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衝撃が身体を突き抜ける。同時に全身に痛みが走った。
崩れ落ちた何かが、アスファルトの地面を叩きつける轟音。
「辰巳!」
残響の中、自分の名を呼ぶ鯨井の声が聞こえた。アスファルトの熱を頬で感じるのは、自分が倒れたからか。
「う……」
身体を動かすと、痛みはそれほどでもなかった。地面に手をつき、ゆっくりと身体を持ち上げる。
そのまま振り返ると、ついさっきまで自分がいた場所に、崩れたイスの山ができていた。そしてその下には──
「──鳶嶋さん!」
甲斐の悲痛な叫び声が木霊する。
辺りが騒然となった。人が集まってきて、乱雑に積みあがったイスをかき分けるようにどかしていく。辰巳も身体の痛みを忘れて立ち上がった。
除けられたイスの下には、うつぶせに横たわる鳶嶋の姿があった。
辰巳の血の気が引いた。まさかこの人──オレを助けようと、オレを突き飛ばして自分が下敷きに……
「鳶嶋さん!」
名を呼ぶと、鳶嶋がわずかに動いた。意識はあるようだ。
「大丈夫ですか!」
甲斐が駆け寄る。
「痛ってぇ……」
うめきながらも、鳶嶋は目を開き、身体を起こす素振りを見せた。甲斐が手を差し伸べ、背中に手を当てて上半身を起こす。
「うっわ、ハズい……」
鳶嶋は弱弱しく笑った。なおも立ち上がろうとするが、甲斐がそれを押しとどめた。
「動いちゃダメです! 今救急車呼びますから」
そう言っている間に、鯨井がケータイで救急車を呼んでいた。あれだけのイスに押しつぶされて、大丈夫なわけがない。どこを打っているのかわからないし、万が一頭でも打っていたら大変なことだ。
見た目には大きなケガはなさそう──と思った矢先、鳶嶋のかすり傷だらけの顔が激しく歪んだ。
「……やべぇ」
右手を持ち上げ、顔の前でプラプラさせる。
「指、折れちゃったかも」
明るく言うが、実際はかなりの痛みなのだろう。右手の親指が既に腫れ始め、内出血も起こしている。
「甲斐、悪い……明日の定演、ムリっぽい」
「そんな……しょうがないですよ。事故なんですから」
「でも、オレのソロパートは?」
「あ……」
甲斐が深刻な表情で黙り込んだ。
「ソロパート?」
鯨井が甲斐にたずねた。
「鳶嶋さん、一曲ソロパートがあるんだけど……」
「他のクラリネットもいるんだろ?」
「他のクラ担当も吹けるには吹けるけどさ……ちょっと難しいんだ。それに、ただでさえクラは人数ギリギリで、正直、今から他人のソロパートまで任せるのはムリがある」
甲斐は苦しそうに眉根を寄せた。
「最悪、その曲はプログラムから外すかもしれない」
「あ、いいこと思いついた」
鳶嶋は急におどけたように言った。
「辰巳──お前が吹いてくれないか」
まっすぐな視線を向けられて、辰巳はビクリと身体を震わせた。
冗談にもほどがある。やはり頭を打っておかしくなったのだろうか。甲斐だって目を見張って驚いている。
「いい加減にしてくださいよ。そんなことできるわけ……」
「【ラプソディ・イン・ブルー】。覚えてるだろ?」
辰巳は息を呑んだ。
覚えている。いや、鳶嶋のソロがこの曲であることもとうにわかっていた。
「もう気づいているよな。中学のときにやったのと、まったく同じアレンジだって。お前がやったソロとまったく同じだって」
何もかもわかっていた。わかっていて、知らないフリを続けてきた。
鳶嶋の吹くソロのメロディが懐かしくて、自然と指が動いていたのだ。
「でも、オレはもう……」
「三年のブランクがなんだよ。いや……本当は、今も吹いてるんだろ? じゃなかったら、あんなに指が動くわけない」
懐かしさのあまり、クラリネットを持ち出して吹いていたことすら見透かされていた。
恥ずかしさよりも、鳶嶋の目の鋭さに感心してしまう。
「あえて言うよ──お前はクラリネットの天才だ。今から準備すれば、明日の本番には間に合う」
「辰巳、オレからも頼む」
甲斐が立ち上がり、辰巳に向かって深々と頭を下げた。
「明日の定演、どうしても成功させたいんだ。できることなら、プログラムから外すなんてことしたくない。全曲、練習してきた成果をちゃんと出したいんだ。鳶嶋さんの推薦なら信用できる。一曲だけでいいんだ。お前なら……」
