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九月。
盆を過ぎれば、早くも秋の気配を感じる北海道。昼間はまだまだ暑いが、空には秋の雲が流れ、朝晩にはひんやりとした空気が漂うようになった。
北陵高専は北海道の学校としては長めの夏休みが終わり、実家に帰っていた寮生たちも寮に戻ってきた。
長い夏休み、バイトに精を出したり、はたまた遊び呆けたり、過ごし方は様々であろうが、北海道の短い夏を十分に満喫したように見える。
北都はと言えば、実家で家族とワイワイガヤガヤやりつつも、近所のショッピングモールでバイトをする夏休みだった。
夏休みの前半には、多佳子が泊りがけで遊びに来てくれた。多佳子の実家は北海道の北端に近いところで、去年も一昨年も北都の家に泊まって、二人でS市を遊びまわったのだ。
「北都、久しぶり。夏休みはありがとね」
先に寮に戻っていた多佳子が、部屋に戻ってきた北都に声をかけた。
「この間買えなかったケーキ、おみやげに買ってきたよ」
「ホント!? 食べよ食べよ!」
一年の大半を寮で過ごしていると、実家からでもここに「帰ってきた」という気分になる。
寮に住み始めて約二年半。そろそろここも、もう一つの【ふるさと】のような気がしてきた。
夏休みが開けての最初の登校日。
朝のHR、自席に座っていた北都は、五嶋に続いて教室に入ってきた諏訪と目が合った。
諏訪がこちらを見て、唇の端を少し持ち上げて笑みを浮かべる。途端に脳裏に思い出したくない思い出が鮮明によみがえり、気分が激しく沈んだ。
『一つ、貸しね』
それを忘れるな、と言わんばかりのあのイヤミな笑顔。
このドS王子め────諏訪に弱みを握られるくらいなら、五嶋に冷やかされるほうがまだマシだったのではないかとさえ思える。
「全員大きなケガもなく、警察のお世話になることもなくそろうことができたな」
黒板の前に立った五嶋は、全員を見渡して言った。
「今月は期末テスト、来月は高専祭、そして十一月は見学旅行と、忙しい時期が続くから、みんな鯨井をこれ以上怒らせることはやんないように。鯨井がブチ切れてあばれ出しても、オレは止めないからね」
自分が忙しくなる一番の原因は、あんただろ────心の中でそうツッコミを入れながら、北都はまた忙しくなりそうな日々にあきらめをつけた。
放課後からは教官室で、早速秘書業再開。
「これ、お土産です」
北都が箱入りの菓子を差し出すと、イスに座る五嶋が目を丸くした。
「お前が気をつかってくれるなんて、めずらしいじゃないか」
「あたしはそんなものいらないと思うんですけどね。母がどうしても持っていけとうるさいもので」
母は『お世話になってるんだから持っていけ』と菓子箱を押し付けてきたが、むしろ自分がお世話している立場だと思う。
とはいえ、いつも五嶋がOBや業者からもらったお菓子は、ここで一仕事したあとの茶菓子となることが多いので、これも結局は北都が食べることになるだろう。
「そんじゃ、ありがたくもらっとくか。すまんな」
「あ、ここのお菓子美味しいんだよね。僕もこの間、友人の結婚式の引出物でもらいましたよ」
なん……だと。
後ろからのぞきこんできた諏訪のセリフに、北都は背筋が凍った。気づかなかった──母に押し付けられるままに持ってきたが、こんなトラップがあったなんて。
振り返り、諏訪をキッとにらみつけるが、諏訪はそ知らぬ顔で笑っている。絶対わかってて言ってるくせに。
「夏休み、なんか面白いことあったか?」
五嶋に聞かれて、北都は努めて冷静に答えた。
「家族で旅行に行って、友達と遊んだくらいですかね。あとはバイト三昧でしたよ」
「楽しい夏休みだったようだね」
諏訪が後ろからケンカを売ってくる。
「ええ、それはそれは楽しい夏休みでしたよ」
ニコニコ微笑む諏訪と──メンチを切る北都と。
「はいはい、仲よさそうなところ悪いけど、今日の連絡事項」
これのどこが仲よさそうに見えるのか。五嶋の目はよっぽど悪いらしい。
北都は牙を向きつつも、気分を変えて自分の手帳を開いた。こんなものを自ら用意しているあたり、すっかり奴隷体質になった自分が情けなくなってくる。
「十一月の見学旅行だけど、今月中に男子の自由行動の班と部屋割り、決めといて。来月入っちゃうと、今度は高専祭の準備で慌しくなるからな」
