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六月。
北海道に梅雨はないと言われているが、だからといって晴天続きなわけでもない。
本州以南の梅雨ほどではなくとも、「蝦夷梅雨」や「リラ冷え」とも言われる雨天続きの日も存在する。
晴れた日なら外に干せる洗濯物も、雨では室内に干すしかなくなる。雨天が続けば、なかなか乾かない洗濯物が、寮の六畳ほどの自室の頭上にずっとぶら下がったままだ。ただでさえ女っぽさのかけらもない殺風景な部屋に、うっとうしさがプラスされてしまう。
そんな生乾きの洗濯物の下で、北都は机に向かっていた。
二期制をとる北陵高専では、六月に入ってすぐ前期の中間試験が始まる。
単位がかかってくる期末ほどの切迫感はないが、赤点を取れば当然追試やレポートが待っているので、軽んじるわけにはいかないのだ。
さすがに一週間のテスト期間中は、皆自室にこもって勉強しているせいか、寮の中もいつもより静かだ。赤点が六十点という、普通高校に比べたら厳しい基準もあって、ぶっこく余裕などどこにもないのは皆一緒。
こういうとき寮に住んでいると、先輩から過去問がもらえるので非常にありがたい。特に一般科目は教師が同じであれば、テストの傾向はほぼ変わらないなので、過去問さえしっかりやっておけばそれなりの点数は取れる。
北都もこの寮で先輩たちが残してくれた過去問を元に、入念にテスト対策を施していた。
そして無事テスト週間が終わり、学校も通常の時間割に戻った。
採点の終わったテストが次々と返され、全ての結果が出た。朝のHRで五嶋から、全教科の点数と総合順位が書かれた紙が個々に手渡される。
「また三位か……」
結果を手にして、北都はつぶやいた。入学以来、北都は三から五位の間をたむろする、なんともビミョーな順位である。
それでもヒト桁台なので相対的に見れば悪くはないのだろうが、このクラスは火狩がブッチギリの首位をキープし続けているので、他が霞んで見えてしまうのだ。
「火狩ってさ、最初からT大狙いだったの?」
北都はふと、横にいた火狩に聞いた。
「なんだよ、急に」
「この学校からT大狙うヤツって、かなりめずらしいって五嶋先生が言ってたよ」
北都自身は、卒業後の進路をまだ決めかねている。今の成績ならどこかの大学には編入できそうだが、そのどこかはまだ考えていない。
火狩はため息を吐きつつ答えてくれた。
「最初は旧帝クラスならどこでもいいと思ってたけどな。でもこの学校からT大に編入した学生が一人だけいるって聞いてさ。すげー英雄扱いされてるから、じゃあオレも狙ってみるかって思って」
先駆者がいると聞けば、そこに追いつき、追い越したくなる。その気持ちはわからないでもない。意外と野心家な一面もあるようだ。
「でも、その英雄っていうのが、あの人だったとはな……」
北都と火狩はそろって、遠い目で諏訪を見た。
今日も朝から張り付いた笑顔で、成績に一喜一憂する学生たちをニコニコと見守っている。
「なんか……あの人には負けたくないな」
これが頭だけがいいブサメンだったのならまだしも、外見もハイスペック過ぎるところが男のプライドを刺激するのだろう。
北都としては、火狩もちょっとぶっきらぼうなだけで、ルックスは諏訪と比べても遜色ないと思うのだが……
「まあ……がんばってくれ」
余計なことを言って気味悪がられてもアレなので、そう励ますにとどめた。
「諏訪先生、今彼女いないんだって!」
休日の夕食時。突然、希に鼻息荒くそんなことを言われても。
「……へー、そうなんすか」
北都は棒読みでそう返すことしかできない。諏訪の彼女事情など知ったこっちゃない。
とはいえ、ちょっと意外に思ったのも事実だ。あれだけの逸材を女が放っておくわけがないし、本人は女ギライというわけでもなさそうだ。何か特別な事情でもあるのだろうか。
