え、そうですか?」
そんなにストレートに褒められると、背中がこそばゆくなる。自然と頬も緩むというものだ。
「お前はがんばりやさんだな」
大きな手のひらで、頭をポンポン──
あまりに驚いて、北都は一瞬、頭が真っ白になった。
「人のためにがんばるのもいいけど、たまには自分のことも労わってやれよ」
なんという優しい言葉。これが癒し系男子の実力か。一般女子なら確実に目をハートにしているところだが、そこは鯨井北都。目を点にして鯉のように口をパクパクさせるのみで色気がない。
井ノ原が立ち去るのを、北都は自分の頭をポンポンしながら見送った。
女子は男子に頭をポンポンとされるのに弱い────と、雑誌か何かで見たような気がするが、リアルにされると非常にリアクションに困るということがよくわかった。
特に自分の一八〇センチの長身では、男子でも大半が頭上高く手をあげなければならない、非常にハードルの高い行為だ。自分が男子の頭をポンポンするほうがまだ現実味がある。
あーハズい……頭がなんだかぽわんとする。
留年し、たった一人下の学年に残された井ノ原。しかもすぐ隣の教室には、三年一緒だった去年までのクラスメイトがいる。
仲の良かった友人も中退して、かなりの孤独を感じているはずなのに──そんな素振りをまったく見せず、井ノ原はこのクラスで明るく振舞っている。級長である自分に気づかいさえ見せてくれて、まったく申し訳ないくらいだ。
突然──バチコーンと擬音をつけたくなるような、頭への衝撃。一気に目が覚めた。
「ってぇ……なんだよ!」
腹立ち紛れに振り返ると、そこには今日も仏頂面の火狩が立っていた。
「おはよう」
残暑も厳しい今日この頃、火狩は氷のような冷たい声で挨拶すると、北都にノートを差し出してきた。
「応用物理のノート、この間写させてくれって言ってたよな」
「あ、ああ……」
授業中にちょっと寝てしまって、ノートを取りそびれたところがあったので、いつも完璧に取っている火狩に貸してくれるよう頼んだのだ。
「ありが……」
受け取ろうと差し出した手は、虚空をつかんだ。
火狩はノートを北都の手の届かない高い位置に掲げ、こちらを見下ろしてニヤリと笑った。
「でも、『お前には頼らない』なんて言われちゃったしなぁ」
やっぱコイツ、根に持つタイプだよ……
あの時は売り言葉に買い言葉でつい言ってしまったが、テスト二週間前でノートは試験対策には必要なもの。背に腹は代えられない。
一言謝ろうと思ったが、火狩が今度はニタリと笑った。
「井ノ原さんにちょっと優しいこと言われちゃったからって、なーに赤くなっちゃってんの?」
北都はいいかけた謝罪の言葉を引っ込め、ケンカ文句を口にしていた。
「あぁん? 誰が赤くなってるって?」
「お前以外に誰がいる。やさしくされたくらいで上せるなんて、お前も案外乙女チックだな」
やれやれといわんばかりに嘲笑を浮かべる。
────ぶっちん。
北都のキレやすい堪忍袋の緒が簡単に弾け飛んだ。
「誰がお前のノートなんか借りるか。いらねーよそんなモン」
吐き捨てると、北都は火狩に背を向けた。
「本当にいらないのか?」
「いらねーっつったらいらねーんだよ」
本当は貸してもらいたいが、ここまできたらもはや引けない。
「後で後悔しても知らないからな」
後ろで火狩が立ち去るのがわかったが、北都は振り返らなかった。