北陵高専では、普通高校の修学旅行に相当する「見学旅行」が三年生の秋に行われる。京都、奈良、東京を回る六日間の旅だ。
「えと、男子ってことは……あたしは」
「お前は化学科の女子と組んでね。建築でもいいんだけどさ、化学のほうがいいでしょ? それとも男子と同じ部屋にする?」
五嶋が、上目遣いにニヤニヤと笑う。
こういうとき、クラスに女子一人というのは難儀なものである。
北都的には別に男子と同じ部屋でもそれほどの問題はないように思うが、さすがにそういうわけには行くまい。
「やつらに文句言われるんでやめときます。そうっすね……じゃ、化学のほうに話つけときます」
三年化学の女子は七人。多佳子に話をしておけば、自分を含めた班割りを調整してくれるだろう。三Eの男子については、火狩に任せることにする。
「それと、夏休み中に保護者宛に送った旅行の参加申込書。数人、提出がまだだから、追い込みかけといて」
「追い込みって……ヤクザじゃないんですから。で、誰ですか」
「浅井、由利、佐倉と……ああ、井ノ原もだな」
「わかりました」
四人の名前をメモし、北都は手帳を閉じた。
北都は基本、三Eの男子は呼び捨てだ。男どもも、北都のことは苗字で呼び捨てにする。入学当初はよそよそしいところもあったが、二年ちょっと、同じクラスでやってきて、今は気兼ねなく呼び捨てにできるし、級長としての強権を発動し、居丈高に接しても何となく笑いに変えられる部分もできてきた。
級長になってもうすぐ半年。仲がいいとは言えないまでも、気の置けない仲間たちになりつつある三E。
そんな中で一人だけ──北都には未だに「接しづらい」と思える人物がいた。
「井ノ原、さん」
授業が終わり、皆が帰り支度をする中。北都がつまり気味にそう呼ぶと、他の男子たちと談笑していたその男は、こちらを振り返った。
「鯨井、何?」
爽やか系の整った顔立ち。服装もオシャレだが、土屋のようなチャラ男とはちがい、こちらは落ち着きの感じられる正統派だ。女子の間では「癒し系男子」とも評されているらしい。
井ノ原智樹は、その涼やかな笑顔で北都を見つめた。
「あの、見学旅行の申込書なんですけど、まだ提出されてないんで早く出してもらえますか」
「オレ? 行かないよ」
「え? 行かない?」
「そりゃそうでしょ。オレ、去年も行ってるんだから」
それもそうか──わかってはいることだったが、「旅行に行かない」という考えには及んでいなかった。
井ノ原は留年生である。
昨年度、三年生で単位を落とし、進級できずにこの春から北都たちのクラスに入ってきたのだ。同じクラスでも一つ年上の先輩なので、クラスメイト全員が井ノ原をさん付けで呼び、敬語を使う。クラスメイトには傍若無人気味な北都でも、例外ではなかった。
「あー……でも、行かないにしても、不参加で出してもらうことになってるんですが」
「そうなのか……わかったよ。親に言っとく」
「よろしくおねがいします」
頭を下げて立ち去ろうとすると、井ノ原は屈託なく言った。
「鯨井ー。そんなかしこまらなくてもいいよ」
「はあ……でも」
「オレのほうが先輩かもしれないけど、今は同じクラスの友だちだろ? 他のヤツらと同じように、オレもどついてくれよ」
「井ノ原さん、ドMっすか」
一緒にいた堂本が笑った。井ノ原と同じサッカー部だからか、三Eの中では一番仲がいいようだ。
しかしそう言われても、元体育会系の北都には年上の井ノ原をどつくなんてマネはできそうにない。
「あはは……考えておきます」
北都は笑いながら答えを濁した。
井ノ原たちが教室を出て行った後、由利や浅井にも追い込みをかけていた北都は、帰ろうとする火狩に目を留めた。
「火狩」
呼び止め追いかけると、火狩は廊下で立ち止まってこちらを待ってくれた。
「見学旅行の班と部屋割り、今月中に決めといてくれってさ。あたしは化学科の女子と組むから……」
「じゃ、男子二十八人で考えればいいんだな」
「あ……うん」
さっきの井ノ原とのやり取りを聞いていたらしい。まったく、理解が早くてありがたいことだ。
目を伏せていた火狩がふと、北都の目をじっと見てきた。
「お前さ……」
「な、なんだよ」
真顔でじっと見つめられると、思わずたじろいでしまう。
「……井ノ原さんが苦手なのか?」
火狩のセリフにギョッとしたが、北都は苦笑いを浮かべて答えた。
「……苦手っつーか、わかんないって言うか」
