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蝉の鳴き声も勢いを増す、八月の暑い昼下がり。
ホテルの閑静なロビーに、女性の甲高い声が響いた。
「北都! あんたって子は!」
ここは北海道を代表するS市の、その中心部にある高級ホテル。
ロビーにいた大勢の客がいっせいにこちらを振り返るので、北都はあわてて目の前に立つ女性をなだめた。
「ちょ、ちょっと怜子おばさん……声デカイ……」
北都を怒鳴った女性は、母の妹である怜子だ。
北都には負けるが、一七〇センチを越す長身をハリウッド女優張りのオシャレなパンツドレスで包んでいる。その怜子は、アラフォーにしてはずいぶんと若々しく美しい顔を、般若のように歪ませて噛み付いてきた。
「あんたね、今日は従姉妹の真希ちゃんの結婚式なのよ? そんなおめでたい席だっていうのに、あんたったら……」
そういって怜子は、北都の身なりを上から下までジロリと睨みつけた。
従姉妹の結婚式に参列するためというよりは、どこぞのホストが女性客と同伴するためにやってきたのかと言わんばかりの、ダークカラーのパンツスーツ。長身な上に胸にも尻にもボリュームが皆無なので、メンズと見紛うばかりだ。ドレスシャツにシルバーのネクタイをキッチリ締めて、革靴を履けばどこからどう見ても男にしか見えない。
「なんでそんな経済ヤクザみたいな格好なのよ! これが怒らずにいられますか!」
「経済ヤクザってヒドイ……だって、この間スーツ買いに行ったら、これムリヤリ買わされたんだもん……」
結婚式や秋の見学旅行のために、北都は一人でスーツを買いに行ったのだが、店に入るなり「これ以外にあなたに似合うものはない!」ぐらいの勢いで、このスーツを押し付けられたのだ。おそらく、北都ぐらいしか買いそうな人物がいなかったのだろう。体のいい在庫処分だ。
一応女物で、マニッシュなラインは今年の流行だと説明されたのだが、ファッションには人一倍疎い北都がそんなことを理解できるはずもなく、「似合うのならいいか」ぐらいの軽い気持ちで買ってしまったことは否めない。
「あんたって子は本当に……そういうところは疎いっていうか、何も考えてないのね……」
「しょうがないよ、怜子おばさん」
二人のやり取りに、横から口を出してきた、ピンク色のワンピース姿の少女。北都の二才下の妹、みなみだ。
男っぽい北都を反面教師にしたような、可愛らしい女の子だ。背も普通で、長い髪の毛をキレイにまとめている。
「お姉ちゃん、女っぽい服大ッキライだもんね。Tシャツにジーンズじゃなくて、スーツ着てきただけでもマシだと思わなきゃ。ってか、お姉ちゃん暑くない?」
さすがにそこまで常識がないわけではないが、ドレスコードだのなんだのと、冠婚葬祭の細かいしきたりまで北都が知るわけがない。
「北都ねーちゃんがスカートなんてはいたら大事件だよ。世界の終わりだ」
そう茶々を入れたのは、五才下の弟、ナマイキ盛りの東護である。学ランを着て、いっちょ前に髪も念入りにセットされている。減らず口を叩く東護をギロリと睨みつけると、あわてたように逃げていった。
怜子は一つ大きなため息をついた。
「まあね……あんたがこんな男っぽく育っちゃったのは、しょうがないとは思うんだけど。背が高いのは私の遺伝だろうしね」
北都の家系の女性の中では、怜子と北都だけがずば抜けて背が高い。北都の凛々しい系の顔立ちも、母よりこの叔母のほうに似ているのだと思う。
「普通の女物の服が似合わないって言うのも理解できるわよ」
やっとわかってくれたか──と、ホッとしたのも束の間。
「でも、結婚式やお葬式があるたびにこんなことを繰り返して、私も学習しました。今回は私が、あんたの結婚式用の服を用意してきたわ」
「うぇっ?」
驚きのあまり、ヘンな声が出る。
「あんたのサイズに合わせて、作ってきたのよ。春休みに会ったときにこっそり測っといて正解だったわ」
怜子は元モデルで、今は小さいながらも自分のブランドを持つデザイナーだ。デザインを起こすところから裁断や縫製まで、自分ひとりでできてしまう。そうやって作ってもらった服を母やみなみが着ているところを見たことがある。
というか、春休みに怜子が東京から遊びに来たときに、やたらと抱きついてくるなぁと思っていたら、こっそり採寸されていたらしい。
「結婚式用の服って……」
嫌な予感がして聞くと、怜子は自信たっぷりに答えた。
「もちろん──イブニングドレスよ」
回れ右をして逃げ出そうとした北都だったが、あえなく襟首をつかまれ、とらえられてしまった。
「やだっ! ドレスなんて着たくない!」
スカートどころかイブニングドレスだなんて、もはや狂気の沙汰だ。歩くグロ画像、精神的ブラクラだ。
「いいから着るわよ! そんな格好で式に出るよりずっとマシ!」
「いーやーだ!」