というか、希の諏訪に関する情報量は舌を巻くものがある。諏訪が二十八歳であることも、実家が北都と同じ市であることも、身長一八二センチ、体重七〇キロであることも、すべて希から聞かされて知ったことだ。
「でも、ケータイの番号聞き出そうとしても、教えてくれないんだよねー」
さすがにそこまでの情報はムリだったと見える。希は箸を持ったまま口を尖らせた。
「北都、ちょっと聞いてきてよ」
北都は危うく肉をのどに詰まらせるところだった。むせて咳き込んだところを、お茶で何とか落ち着かせる。
言えない──実は諏訪のケータイの番号、知ってるなんて。
北都だって、別に知りたくはなかった。
だが、時にふらふらと出かけては所在がつかめなくなる五嶋に、秘書として連絡を取らなければならない必要に駆られて、仕方なく五嶋と電話番号の交換をした際。
『ついでだから、諏訪の番号も登録しとけ』
そう言って、半ばムリヤリ諏訪の番号を登録させられたのだ。その場に諏訪はいなかったが、後日。
『鯨井さんならいいよ。僕も鯨井さんの番号聞いたし』
かくして多くの女子学生がノドから手が出るほど欲しい諏訪のケータイ番号を、北都は不本意なカタチで手に入れたのであった。ありがた迷惑な話である。
しかし、他の女子学生には教えられなくて、自分にはOKというのは一体どういう考えなのだろうか。ついに女だと思われなくなったのかもしれない。
とはいえ、一応は個人情報なので、諏訪の了解なしに他人に教えることはできない。教えられないのなら、知っていることも黙っていたほうがよさそうだ。
コップを置いて人心地ついた北都は、ため息混じりに言った。
「希先輩……あの先生、やめといたほうがいいですよ」
「北都……妬いてるの?」
眉をひそめる希に、北都はなぜか焦ってしまう。
「いやそんなんじゃ」
「……あたしを諏訪先生に取られるんじゃないかって思ってるんでしょ」
「だからそっちのケはありませんから」
北都は真顔で即答した。危なくこの間と同じ手を食らってしまうところだった。
希もこの手の悪い冗談で度々からかってくるから辟易する。
「ありゃ、フェミニストの皮をかぶった、ドS王子ですよ」
こぼすように言ったその言葉には、希だけでなく、近くにいた他の女子学生も目を丸くした。
「そっちの電流計、どう?」
「変わりないかな」
基盤に組まれたトランジスタの回路を前に、北都を含めた四人が頭を突合せて電圧計をいじったり、電流計をのぞきこんだりしている。
ここは電気棟の一階にある第一実験室。北都たち三Eはただいま実験の真っ最中だ。
高専生の重要な授業の一つに【実験】がある。
毎週一回、四コマを使い四、五人が一班となって八つのテーマの実験を行い、終了後はそれをレポートにして提出することになっている。これは電気電子だけではなく、他の科でも同じである。
実験の目的、原理、方法、結果、考察、感想を、実験で取ったデータと共にまとめて、次の実験が始まるまでにレポートとして担当教官に提出するのだが、これが結構骨の折れる作業だったりする。
しかもほぼ毎週のことなので、高専生の日常はレポートに追われる日々と言っても過言ではない。
今日も午後から、北都は同じC班の火狩、甲斐、黒川と共に【トランジスタの静特性試験】というテーマで実験を行っていた。今現在、この第一実験室では四つの班がそれぞれのテーブルに分かれて実験中である。
ここでの担当教官は諏訪。今も白衣の裾を翻しながら、各テーブルを回って学生たちの実験を見守っている。もちろん、レポートも諏訪に提出することになるのだが……
「聞いた? 有野、再提出四回目だってよ」
諏訪が遠く離れた隙に、黒川が声をひそめて言った。
「有野、泣きそうになってたな」
諏訪の動きを注視しながら、北都が答える。
「一回も再提出食らってないの、火狩くらいじゃね?」