見事に痛いところを突かれた。だが火狩は呆れ顔だ。
「そんなこといったら、五嶋先生のほうがよっぽどわかんないだろ」
確かに火狩の言う通りなのだが。
「五嶋先生は、あの通りいい加減だし人づかい荒いし、人の弱み突いて楽しんでるようなイヤなタイプなんだけどさ。でもあの人はやっぱり先生なんだよね。何にも見てないフリして、ウチらのことは何でも知ってるし、何にも考えてないようで、ちゃんと考えてくれてるんだと思う」
この間、國村名誉教授と話す機会があり、春ごろに比べれば落ち着きとまとまりが出てきた今の三Eの様子に、「がんばっているな」とねぎらいの言葉をかけてもらった。
そんな風に声をかけてくれるのは諏訪のほかにはいなかったので、非常にうれしかった……のだが、その際の國村名誉教授の言葉に引っかかった。
『五嶋先生の力に頼りすぎないように』と。
心外な──と一瞬思ったが、ふと思い直した。
面倒なことは自分や諏訪にまかせっきり、授業以外の仕事をまともにしているところを見たことがない。肝心なことは何も言わないし、イスからそうそう動かない。
恐ろしいまでの千里眼、地獄耳。自分では動かないくせに、こちらのやることなすことすべて五嶋に筒抜けのようで、うんざりすることもある。
だがここまでの半年、北都がクラスメイトのために奔走できたのは、その五嶋の密かなバックアップが大なり小なりあったからなのではないか──國村の言葉の裏には、そんな事情が隠されているような気がしてならない。
ただ、それはそれで、五嶋の手のひらで踊らされているような気がして、非常に腹立たしいものもあるが。
「ふーん……そんなものかねぇ」
火狩にはイマイチピンとこないらしい。
「で、井ノ原さんは?」
「あの人はさ、明るいし人の悪口もいわないし、あたしにまで気をつかってくれるいい人だよ。授業サボることもないし、真面目にやってるのはわかるんだけど……」
北都は一つため息をついた。
「それだけに、なんであんなことしちゃったのかなって。一時の気の迷いなのかもしれないけど……」
井ノ原が単位を取れなかった理由。
それを聞いたときから、北都はずっと不思議に思っていたのだ。
「そこらへんがさ、わかんないなーって。でも何を思ったのかなんてハッキリとは聞けないし、モヤモヤしちゃってさ」
「気の迷いも何も、単にせっぱつまってたんだろ。だいたい、お前は物事いい方向にばっかり考えすぎなんだよ。人間、いいところもあれば悪いところもある。わかんないところなんていっぱいあるだろ。オレだって、お前がなんでそんな人のために一生懸命になれるのか、ちっとも理解できないよ」
もちろん、「全員を進級させるため」という明確な理由があって、北都はクラスメイトのために奔走しているのだが、最近はそれだけとも言い切れない気がしている。進級に関係なくとも、クラスの誰かが困っていればめんどくさいことでも手助けしてしまうかもしれない。
火狩はそんな北都の性格を見抜いたようだ。険しい表情で声を尖らせた。
「お前、また他人のことに首突っ込もうとしてるんじゃないか? そもそも、相手のすべてを理解しようなんて考えるほうがまちがってるだろ。他人のことを考える前に、自分のこともっと考えろよ」
「ちゃんと考えてるよ……」
弱弱しく答えたが、叱られた子どものいいわけみたいになってしまった。
だが火狩は首を横に振り、細い目をつり上げた。
「いいや、考えてないね。自分の身体のことも気づかえないヤツが言えたクチかよ」
前に貧血で倒れたときのことを言っているらしい。これについては火狩に助けてもらったのもあるので、北都は何も言い返せず、口を尖らせるしかなかった。
「そんな余裕があるなら、オレに迷惑かけるなよ。他人のこと心配してるヒマがあったら、勉強して完璧なレポートでも基礎電気回路で満点でも取ってみろってんだ」
言われる一方だった北都も、たまりかねてついに反撃した。
「なんでお前にそんな怒られなきゃいけないんだよ。そりゃお前にいろいろ迷惑かけたのは悪かったけどさ」
「そんなに人の心配したいなら、お前の尻拭いさせられるオレの心配もしてもらいたいね」
すましたように言う火狩に、北都は怒りを爆発させた。
「わかったよ! もうお前には迷惑かけないし頼らない!」
目を三角にして怒鳴ると、北都は大股でその場を立ち去った。




