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翌日。数日続いていた曇り空もすっかり晴れ、今日は久しぶりにいい天気だ。
悩みごとのメドもついて、昨夜はしっかりと睡眠も取れた。生理痛もヤマを超えて、今日は昨日よりもずっと体調がいい。
登校して三Eの教室に入ると、辰巳と土屋が競うように頭を下げてきた。
「昨日はすんませんでした!」
「ごめんなさい!」
この二人に頭を下げられると、暴走族の総長かヤクザの若頭にでもなった気分だ。
二人はこちらの様子を伺うように、上目遣いで見てきた。自分たちの処分は北都の胸一つ──そう五嶋に言われているからか、できるだけ下手に出ようという魂胆がミエミエである。
「放課後、二人ともツラ貸せ。行くところがある」
北都は冷淡に言って、自分の席へと向かった。残された二人は、不安そうに互いの顔を見つめるばかりだ。
その日は何事もなく終わり、六時間目の英語が終わったところで放課後を迎えた。
北都は先に五嶋のところで所用を済ませてから教室に戻ったが、辰巳と土屋は逃げ出すこともなく、二人居心地悪そうに座って、そっぽを向いて待っていた。
「行くぞ」
促すと、二人はのろのろと立ち上がった。
うしろをトボトボとついてくる男二人を連れて、意気揚々と北都が向かった先──それは。
「失礼します!」
挨拶とともに気密性の高い厚めのドアを開けると、音楽が止まり、中にいた人間の視線がいっせいに北都たち三人に集まった。
「え……鯨井?」
真っ先に声を上げたのは、同じ三Eの甲斐だった。
ここは音楽室──放課後の今、ここは吹奏楽部の部室だ。それぞれに楽器を持ち練習中だった部員たちが、皆固まってこちらを見ている。
「辰巳と……土屋? 三人ともどうしたんだよ……こんなとこにくるなんて」
甲斐は北都が来たこと以上に、仲が悪いはずの辰巳と土屋が一緒にいることに驚いているようだ。
北都は皆に宣言するかのように、大きな声で言った。
「今日から定演までの間、こいつらを吹奏楽部のマネージャーにするから」
「ええっ」
驚きの声を上げたのは甲斐だけでなく、辰巳と土屋もだった。事前に何も言ってなかったので、驚くのも無理はない。
「そ、そんなこと急に言われても……マネージャーなんて」
甲斐の動揺ももっともだ。だが何の手回しもなくここに乗り込んでくるほど、北都もバカではない。
「五嶋先生経由で、顧問の渋谷先生にはハナシ通してあるよ」
昨日、二人の処分を任された北都が五嶋に頼んだのだ。学内で妙な力を持つ五嶋のおかげか、話は電話一本で通った。
「こいつら、好きに使っていいよ。力仕事でもチケット売りでもポスター貼りでも、なんでもいいから、ケンカする元気がなくなるまでこき使ってくれ」
「おい、鯨井!」
いいように言われて、ついに辰巳が声を荒らげた。
「てめー、何勝手に話進めてんだよ! オレは吹奏楽部のマネージャーなんか……」
「んじゃ、停学の方がいいか」
北都が冷酷に言うと、辰巳は言葉をなくして黙り込んだ。
「オレは別にマネージャーでもいいよ。ここ女子多いし、楽しそうじゃん」
土屋は実にチャラ男らしい意見だ。
「……鯨井は?」
甲斐の不安そうな顔。ヤンキーとチャラ男をただ置いていかれても困ると言った顔だ。
「あたしはこいつらの監督ってことで」
北都が胸を張ると、甲斐の顔がパッと明るくなった。
「何でそんな話になったのかは知らないけどさ、手が足りなかったから助かるよ」
北都たち三人を隅っこのテーブルに座らせながら、甲斐は言った。
辰巳は一人、パイプイスの背にもたれかかり大きく足を組んで仏頂面だ。吹奏楽部というおよそヤンキーには縁のない場所に連れてこられて、しかも強制労働させられるというのだから、不機嫌になるのも致し方あるまい。
「じゃあ、とりあえず……パンフレットが刷り上ったんだけど、それに広告を挟んでもらおうかな」
そう言って、甲斐は部屋の片隅に積まれた紙の束を指差した。
「けっこう量あるように見えるけど……」
「うん、千五百部」
「千五百!?」
いつもの年なら市民ホールの小ホールなのだが、今年は創設五〇周年記念で、OBも呼んでの大掛かりな演奏会になるそうだ。大ホールを使うので、確かにそのくらいの部数はあるだろう。
「頼むよ」
かくして北都と辰巳と土屋は、優雅な音楽が流れる部室の片隅で、延々とパンフレットを開いては数枚の広告を挟みこむ作業に追われることになった。
北都はこういった単純作業は苦ではないが、それでも新しくてツルツルの紙のせいか、なかなか紙がつかめなくて苦労する。
辰巳と土屋にとっては苦行以外の何物でもないだろう。まだ土屋はいいが、辰巳は全身からイライラオーラを発しつつ、それでもごつい指でパンフレットを傷つけないよう慎重にめくっていた。
「ちっ」
何度目の舌打ちかわからない。そのうちパンフレットを破り出すんじゃないかと思うくらいのイラつきようだ。
かたわらで地味な作業をする三人に構うことなく、部員は部員で黙々と練習している。今は全体練習の真っ最中だ。
指揮は本来は顧問で英語の渋谷准教授だが、今はクラリネットの一番前にいるコンサートマスターらしき男子学生が、自分も演奏しながら全体の演奏をまとめている。