ほだされそうになって──辰巳は首を横に振った。
「ムリだ。今のオレには……」
それでもやっぱり、吹けない。
あの日、期待も責任も、何もかも捨てて逃げ出した自分が、今更あの舞台に戻ることなど……
「『てめー、逃げんのか?』」
意外な声がして振り返ると、土屋が嘲笑を浮かべながらこちらを見ていた。
「入学して、初めてお前がオレにケンカ売ってきたときの言葉だよな。今こそその言葉、そっくりお前に返してやるよ」
これが挑発だということくらいわかっている。それに乗るほど幼稚ではない。
鳶嶋や甲斐には悪いが、これ以上ここにいても腹が立つばかりで何の解決にもならない。この場を離れようと踵を返すと、背中に土屋の辛辣な言葉が投げつけられた。
「あ、やっぱ逃げんの? オレはあの時逃げなかったけどな。さすがは見かけ倒しの腰抜けヤンキー。さっさと家帰ってオモチャの笛でも吹いてろよ」
ついついいつものクセで、立ち止まって土屋に言い返してしまった。
「何も知らないてめーが、ガタガタ言うんじゃねーよ。これはオレだけの問題じゃない、ブラバン全体の問題だ。しかもあの曲はOBも参加する曲。一度もあわせたことがないオレがいきなり入って、ソロ吹けるわけねえんだよ」
土屋はわざとふざけた顔を作って、なおも挑発してきた。
「『吹けるわけない~』なんつって、ホントは失敗するのが怖いんだろ。やる前から失敗することばっか考えて、うじうじしてるとこなんかホントお前らしいよ」
イライラがつのりにつのって、辰巳は大股で土屋に近づくと、その襟首をつかみ上げた。
ガチギレの自分の顔が眼前に迫っても、土屋はヘラヘラとした笑みを崩さなかった。
「殴りたかったら殴れよ。もっともオレは、後ろばっか向いてる腰抜けヤンキーとなんか、ケンカする気も起きないけどね」
何も言い返せず、ただ襟をつかむ手に力をこめることしかできない。
「くやしかったら、ちゃんと演奏して、オレを見返してみろよ。オレより目立ってみろよ。そしたらこのケンカ、いくらでも買ってやるよ」
まったくどいつもこいつも──そこまでオレにクラリネットを吹かせたいのか。
舞台に引っ張り出してまで、オレに恥をかかせたいのか。
胸がムカムカする。ヘドが出そうだ。
土屋の襟をつかんでいた手が離れ、足はいつの間にか自転車置き場に向かっていた。
「辰巳……どこへ」
鯨井が心配そうな顔で聞いてくる。
こいつのせいだ。こいつがオレをブラバンになんか連れてこなかったら──こんなことにはならなかったのに。
「──家」
明らかな失望の色を見せる、鯨井と甲斐。
「クラリネット、持ってくる」
そう答えた途端、二人の顔がパッと明るくなった。ゲンキンなものだ。土屋の顔など確かめたくもない。
「二十分で戻る。甲斐、鳶嶋さんのことは任せた。あと、この間のゲネプロ録画した映像あったよな。それと楽譜、用意しといてくれ」
甲斐は力強くうなずいた。鳶嶋は安心したのか、穏やかな表情ではあるが、血の気が引いたように青白い顔になっている。
「鯨井。オレの代わりに荷物運び頼む。明日は授業全部休むから、先生にも言っといてくれ」
「まかせとけ」
後の仕事は鯨井と土屋に任せることにして、辰巳は急いで自分の自転車を持ってきた。
「とりあえず、練習やるだけやってみるけど……正直、お前らが求めるレベルになれるかどうかはわからない。明日、本番直前に一回、通しでやらせてもらって、プログラムから外すかどうか、そこでお前が決めてくれ」
「わかった。部員やOBにはオレから話つけとくよ」
甲斐もこれから大変なことになると思う。だが今はそんなことはおくびにも見せず、甲斐は笑顔で自分を見送ってくれる。
「辰巳、大丈夫、お前ならできるよ!」
鯨井の声が背中を押す。
そして土屋は──そっぽを向いて、目をあわさなかった。あのヤロー、定演が終わったら、絶対ブン殴ってやる。
辰巳は自転車を漕ぎ出し、校門を出た。
相棒を、ここに連れてくるために。相棒の音を、高らかに響かせるために。
踏み込む自転車のペダルが、やけに軽く感じた。