「いや……オレも一回食らった」
悟ったような顔で言う火狩に、他の三人は驚いた。
「お前もかよ!」
「諏訪ちゃん、フェミニストのくせにドSだよ……」
黒川の言葉に、C班はそろってため息を吐いた。
ドS王子──それは最近、電気電子工学科の学生の間で、諏訪に与えられた新たな称号だった。
実験レポートの再提出はままある話だ。データの付け忘れや参考資料の記載漏れなど、レポートとして最低限の体裁をなしていない場合、書き直して再度提出を求められるというのは今までにもあったことだ。
だが諏訪はちがった。
実験のレポートを細かくチェックしては、少しでも不備があるとすぐ学生につきかえし、再提出を求めてくる。その細かさがハンパではないのだ。
他の教師なら再提出と言ってもせいぜい一回だが、諏訪に限って言えば無制限。とにかくレポートとして完成させられるまで、延々と再提出を求められる。先述の有野も、そうやってついに四回目の再提出を迎えたのだ。
「お前らがナメた呼び方するから、怒ってんじゃねーの?」
「いや、四年生でも五年生でもあの調子らしいよ。五年生なんか就活や受験勉強しながらアレだからな。発狂寸前だよ」
北都も一実験につき一回は再提出になっている。
諏訪が、付箋が山のように貼られたレポートを差し出して。
『再提出ね』
それをあの朗らかな笑顔で言うのだから、閉口モノである。
しかもそれが細かい字のまちがいや、単位の書き忘れなど、他の教師ならまずまちがいなく見逃してくれていたところも、諏訪は厳格に訂正を要求してくる。
だがそのおかげで学生は実験に真面目に取り組むし、レポートもきっちり仕上げようと努力する。これがあるべき姿なのかもしれないが、目先の不満が諏訪に向かうことはまちがいない。
必要なデータは取り終わり、レポートを書く上で必要なことはだいたいそろった。使った器材の片づけをして、今日の実験は終了だ。
「おつかれー」
北都が追加で器材のメモを取っている間に、他の三人が先に帰っていった。
遅れて北都も実験室を出た。五嶋の部屋に行こうと考えたが、時計を見るとまだ二時半。実験が予定よりも早く終わったので、先に図書館でレポートを書くのに必要な資料を借りることにした。早く借りておかないと、必要なときになかったりして後々困るのである。
専門書の充実した図書館は他に比べて比較的新しい建物で、広く開放的な空間だ。この一角は講義室や音楽室、和室など、普段あまり使わないような施設が集中していることもあって、専門棟とはまた一味ちがう雰囲気だ。図書館の前にはラウンジと自動販売機もあり、ちょっとした憩いの場にもなっている。
北都は図書館の中で一時間ほど、資料集めに没頭した。文句のつけどころのないレポートを書いて、諏訪に目にもの見せてやる。
カウンターで学生証を出し、本を三冊借りた。カード型の学生証にはICチップが入っていて、これが貸出カードの役割も果たしているのだ。
本を抱えて図書館を出ると、ラウンジのソファに座る見慣れた人影に気づいた。
「あれ、甲斐」
さっきまで実験で一緒だった甲斐勤だ。背もたれによしかかり、頭を垂れて何かを考え込んでいるようだ。
小柄な彼は身長一五〇センチほどで、北都とは三〇センチほどの差がある。並ぶと大人と子どもみたいなものだ。どちらかと言えば可愛らしい顔で、おとなしい性格。パッと見は中学生に見える。
北都が近づくと、甲斐はうなだれていた顔を上げた。
「なんだ、鯨井か」
「これから部活?」
「まあね」
甲斐の笑顔にわずかな陰が差す。
彼はこの北陵高専では数少ない文化部の、吹奏楽部の部長だ。吹奏楽部は歴史も古く比較的大所帯なので、それをまとめる部長ともなればいろいろと心配事もあるのだろう。
「定演近いんだっけ。大変だなぁ」
北都としてはねぎらったつもりだったのだが──甲斐は大きなため息を吐くことでそれに答えてきた。
