プロローグ:会議にて
暗闇の中に、浮かび上がる顔。
額と眉間に深い皺が刻み込まれた厳格な男性の顔だ。眼鏡が目の前の液晶ディスプレイから放たれる光を反射し、眼鏡の奥の冷徹な瞳を隠している。
テーブルに肘をつき顔の前で組んだ手が、ピクリと動いた。
「──由々しき問題だ」
低く、唸る声。
テーブルを取り囲むほかの顔たち──上座に位置する彼よりも幾分若い、十数人の男たちは皆一様にうなずき、口々に嘆き出す。
「一年次で五人、二年次になった今現在でさらに二人が退学・留年している。三年進級時にはあと三人はいなくなりそうな勢いだ」
「これほど早いペースで人数が減る年は今までなかった」
「記念すべき五十期生なのに……素行も成績も、歴代最悪のクラスですよ」
「今の担任はノイローゼ寸前だ」
嘆き節を遮るように、上座の男がディスプレイをパタリと閉めた。再び暗闇が辺りを包む……と思ったら、部屋全体が明るくなった。
安っぽい蛍光灯の明かりに照らされたその部屋は、オフィス用の長机が並ぶ会議室だった。
上座の男、学科主任教授・國村は立ち上がっていた。日が沈んで暗くなっても誰も明かりをつけないので、國村自らつけたのだ。まだ夏だというのに仕立てのいい上質のスーツをしっかりと着ている彼は再度腰掛けると、ぐるりと皆を見渡し、厳しい視線を浴びせた。この視線を受けるだけで震え上がる学生も少なくない。
「来年度、その五十期生を三年次から卒業まで受け持つ新しい担任だが、順番から行けば進藤教授が定年前の最後の仕事として受け持つ予定……だったが」
一人の男に皆の視線が集まる。やつれた風貌の男・進藤教授は、怯えた顔で軽く震えた。まだ五十代半ばだというのに薄い頭髪は真っ白で、年齢以上に老けて見える。
「ご本人から健康上の理由で辞退したいとの申し出があった」
突然の発表だったが、かすかにざわめいた程度で、特段の驚きを見せる者はいなかった。普通のクラスならいざ知らず、今の二年生を卒業まで三年も面倒を見るのは、病弱な進藤教授には土台無理な話だと以前から囁かれていたからだ。
「そこで再度、来年度からの担任を選びたいのだが」
そこまで言うと、誰もが顔を伏せた。
成績が悪いだけならまだしも、素行にも問題大有りのクラスだ。万が一大きな事件でも起こせば、こちらも処分を受けることは間違いない。面倒は御免──その思いは子どもでも大人でも教授でも変わらないのだ。國村はため息をつくと、一人の男を見つめた。
「……いいんだな、五嶋くん」
皆が会議に集中している中、一人つまらなそうに自分の爪をいじって異彩を放っていたその男・五嶋は、斜に構えた椅子を直して、自身に注目する皆に向き直った。無精ひげにテキトーに撫で付けただけのオールバック、よれよれのシャツを着て襟元には年中緩みっぱなしのネクタイ。そんなだらけきった風貌だが、不敵な笑みを浮かべたその顔はどこか油断ならない雰囲気を醸し出している。
「担任の件ですか……ええ、引き受けますよ。ここらへんで皆さんに恩を売っとくのも悪くないでしょう」
「恩を売るとは、君らしいセリフだな」
笑ったのは國村だけだった。他はこのセリフに気色ばんでいたが、声を上げる者はいなかった。面倒ごとを引き受けてくれる彼を外せば、次にお鉢が回ってくるのは自分かもしれないからだ。
「だが三年後のこともある。今の二年生──五十期生はこの学校の将来を左右する、重要な世代なんだぞ?」
「わかってますよ。だからこそでしょ? ここでうまくやれば、この学校での私の発言権も大きくなるというものだ」
五嶋の人を食った発言には、國村も苦笑するのみだ。
「ただし……一つ条件があります」
五嶋の突然の提案に、皆が息を呑んだ。
「担任を持つからには、副担任の人選、そして五十期生のこと──処分も含めて、全て私に一任してもらいたい」
「そんなことできるわけないだろう!」
この無謀な条件に、すぐさま反応したのが副主任の神山教授だった。先ほどから溜まりっぱなしだった五嶋への鬱憤を晴らすかのごとく、立ち上がり怒鳴り声を上げる。
「飲酒に喫煙に暴力、カンニング……処分事由に事欠かない、そんな奴らが山ほどいるクラスなんだぞ。奴らがこの先問題を起こさないはずがない。その処分までも君に任せろというのか!」
「じゃあ神山先生、担任おやりになります?」
五嶋に軽く言われて、神山の神経質そうな顔が途端に青くなった。返す言葉と勢いをなくしてまた座り込んだ神山に代わり、五嶋は続けた。
「まあ皆さんそうおっしゃるとは思いましたけどね。もちろん皆さんのご意見も仰ぎますが、基本的に学生の生殺与奪の権利は私にあるということですよ」
「……独裁者にでもなるつもりか」
神山が悔しさを滲ませてつぶやく。それでも五嶋は鷹揚だ。
「独裁者とはこりゃいい……でもね、あの連中に言うこと聞かせるには、こっちもある程度覚悟決めてかからないと。生半可な覚悟じゃナメられるんですよ」
「覚悟というと……最悪の場合、君がきっちり責任を取るということだな」
國村のじっと見据える視線に、五嶋は静かにうなずいた。
「ま、そういうことになりますね」
