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テーブルでは既に通過した三Mを除く、四人が問題に頭を悩ませていた。
最後に到着した火狩に出された問題は【二重積分】。三年生の後期の範囲で、授業ではまだやっていない。
だがT大を目指して日々研鑽する火狩にとって、そんなものは問題のうちに入らなかった。
鉛筆を手に取ると、ものすごい勢いで紙に数式を羅列していく。
「できました」
圧倒的な速さ。差し出された数学の教授も面食らっている。
「……正解です」
まだ四苦八苦している他の三人を残して、火狩は走り出した。
ここで一挙に三位に躍り出て、火狩は次の黒川にバトンを渡した。
◇
次はコーラ早飲み。
冷えたコーラなら乾いた喉を潤すのに快適……なのだが。
運んできた瞬間は冷たかったのかもしれないが、ここで一時間ほど放置されたコーラは気温とほぼ同じ温度になっている。
ぬるくなって喉越しのあまりよくないコーラを、皆苦しい思いをしながら飲み込んでいく。
何とか全部飲んだかと思ったら、今度は猛烈にこみあげてくるゲップとの戦い。耳障りな音を口から発し、チャプチャプいいそうな腹を抱えて選手たちはコースを走る。
三Eの黒川はここで何とか三位をキープ。次の「ぐるぐるバット」の野々宮へと繋いだ。
ぐるぐるバットは、まずスタート位置で野球のバットをおでこにつけた状態で十回転し、それからトラックを走り出す。三半規管を揺さぶられた選手たちは真っ直ぐに走ることができず、千鳥足になりながら、時に這いつくばりながら前に進もうとする。
一位の三Mは多少ふらついていたが、比較的真っ直ぐに走ることができた。
だが二位の四Mはかなりきてしまったようだ。回り終えて走り出そうとするものの、身体がいうことを利かず、あらぬ方向へといってしまう。
それに対し、われらが三Eの野々宮は違った。
十回回ってもブレない軸。中学までフィギュアスケートをやっていたと言うだけあって、回転にはめっぽう強い。逆に言えばそれだけでこの種目に選んだようなものだ。
「何モンだあいつ!」
観客席からの感嘆の声を受けつつ、野々宮はシャキっとした身体で、まっすぐに走り出した。十回回った後とは思えない全力疾走だ。
フラフラしている四Mを抜き、先を行く三Mを追いかける。
◇
「周防」
第五区間、パン食い競走のスタート位置に立つ北都は、横にいる周防に声をかけた。
「デキすぎなくらいのレースだな」
「ああ。正直、お前らがここまでやるとは思わなかったよ」
周防がニヤリと笑って応える。
三Mと三Eが一位二位でここまで来たことに付け加えて、このパン食い競走で奇しくも級長対決となった。
野々宮は三Mには追いつけないかもしれないが、こちらには最終兵器がある。
「こりゃ、ウチのクラスの優勝は決まったようなもんだな」
強がりもこめて勝ち誇っていうと、周防は鼻で笑った。意外な反応だ。
「ふ……甘いな。諏訪先生をアンカーにしたくらいで、勝ったつもりになるなよ」
まさか……ここまできて三Mに隠し玉があると言うのか?
「ウチの藤代先生は……元陸上部のスプリンターだ」
「なんだとっ」
驚く北都を捨て置くように、周防は先にバトンを受け走り出した。
続けてすぐ野々宮が駆け寄ってくる。その差五メートルほど。
「鯨井!」
野々宮からバトンを受け取って北都は走り出した。
コース中ほどにある、糸でつられたあんぱんに長身を生かして難なく食らいつく。この際、恥も外聞もない。あるのは勝利への執念のみだ。
口いっぱいにあんぱんをほおばりながら、三メートル先を行く周防を全力で追いかける。
第五区間のゴール、最終区間を走る担任教官が待ち構えるその場所まであと少し。
最内に立つ三Mの担任、藤代准教授は四十代ながら見るからに陸上部な、ランニングシャツにランニングパンツ、そして陸上用のスパイクシューズというフル装備だった。さすが優勝候補の筆頭、担任まで気合の入り方が違う。
観客からの声援がひときわ大きくなった。いよいよアンカー、勝負がここまでもつれ込んで、観客の盛り上がりも各クラスの熱狂度合いも最高潮だ。
先に周防が担任にバトンタッチする。さすがにスプリンター、バトンの受け渡しも本格的だ。
「鯨井さん!」
諏訪がこちらに手を伸ばしてきた。北都はこれが精一杯、あとはこの諏訪に託すしかない。
「ほへはいひはふ!(お願いします!)」
あんぱんをくわえている事も忘れて、北都は叫んだ。
その手にしっかりとバトンを打ちつける。力強く握られたのを感じ、手を離すと、諏訪は背を向けて駆け出した。
◇
確かにだいたいのスポーツはこなせるが、それは昔のことだ。諏訪自身、研究者となってからは、積極的に身体を動かすこと自体少なくなった。