「大丈夫! 私があんたのためだけにデザインしたものだから、絶対似合う! ヘアメイクもちゃんとしてあげるから」
「公開処刑されるくらいなら死ぬ!」
怜子に腕をつかまれ、引っ張られるが、北都も逃げ出そうと必死だ。
「ちょっと、母さん!」
救いを求めるように北都は後ろにいた母を振り返った。一部始終を見ていたはずだが、黒留袖姿の母は深いため息をつくばかりだ。
「私もねぇ、『おたくは息子さんお二人でしたっけ?』って聞かれて、一々否定するの疲れんのよ。たまには親孝行だと思って、怜子の作った服着てきなさい」
援護射撃どころか後ろから撃たれる始末。年々男化する自分に、母はとっくに匙を投げたものだと思っていたが、まだまだあきらめていないらしい。
怜子は神妙な面持ちで北都に告げた。
「北都、これはアルバイトだと思いなさい。あんたは私のブランドを宣伝するためのモデル。いつも会うたびにお小遣いあげてるでしょ? たまには私のために働きなさいよ」
退路は断たれた。これ以上ゴネれば、貴重な資金源であるお小遣いがもらえなくなるのは必至。
「ぐぬぬ」
つい数ヶ月前も似たような状況があったばかりだ。どうして自分の周りには、こうも強引な大人しかいないのだろう。
しかし、今の北都にその強引な大人に勝つ術はない。弱みを握られている以上、おとなしく従うほかに道はなさそうだ。
「さあ、いくわよ」
観念しうなだれた北都を、怜子は嬉々として親族用の控室に連れて行った。
「お姉ちゃん、着替え終わった?」
カーテンの向こう側から、みなみの興味津々な声がかけられる。
「もうちょっと……今メイク終わるから」
答えたのは怜子だ。北都はされるがままで、口を開く気にもなれない。
「みなみちゃん、そこの横にあるパンプス、出してくれる?」
「はーい」
鏡の中の自分が変身していくさまを、まざまざと見せ付けられて、北都はなんとも微妙な気分になっていた。元の顔を自分が一番よく知るだけに、化粧というものは心底恐ろしいものだと改めて驚愕する。ダマされる男がいるのもしょうがない話だ。
中学の頃に友人との遊びの中で化粧をしたことがあったが、その時は誰も、もちろん北都自身も化粧の腕に覚えがなく、それこそモンスターのような顔になってげんなりした記憶が強かったので、それ以来ずっと化粧というものとは無縁の生活をしてきた。女子寮でも多佳子や希がたまに化粧をするのを、よくもまああんなに色々なモノを塗りたくれるものだと、感心半分呆れ半分で見ていたくらいだ。
「よし、できた。あとはイヤリングをつけて……」
もちろんアクセサリーにも無縁。耳たぶを挟まれて痛い思いしかない。
「立っていいわよ。靴、履き替えてね」
北都は立ち上がり、着替えスペースのカーテンを開けた。みなみが用意してくれたパンプスに足を通し、北都の変身は完成した。
大変貌を遂げたその立ち姿に、みなみが頬を紅潮させて声を上げた。
「お姉ちゃん……すごーい! お姉ちゃんじゃないみたい!」
肩も露な、ワインレッドのワンショルダーロングドレス。細身でシンプルなデザインだが、怜子自身が採寸し作っただけあって、北都の身体にジャストフィットしている。ヒザ辺りからスリットが入り、動くたびに見え隠れする足が艶かしい。肩口には取り外し可能な、三輪のバラのコサージュがついている。チャペルではこれを外して、ボレロを着るそうだ。
顔にはもちろんメイク。しかしながらモンスターではなく、ナチュラルにも見える怜子のスゴ技だ。耳元には大振りのパールのイヤリングが輝いている。
いつもは洗いっぱなしで、ブラシすらまともに通さない髪の毛も、今はワックスで固められたリーゼントスタイル。
足元はゴールドのパンプス。もちろんヒールつき。同じくゴールドのバッグを握る手には、ドレスと同じワインレッドの付け爪をつけるほどの気合の入れようだ。
男みたいな姪っ子を、美しく飾り立てる楽しさ──プライスレス。とでも言いたげに怜子は満面の笑みを浮かべている。
「我ながらいいデキだわぁ。昔を思い出しちゃったわよ。あんたタッパあるから、迫力でるわねぇ」
「お姉ちゃん、ホント、スーパーモデルみたいだよ!」
そんな褒め言葉にも、北都の顔は引きつっている。
ドレス姿が思ったよりもマトモな感じで安堵はしたが、着慣れない服を着た上に、化粧までされて、顔が思ったように動かせない。
「どこもかしこもキツイ。スースーする……」
スカートなぞ中学の制服以来である。ロングドレスなどもちろん初めて。いつものように大股で歩けないのがもどかしい。全身がぎこちなく、はたから見ればロボみたいな動きになっているだろう。
だが怜子は十分ご満悦のようだ。
「やっぱあんたモデルの素質あるわ。モデルなんてさ、スタイルが一番で顔なんか二の次なんだから。化粧でどうにでもごまかせるんだし、あんたやってみたら?」
「お断りします!」
北都はキレ気味に即答した。