音楽と言えばロックしか聴かない北都にとっては、クラシックは曲名もわからないし、聞いたこともない曲ばかりだが、中には聞き覚えのあるようなポピュラーな曲もあった。
吹奏楽部が演奏する曲を、腰をすえてしっかりと聴いたのは初めてだったので、驚きつつも目からウロコが落ちる思いだ。
だがそんな吹奏楽の心地よい音楽が流れる中でも、辰巳は一人カリカリしている。眉間にシワを寄せ、こめかみには青筋すら立っているように見える。
ため息をつき、少しなだめようと思ったその瞬間──辰巳は勢いよく立ち上がっていた。
「おい、辰巳!」
殺気すら感じさせる顔で、練習中の部員に向かって突進していく。辰巳に怯えて、部員たちの演奏も止まってしまった。
そこまで吹奏楽部がイヤだったのか──北都は立ち上がり彼を押さえようとしたが、その時既に、辰巳はアルトサックスを持つ女子部員の前で立ち止まっていた。
目の前で仁王立ちになるヤンキーに、女子部員は固まって涙目になるばかりで動くことすらできない。
辰巳は息を吸い込んで、大声で怒鳴った。
「お前────ピッチズレてんだよ!」
「え……何?」
北都には、辰巳が何を言っているのかさっぱりわからなかった。
「チューニングサボんじゃねえ! 気持ちわりぃんだよ!」
部員たちも、辰巳のセリフが信じられないとばかりに目を見開いている。
怒鳴られたショックで身動きの取れない女子部員をかばうように、甲斐が立ち上がった。
「ちょっと吹いてみて」
女子部員は優しい部長の言葉で我を取り戻して、震える手でサックスの音を長く出した。
途端に甲斐は息を呑んだ。
「ホントだ……ほんのちょっとだけど、音ズレてる」
どうやら音があっていなかったらしいが、そう言われても北都にはズレてるのかズレていないのか、そもそも何のキーなのかすらまったくわからない。
「いや……さっきから違和感はあったんだ。けど、それがどの楽器なのかまではわからなくて……」
女子学生はすぐさま、同じアルトサックスの他の学生と音を合わせだした。
それに満足したのか、辰巳はまた肩をいからせて作業場に戻った。
「辰巳! てめー、言い方ってモンがあるだろ!」
北都は彼の頭をペチンと叩いた。また怒るかと思ったが、意外にも彼はふてくされて口を尖らせるのみだ。
「オレは正直に言ったまでだ。言い方なんて知るかよ」
「女泣かすなんてサイテーだな」
からかうような土屋に辰巳は気色ばんだが、二人とも北都の一にらみを受けて静かになった。
ヤンキーに怒鳴られてはかなわないと思ったのか、他の学生もチューニングし始めて、全体合奏どころではなくなってしまったようだ。甲斐がテーブルに近寄ってきた。
「辰巳……お前、もしかして絶対音感の持ち主?」
絶対音感というと、世界のすべての音が音階に聞こえるという、あの特殊能力だろうか。
「ああ、そうだよ。悪いか」
機嫌悪そうに答えた辰巳に、北都も土屋も驚いた。ヤンキーに絶対音感とは、宝の持ち腐れもいいところだ。
「悪くないよ。何か楽器やってたの? ウチの部に入って欲しいくらいだけど」
「誰がこんな辛気くさい部活に入るかよ!」
辰巳は大声で激昂した。
いくらなんでも、勧誘する相手をまちがってるよ──たじたじとなる甲斐に、北都は内心で呆れた。
「その顔で絶対音感だって。似あわねぇの」
「土屋もいい加減にしろよ。二人ともさっさと作業作業」
その後は辰巳も多少イラつきながらも落ち着いて、三人は作業に没頭した。
気がつけば、初夏の長い陽も傾き、吹奏楽部の今日の練習も終わりとなっていた。
楽器を片付け始める部員たちに合わせて、北都たち三人も今日の作業を終えることにした。
「疲れた……」
「まだまだ残ってるよ……」
後ろにはまだ手付かずのパンフレットが山積みになっている。明日も明後日も、延々とこの作業を続けなければならないようだ。
立ち上がり帰り支度を始めていると、部員の一人がこちらに近づいてきた。
結構な大柄の男子学生だ。明らかに鋭い目つきで辰巳を見つめながら、歩み寄ってくる。
「お前……辰巳、だよな」
一触即発か、と身構えていた北都は、その懐かしむような柔らかい声音に拍子抜けした。
辰巳もわかっていたのだろう。斜に構えながらも仏頂面でちょっとだけ頭を下げた。
「…………鳶嶋さん、ども」
鳶嶋と呼ばれた男は、一転して明るい顔つきになった。
「すっかり変わっちゃったから、気づかなかったよ」
どうやら辰巳の昔を知る男らしい。その言葉からして、昔の辰巳はもうちょっとマシな格好だったということだろうか。
「でもなんでお前……」
「──お先に失礼します」
突如、辰巳は鳶嶋の言葉をさえぎり、踵を返した。荷物をつかんで、すばやく音楽室を出て行く。
突然の不躾な振る舞いを不審に思いながらも、北都は辰巳を追いかけて廊下に出た。
「辰巳……あの人、知り合い?」
追いすがる北都に構うことなく、辰巳は歩みを止めずに答えた。
「中学の先輩だよ。先、帰るからな」
「お、おい……」
「明日も来りゃいいんだろ。わかってるよ」
後ろ手に手を振って、辰巳は一人去っていく。
足音がどこか逃げたようにも聞こえたのは、気のせいだろうか。