それでも東京にいた頃は運動不足を自覚して時々走っていたりもしたが、こっちに来てからは忙しさにかまけて何の運動もしていない。最後にランニングしたのは何ヶ月前だったろうか。
一応準備運動は入念にしたが、さすがにいきなりの全力疾走はきつかった。全身の筋肉がギシギシときしむようだ。
それでも、三Eの学生たちが自分の走りに期待をかけてくれているのがよくわかる。あちこちから声が飛んでくる。
「諏訪先生! 行けーっ!」
「まくれー!」
先を行く三Mの藤代准教授はさすがに早いが、決して追いつけない速さではなかった。元スプリンターとはいえ四十代、基礎的な体力では二十代の自分のほうが勝っているはずだ。
少しずつ、少しずつ、技術の差を、年齢の差、体力の差で詰めていく。
コースの半分に差し掛かって、藤代の背中に手が届くところまで追いついた。
「諏訪先生、もう少し!」
「かんばって!」
息が苦しい。何のために走っているのかさえ忘れてしまいそうだ。
風を切り、前を行く背中に追いすがる。もう少し、もう少し……
ついに──藤代に肩を並べることができた。
「かわせ!」
「差せーっ!」
このカーブを抜ければゴール。ここが踏ん張りどころだ。だが藤代も負けたくない気持ちは一緒、簡単には追い抜かせてくれない。
自分の足が自分のものではないみたいだ。かなり限界に近い。だけどもう少し、もう少しだけ……
ゴールテープが近づく。代わりに、視界の端に映る藤代の姿が徐々に、徐々に小さくなっていく。
ようやくかわせた──か。
「諏訪先生!」
彼女の声が聞こえたその瞬間、身体が軽くなった気がした。
「……おろ?」
◇
北都はくわえていたあんぱんを手に持ち、諏訪の走る姿をただひたすら目で追っていた。少しでも近くで見ようと、トラックの中を移動する。そこに、三Eのほかの出場選手も集まってきて、皆で諏訪に声をかけた。
「まくれー!」
「行け行けー!」
確かに三Mの藤代准教授は四十代としては只者ではない走りだったが、圧倒的な若さで上回る諏訪が着実に藤代を追い詰めていた。
「すごい……追いつきそう」
「これ、ガチで勝てそうな気がしてきた」
「行ける、行けるよ!」
優勝が現実味を帯びてきて、北都は紅潮した顔を火狩と見合わせた。
ついに諏訪が藤代准教授と並んだ。並走したままカーブを曲がり、直線に差し掛かってわずかだが諏訪が前に出たように見えた。
「諏訪先生!」
北都が叫んだ次の瞬間──
「え?」
走っていた諏訪の身体が、突然沈んだ。
「え……え?」
カーブで足がもつれた諏訪が、前のめりに倒れていく。それはまるでスローモーションのように──一瞬、何が起こったのかわからなかった。
「……えええええええええええ」
諏訪が転んだのだと理解して、北都は頭を抱えて悲鳴を上げた。北都だけではない、見ていた三Eの全員が悲壮な顔で叫んでいただろう。
観客からは大きな笑い声が上がっていたが、北都たちにとっては笑い事ではない。
「そこで転ぶか!?」
「運動会のお父さんかよ!」
そうこうしているうちに、先を行った藤代がゴールテープを切った。
「あああ……」
「優勝が……」
結局、諏訪は四位でゴール。
そして優勝は前評判どおりの三Mという、北都たちにとっては全くもっておもしろくない結果となってしまった。
あれだけのタンカを切っておきながら、こんな負け方をしてしまって、周防は笑いが止まらないといった風だった。閉会式で優勝旗を手にし、勝ち誇る周防の顔など見たくない。
「……すーわーせーんーせーいー」
グラウンド横の芝生の上で休んでいた諏訪の元に、北都のおどろおどろしい声と共に三Eの学生たちが集まった。皆に見下ろされて、諏訪は怯えたように顔を引きつらせている。
派手に転んだわりに大きなケガはなかったみたいだが、転んだ際にすりむいたのか、肘に血がにじんでいた。直接文句を言おうとここまで来たが、その痛々しさに気勢をそがれてしまう。
ため息、ひとつ。
「先生のせいで優勝逃しちゃったよ!」
そのため息を吹き飛ばすように、後ろから男どもの非難の声が容赦なく飛んできた。
「せっかくみんなでがんばったのに……賞金もらえないなんて」
「先生があそこで転ばなければ、優勝できてた!」
「何がスポーツ万能だよ」
「希先輩まで独占して!」
「リア充爆発しろ」
男どもは怒りに任せて言いたい放題である。小声でモテない男の僻みまで紛れ込んでいた。
「もうやってらんねーよ」
「いこーぜ」
言うだけ言って満足したのか、男どもは背を向けてぞろぞろと帰りだした。
「お、おい……」
集団の一番後ろに、上田、長居、矢島の三人組がいた。大役から解放されたからか、その顔はさっぱりとして、笑顔になっている。