会議室に、あきらめにも似た空気が流れ始めた。五嶋の出した条件は確かに無謀だが、ある程度の筋は通っている。何より、全員が嫌がる仕事を自ら進んで引き受けるが故の条件なのだから、少々のことには目をつぶらなければ──そんな空気だ。
ざわめきを押さえるように、國村は再び声を張った。
「では皆さん、五嶋准教授が五十期生の担任ということで……よろしいですか?」
異論を唱えるものはもはや誰もいなかった。
厄介ごとはすんだとばかりにそそくさと会議室を出ていく教授たちを尻目に、國村は五嶋に近寄って声をかけた。
「五嶋くん。前から君に頼んでいた件、大丈夫そうかね」
書類をかき集めながら五嶋は答えた。
「ええ。話はもうつけてあります。後は本人の気持ち次第ですが……まあほぼ決まりでしょうね」
「そうか」
まだ少し心配そうな國村を安心させるように、五嶋は笑みを浮かべた。
「面倒は全て私が引き受けますから、國村先生はどうかご安心して、定年をお迎えください」
國村は来年三月で定年を迎える。懸案事項を全てクリアにしておくことが、彼の最後の仕事だったのだ。だが國村は五嶋の物言いが気に入らなかったのか、わざとらしく顔をしかめた。
「定年になったら、もう学校に来るなといわんばかりだな」
「来るなと言ったところで、非常勤の名誉教授として講師は続けるんでしょ? 私ならさっさと隠居しますけどね」
「君は今既に隠居してるみたいなものじゃないか」
「そりゃそうだ」
五嶋は大げさに笑って見せた。授業する以外の仕事は一体いつやっているのかがわからないくらい、五嶋はズボラでサボリ魔で有名なのだ。
「まあいい。どちらの件も、君に任せると決めたのは私だからな。君に覚悟があるように、私にも覚悟がある。私の退職金をフイにしない程度にがんばってくれよ」
言うだけ言って、國村は背を向けてドアに向かった。こんな自分を信頼してくれる稀有な存在の主任教授に、五嶋は励ましの言葉をかける。
「いざとなったら、私が学校からむしりとって差し上げますよ」
校内の自室に戻ると、五嶋は電話をかけた。
『もしもし?』
「オレだ」
『わかってますよ』
柔らかめの若い男の声。馴染みの深い、聞きなれた声だ。応接用のソファに寝転びながら、五嶋はいきなり本題を切り出した。
「どうだ、決めたか?」
『珍しくせっかちですね。どうかしたんですか』
笑いを含みながら問う声に、五嶋は一つ息を吐いて答える。
「来年、担任を持つことに決まったよ」
『え? 五嶋先生の順番じゃないでしょう?』
「ピンチヒッターってやつだ。九回裏、一打逆転サヨナラって場面でのな。しかも打てなきゃクビときてる」
『……それはなかなか燃える状況ですね』
こちらの冗談にもノリのいい答えを返してくれる。その心地よさが懐かしくて、ついつい頬が緩んでしまう。
五嶋はソファに座りなおすと、真面目な声で言った。
「諏訪、お前には副担任を頼みたい」
相手の男──諏訪は一呼吸置いてから答えた。
『順序が逆でしょう。僕を助教に採用してから言う言葉じゃないですか』
「だからこそできるだけ早く、ちゃんとした返事がほしいんだ。お偉方にタンカ切っちゃったからな。三年後のことも含めてさ」
『いつもの先生なら、僕に迷う暇も与えさせずにムリヤリ引っ張っていきそうなものですが?』
「バーカ、これでもちょっとは遠慮してんだよ」
『先生が遠慮してくれるなんて、うれしいなぁ』
諏訪の朗らかな笑顔が思い出される。
諏訪は五嶋のかつての教え子だ。今は遠く離れたとある大学でポストドクターをしているが、五嶋は彼に母校の助教にならないかと持ちかけていたのだ。
『いいですよ。そちらに行きます』
あっさりと出てきた答えに、五嶋はポンとひざを叩いた。
「よし、決まりだな」
『五嶋先生に頭を下げられるなんて、一生に一度あるかないかのことですからね』
「オレの部下になるからには、じゃんじゃん働いてもらうぞ」
『ひどいなぁ……そういうところは全く変わってませんね』
ひとしきり笑った後、五嶋はふと呟いた。
「……あいつのことはいいのか?」
しばらくの沈黙。これが「遠慮」の最大の理由だと、諏訪もわかっていたのだろう。
『……いいんですよ。いい機会だったんです』
「あいつ、オレを恨んでないか?」
『恨んでなんかいませんよ。これはあくまで僕と彼女の、二人の問題ですから』
「そうか」
五嶋はそれ以上深くは追及しなかった。諏訪がそう言っている以上、自分が無理に割り込むことはない。
「今の二年生もそうだが、お前も三年後に向けての大事な人材だ。頼むぞ」
『僕でお役に立てるなら光栄ですよ』
「こっちで必要な手続きはオレが進めとく。そっちのことは任せたからな。じゃあ」
そう言って五嶋は携帯電話を切った。電話をしまい、代わりにポケットからタバコを取り出す。火をつけようとして、ふと手を止めた。
問題だらけの史上最低のクラス、かつて学生として我が校初の快挙を成し遂げた優秀な副担任、そして【学校一の変人】と評判の自分……これで役者はそろった。あとは舞台の幕開けを待つばかりだ。
彼らが卒業を迎える三年後、自分は果たして敏腕と称えられるか、能無しの独裁者と罵られるか。こんなギャンブルがあるからこそ、人生はおもしろい。
五嶋は一人ほくそ笑み、タバコに火をつけた。