世界の恥、真理
――拝啓 お父様、お母様
この度は先立つ不孝をお許し下さい。
真理はこれ以上の生き恥に耐えられません。
これまでの人生、数え切れない恥をかいて参りました。
誰に見られるとも知れないので、ここには明記しませんが、
今にして思えば一挙一動が恥だったのかもしれません。
こんな私です、いつか二人に迷惑をかけるかもしれません。
ですからそうなる前に、自ら命を断つ事を選びます。
どうか、どうか悲しまないで下さい。
親を悲しませては死してなお、恥をかくことになります。
今までお世話になりました、さようなら。
P.S.
出来れば葬式はしないか、もしくは密葬にしてください。
真理
「誤字も脱字もなし、と……」
念入りに文章を調べると、私は切手の貼られていない質素な封筒にそれをしまった。久しくやっていなかった手書きでの手紙。まさかこんな形で書く事になるとは。後は封筒に書き込みをすれば良い……と言っても、宛先ではない。ただ大きく「遺書」とだけ丁寧に綴る。それをあらかじめ揃えて置いた靴に立てかけて、私は放送で言う所の「白線の外側」に出た。
「確かにこの駅では、白線の内側ってこっちよね……」
昔誰かが冗談で言っていた事を思い出す。ホームが線路で二分されているタイプの駅だったら、白線の内側は間違いなく線路の上だ。今にして思い出すと面白い。友人が言ってくれた時には、どうして意味が理解出来なかったんだろう。お陰で私だけが笑う事が出来ず、仲間はずれになってしまった。これも私の恥。でも、今日でそんな恥だらけの人生ともお別れ。そう感慨に浸っていると、後ろから声を掛けられた。
「君、自殺でもするの?」
なるべく人気のないホームを選んだはずなのだが、一体誰だろう? そう思いながら振り向くと、若い男がこちらを見ていた。眼鏡を掛けた大人しそうな青年だ。だが物怖じした様子はなく、私の現状を見ても随分と落ち着いた様子なのが気になった。
「……違います。少し、前に出すぎただけです」
そう答えて白線の内側に戻ろうとする。私は別に誰かに注目したくて飛び降りるんじゃない。ただ、この恥をかき通しの人生を終わらせたいだけなのだ。だから、必要以上に事を荒立てるまねはしない。適当に誤魔化しておけば、その内彼もいなくなるだろう。
「靴並べて、ご丁寧に遺書まで用意してる人が言っても説得力ないよ」
私の足元に並んだそれを指差しながら、男は朗らかに笑った。なんとも目ざとい事だ、最初から気かなくても分かっているんじゃないか。それなのに声を掛けるという事は、自殺を止めるつもり、という訳か。大した偽善ぶりである。
「私、止めるつもりありませんから」
「あ、やっぱり分かっちゃう?」
「勿論」
これから死のうとしている人間に、それ以外に話すこともないだろう。本当はそれすら話して欲しくないのに、迷惑な話だ。関係のない事に首を突っ込んで、人の予定を引っ掻き回そうとする。
「いや、ね。何があったのかは知らないけど、やっぱり自殺は良くないと思うんだよ。少しで良いからさ、僕の話聞いてくれない?」
「嫌です。何を聞いても私の気持ちは変わりませんから」
「だからこそ別に聞いてくれたって良いじゃない。気が変わらないなら、何を聞いても一緒でしょ? それとも、説得されて気が変わるのは怖い?」
彼の意外な言葉に私は少し沈黙する。まるでここで話を聞かなかったら、私が聞いたら心が揺らいでしまう様ではないか。
「……分かりました。少しの間なら、伺います」
「そ? じゃあ、お言葉に甘えて」
まぁいい、どうせ電車が来るまでまだ少し時間が掛かる。それまでこの男の話を聞いて、その上で電車に飛び込んでこの男の偽善を打ち砕いてやる。
「じゃあまず質問なんだけど、君はなんで死のうと思ったの?」
自信満々に来た割には、随分とありきたりな質問をしてくれる。この手の事に慣れた人間なのかとも思ったが、素人なのだろうか? 内心で少し安心する。
「これ以上恥をかきたくないからです」
「恥? 例えばどんな?」
そう問われた私は過去にかいた恥の中でも最たる物を語った。そう、あれは確か小学五年生の時だったか、クラスで応募した30人31脚の選考に通ってしまった時があった。自分で言うのもなんだが、私のクラスは速かった。順調に決勝まで勝ち進んで、決勝戦では後一歩のところで新記録を打ち出すところだったはずなのだ。それなのに、私はそこで足を絡めてしまった。私一人の所為で、クラス皆の夢を壊してしまったのだ。それが私の人生で一番の恥。
勿論それだけではない。ある時は的はずれなプレゼンを行って、ある時は悪い男に騙されて、あるときは旅行先で引ったくりにあって……振り返れば私の人生は恥ばかりだ。そんな話を語ると、男はあいも変わらずへらへらとしながらこう言ってのけた。
「へぇー……ま、恥の内容なんてどうでも良いんだけどさ」
だったら何故聞いたというのだ。余計な話を延々させられて、また恥が増えたではないか。そんな私の内心など全く意に介さず、男は続ける。
「まぁ、要するに恥をかくのが嫌だから死んだ方がマシだと思ったと。でもさ、だからってその結論に至るのは違うんじゃない?」
「……どういうことですか?」
「つまりさ、死んだら本当に恥をかかないで済むのかって話」