「何……どうしたん?」
思わせぶりな仕草に、ついつい聞かずにはいられない。
「オレ……三年修了退学しようかな」
甲斐の口を突いて出た思いがけないセリフに、北都は耳を疑った。
「ええっ?」
驚いて、甲斐の横に腰掛ける。
「な、何言ってんだよ。お前、成績もいいし、悪いこともしたことないだろ。何の問題があるって言うんだよ」
甲斐は弱弱しく笑うだけだ。
「もしかして……吹奏楽、うまくいってないのか?」
ピンときて北都が聞くと、甲斐は深く深く息を吐いた。肯定の証だ。
「……何なんだろうな。仲が悪いとか下手とかそういうわけじゃないんだけど……」
甲斐は横においてあった黒のハードケースに手を触れた。このサイズから言って、中身はフルートだろうか。
「なんだかうまく行かないことばかりだよ。毎日、思うように行かなくて、ジタバタやってるばかりでさ……オレの毎日、こんなんでいいのかなって思っちゃって。周りに勧められるままにこの学校入ったけど、考えてみたらそんなに工業系が好きってわけでもなかったし。人生やり直すなら、今がその決め時なのかもしれない」
「でも……」
考え直すよう説得しようとして、北都はどうやって説得すればいいのかわからないことに気づいた。
吹奏楽部の雰囲気がどんなものか知らないし、真面目で成績の良い彼が「この学校にあわない」と考えたのなら、それは逃避ではなく、自分の将来を真剣に考えた結果なのかもしれない。
それを北都の言葉ごときでひっくり返せるものだろうか。軽々しく「考え直せ」と言ってもいいものだろうか。
「公務員にでもなろうかな。警察や消防の音楽隊を目指すってのも悪くないかも」
返す言葉を探して黙りこくる北都に気づいたのだろう。彼は急に立ち上がると、取りつくろう笑みを浮かべて見せた。
「鯨井、今の話、みんなには内緒にしといてくれな」
「あ、ああ……」
やっとのことで返事をした北都を残して、彼は立ち去った。
北都は、座ったままその背中を見送ることしかできなかった。
その日の夜、北都は女子寮にいる吹奏楽部員に、部活のことについて聞いてみた。
「甲斐部長……定演の準備に手間取ってるみたいで」
そう答えてくれたのは、二年生の吹奏楽部員二人だった。
「チケットの売り上げもあまりよくないし、何より定演の中身が全然決まってないんですよ。演出とか構成とか」
「チケットの売り上げが悪いのなんて、毎年のことみたいなんですけどね。でも今年は創部五〇周年の記念演奏会だからか、甲斐部長、かなりプレッシャーに感じてるみたいで……」
「部長ももっと周りに頼ってくれればいいのに、自分ひとりで背負い込んじゃって。そういうあたしたちも、自分の演奏のことで手一杯なんですけどね」
北都自身、吹奏楽部の活動についてあまり注目したことがなかった。入学式や卒業式、高専祭で演奏しているところを見たことがある程度で、定演に行ったこともなかったし、地区大会での成績がどれほどのものであるとかは全く知らない。
おそらく、学生の多くが北都と同じような状況だろう。
甲斐は三Eの中でも貴重な良識派で、温厚な人物だ。授業態度も真面目だし、実験でも細かいことに気が回るので、彼に助けられていることも多い。ある意味、北都よりも女性らしい細やかな気遣いのできる男だ。
きっと部活でもその調子なのだろうが、やる気が仕事量に追いついていない感じがする。
三修して警察や消防の音楽隊に……と彼が言ったところからも、吹奏楽をこよなく愛しているのは感じ取れる。愛するがゆえに、思うように吹奏楽部を盛り上げられない、定演を形作れないもどかしさに苦しんでいるのかもしれない。
甲斐を助けてやりたい──そうは思うものの、これは三E内の問題ではなく、吹奏楽部の問題だ。そう簡単に手出しはできないだろう。
どうしたものか……部屋に戻っていく二年生の吹奏楽部員を見送って、北都の頭とおなかがキリキリと痛んだ。