何よりも北都が驚いたのは、三人がクラスの中にすっかり溶け込んで見えたことだった。三人が作っていた壁がいつの間にかなくなって、ごくごく自然に周囲のクラスメイトたちと話している。一緒になって諏訪の悪口でも言っているのかもしれない。
優勝はできなかったけれど──全くいいことがなかったわけでもなさそうだ。
男どもを追いかけて歩き出していた北都は、ふと足を止めて振り返った。
落ち込んでいる諏訪を少しなぐさめてやるか……と思ったら。
「諏訪先生!」
「やだー、痛かったでしょう」
「今、絆創膏貼ってあげますね」
あっという間に希たち女子学生に取り囲まれて、キズの手当てが始まっていた。彼女たちは用意がいいことで、持ってきた救急箱から消毒液を取り出し、キズを消毒しては丁寧に絆創膏を貼っている。
今なら何となく、男どもの気持ちがわかる気がする。
「けっ」
放って帰ろう──そう思いつつ、出しかけた足を止めた。
もう一度踵を返し、ハーレム状態の諏訪の背後に忍び寄る。
北都は持っていた未開封の水のペットボトルを──そっと置き、静かに立ち去った。女子学生の勢いに怯みながらも、されるがままの諏訪は全くこちらに気づかない。
頭からかけられないだけ、マシだと思え。
それが北都なりの労いだった。
翌日から、三Eにおける諏訪の地位が若干下がったのは言うまでもない。
男どもからの敬称が「先生」から「ちゃん」に変わり、ますます教師より学生に近くなってしまった。それを甘んじて受けるあたり、諏訪も負い目を感じているということなのだろう。
「はあ……五嶋先生のおかげで散々でしたよ」
今日もまた五嶋の部屋で、北都の淹れたコーヒーを飲みながら諏訪がぼやいた。
体育祭も終わり、今日からは北都も通常営業。
賞金を払わずにすんだ五嶋がちょっとうれしそうなのが癪にさわる。
「一万損したしな」
「一万?」
五嶋にコーヒーを差し出しながら、北都は聞き返した。
「なんでもないよ」
なぜ諏訪が慌てて否定するのだろうか。北都にいぶかしむヒマを与えず、諏訪は話題を変えてきた。
「それよりも鯨井さん、昨日はありがとう」
「何のことですか」
「水、置いていってくれたでしょ」
気づいていたか──まったく、抜かりない男だ。やっぱり頭からかけてやればよかったか。朗らかな笑顔に、イヤミの一つも言いたくなる。
「希先輩に手当てしてもらってるところ、おジャマしちゃ悪いかなーって思って。胸押し付けられて、鼻の下伸びてましたから」
「僕は学生をそんな目で見たりしないよ」
諏訪は苦笑いを浮かべるが、北都のイヤミはとどまるところを知らなかった。
「はいはい、わかってますって。あの胸は、あたしでも目が行っちゃいますからねー。独り占めできて、さぞかし気分よかったでしょう」
「鯨井」
ふと五嶋に呼ばれて、北都は振り返った。
「はい?」
「お前……嫉妬してるのか?」
ニヤニヤ、いつもの五嶋の意地の悪い笑み。
北都は言葉の意味を考えて──ゴクリと息を飲み込んだ。
「嫉妬…………誰が、誰に?」
「お前が、諏訪に」
わざわざ指を差して、念を押すように言った五嶋に、北都は大げさなほど声を張った。
「……あほくさ。なんであたしが諏訪先生に嫉妬なんか……」
別に諏訪が誰とイチャつこうが自分には関係ない。嫉妬と言われても、諏訪に対して特別な感情があるわけでもないし……
「お前──諏訪に女子のファン取られて、嫉妬してるんだろ」
「そっち!?」
ダマされた……いや、自分の勝手なカンチガイか。
不意打ちを食らって脱力する北都とは対照的に、五嶋は含み笑いを加速させてきた。
「そっちって? そっちじゃないのって何?」
この人を相手にヘタなことを言えば墓穴を掘るどころか、自分で土をかぶせる事態になってしまう。北都はだんまりを決め込んだ。
と思ったら、今度は諏訪が神妙な面持ちだ。
「そうだったのか……だから鯨井さん怒ってたんだね」
「いや違いますから!」
「ごめんね。鯨井さんがそういう嗜好の人だったって気づかなくて……」
「だからそういう嗜好じゃないから!」
ニヤニヤニヤニヤ──二人揃って、腹の立つ笑みを浮かべている。完全に人がうろたえているのを楽しんでいるカオだ。
北都は怒りに身体を震わせ、狭い教官室の中で吼えた。
「アンタら、人をおちょくるのもいい加減にしろ──ッ!」
体育祭編終了。
もちっとあっさり終わらせたかったんですけど、意外と長くなってしまった……
次章・第4話は「6・7月:吹奏楽部に殴りこみ編」。
クラスメイトを助けるつもりが、いつの間にか吹奏楽部を巻き込んだ大事に!?
次回更新は2月14日頃です。
お読みいただき、ありがとうございました。