一瞬、私には彼の言っている意味が良く分からなかった。死んだら何もする事が出来ないのだから、少なくともこれ以上恥をかく事だってないだろうに……
「良く死んだら無になる~とか言うけどさ、実際死んだ人がそう言った訳じゃないでしょ? 生きてる人が分からない事に不安になって、勝手に妄想してるだけな訳。確かに何もしないで良い世界が待っているかも知れない。でももしかしたら本当に地獄なんてのもあるかもよ? 地獄でなくても、例えばそこが毎日30人31脚を強要する世界だったらどうする? そうなったら毎日恥のかき通しだよ?」
「っ! そんな世界、ある訳ないじゃないですか!」
男は矢継ぎ早に問いを投げかけてくる。私は咄嗟に、そう返す事しか出来なかった。私の自殺に対する想いは、言ってはなんだが早速歪み始めてきている。まさか、こうも容易く説き伏せられる程度の気持ちでしかなかったとは。自分では決死の覚悟のつもりだったのに……とんだ勘違いだ、恥ずかしい。そう混乱している間にも、彼の言葉は続く。
「絶対ないとは言い切れないでしょ。でも『だったら試して来よう』で済む問題でもないんだよね。死んだ人は戻って来れない訳だから。それが帰る事を禁じられるからなのか、居心地が良くて帰りたくなくなるからかは分からないけどさ。でも、賭けてみるにはあまりに分が悪いんじゃない?」
続く言葉に、私は既に言葉を返す事が出来なくなっていた。声はちゃんと聞こえているはずなのに意味が理解出来ない。既に真っ白になった私の頭では、彼の言葉は無機質は音の羅列にしか聞こえなかった。そんな不愉快な音を止めるべく、思わず大声を出す。
「だったら! どうしろって言うんですか! このまま生きて、生き恥を晒し続けろと!?」
私の声に一瞬男の言葉が止まる。しかし、今度は私の咄嗟に出した問いに対して、彼はすぐに答えを出してきた。
「んー、別に恥なんて気にする事もないんじゃない? ほら、恥はかき捨てとか言うじゃない。君が思ってる程さ、人って他人の事なんて気にしてないと思うよ。むしろ、その自意識過剰さが恥ずかしいって感じ?」
男は右手をこちらに向け、ゆっくりと歩み寄ってきた。何か言おうとも思ったが、何故か「来るな」という一言すらまとまらない。その間にも男は着実にこちらに近づいて来る。
「そんなちっちゃい事でいちいち死のうなんて考えるの、止めようよ。君の命って君が思う以上に貴重だよ?」
「あ……ああ……」
ただ近づいて来るだけ。それだけの行動に、私はこうも心を揺さぶられている。結局、私が死のうと思った気持ちなどその程度の物なのだ、と今更ながら気付く。私は馬鹿だ、こんなちょっとした気持ちで、後戻りの出来ない死を選ぼうとするなんて。生きようと思っても生きられない人に申し訳ない。きっと彼も、そういうつもりなのだろう。そこでやっと彼の言葉に落ち着いて耳を傾ける。
「君みたいにさ、何かの拍子に死にたいと思って、本当にここまで準備出来る人ってなかなか居ないワケ。でも、そういうある種の行動力を持った人を求める人間って言うのは結構居るんだよ、僕みたいにね……まぁ、結局のところ僕が何を言いたいかってさ……」
差し伸べられた手を取ろうとする。しかし、彼の手は私が差し出した手を素通りして……
「……え?」
「どうせ死ぬなら、僕に殺されてよ」
私を、線路へと突き飛ばした。ふと横を見ると、そこには今まさに停車しようとする電車が見える。そこで私はようやく気付いた。彼は一度も私に「生きろ」とは言わなかった事を。やけにゆっくり聞こえる電車の警笛音を聞きながら、私は再び自分の愚かさに嘆いた……。
「よう、お疲れさん」
KEEP OUTと書かれたイエローのテープをくぐり、中年のいかにもベテランといった刑事が現場に入り込む。彼が周囲の鑑識に挨拶をしていると、若手の刑事が駆け寄ってきた。
「先輩、お疲れ様です」
「お疲れさん……仏さんは?」
先輩の問いかけに、若手は「あちらです」と布のかけられた担架を指差した。先輩は担架に近寄ると、布を少しどけて中を覗き込む。しかし10秒もしない内に顔を背け、不快そうな表情を見せた。
「こりゃひでぇ。自殺か?」
「ほぼ間違いありません。何せ手書きの遺書が残されてましたからね」
そう言って若手は床に描かれた白い円にチラリと目をやった。先程までそこにあったのだ、丁寧に並べられた故人の靴と、そこに立てかけられた手書きの遺書が。
「そうか……仏さんも……」
馬鹿な事をしたな、と言いかけて止める。どんな事情があったにしても、既に死んだ人間を侮辱するような真似は許されない。そう先輩が考えていると、若手が小さく呟いた。
「それにしてもこの人、勿体無いことしたな……」
「勿体無い? ああ、まだ若くて未来があるのにって事か?」
若手は首を横に振る。
「なんで自分で死ぬんだろうと思って。世の中には殺人願望を持った人だって沢山居るでしょう? 双方合意の上で人殺しが成り立つ稀有な人間なのに、なんでわざわざ自分で死ぬなんて怖いマネするんでしょ……痛っ!」
「滅多な事考えるんじゃねぇ! そんなつまらねぇ事考える暇があったら、仕事しろ仕事!」
「す、すみません!」
思い切り叩かれた頭を押さえながら鑑識の方に向かって走っていく若手。その後姿を見送った後先輩はつい、遺体に向かって話しかけた。
「親より先に死ぬなんて、恥さらしもいいところだぜ、仏さん」




