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婚約者の浮気を見逃したふりをしたら、彼の家が先に崩れ始めました。「寛容な正妻」をご所望でしたので、破産への寄り道も黙って見守って差し上げます〜)

掲載日:2026/10/07

「セシリア、君は本当に器の大きな女性だ。僕とリーゼロッテの関係を、つまらない嫉妬で騒ぎ立てたりしない。男の些細な寄り道に目くじらを立てず、黙って見守ってくれる寛容さこそ、名門ブラッドレイ伯爵家の正妻にふさわしい資質だよ」


初秋の陽光が差し込むテラスで、婚約者のユリウス・ブラッドレイ伯爵令息は、満足げに微笑んだ。


銀髪は隙なく整い、涼やかなアイスブルーの瞳は自信に満ちている。胸元には、私が今朝、庭師と一緒に剪定して仕立てた深紅のこっくり秋色深紅のバラが揺れていた。


けれど、上着の襟元からは甘ったるいバニラの香りがした。昨夜、彼が「急な公務」と称して会いに行った、新興男爵家の令嬢リーゼロッテの香水だろう。


上着のポケットには、彼女の髪色と同じショッキングピンクのハンカチが覗いている。隠す気もないらしい。


私が何も言わないのを、浮気を認めた証拠だとでも思っているのだ。


――ぱちん。


胸の奥で、細い糸が切れた。


怒りも悲しみも、もう湧いてこなかった。五年間、彼の放蕩と怠慢を埋めるためにすり減らしてきた心は、驚くほど静かだった。


(……ああ。もう、本当にどうでもいいわ)


「お褒めに預かり光栄ですわ、ユリウス様」


私は琥珀色の瞳を上げ、淑女らしい微笑みを浮かべた。ワインレッドのタフタドレスが、秋の光を受けて深く艶めく。


「真に愛し合うお二人なら、些細な寄り道など気になさらないでしょうね。どうぞ、リーゼロッテ様とのお時間をお楽しみくださいませ。わたくし、決してお邪魔はいたしません」


「ああ、君なら分かってくれると思っていたよ。午後は彼女と観劇だから、失礼する」


ユリウスは紅茶を飲み干し、軽い足取りで去っていった。


生け垣の金木犀が、風に揺れて香りを放つ。私は冷めかけた紅茶を見つめ、それから手帳を閉じた。


「見逃して差し上げましたわよ、ユリウス様。……あなたの家が崩れていくのを、止めずに見届けることにいたしました」


私はセシリア・ローウェル。王家の財務監査や実務を担うローウェル侯爵家の長女だ。


ブラッドレイ伯爵家は、かつての栄光にしがみつく没落貴族だった。先代の浪費と現当主の投機失敗が重なり、五年前には、領地も屋敷も差し押さえ寸前まで追い込まれていた。


その窮地を救うため、王立中央銀行は伯爵家に金貨三万枚を融資した。ローウェル侯爵家は、その連帯保証人となった。契約には、五年以内に財政再建を進め、保証を更新する条件が定められていた。


そして再建実務の大半は、婚約者である私に押しつけられた。


「将来の伯爵夫人としての修行」と称され、私は無給で帳簿を洗い直し、商人たちに返済猶予を頼み、利率の引き下げを交渉した。水利権の更新、税の減免申請、鉱山の資材確保、使用人の給与計算まで、家の運営に必要な仕事を片端から引き受けた。


それでもブラッドレイ家の人々は、私の働きを当然のように受け取っていた。彼らは、自分たちが優雅な暮らしを続けられるのは「家柄とユリウスの才覚のおかげ」だと信じていたのだ。


再建期限まで残り二か月となった今年、ユリウスはリーゼロッテとの浮気に夢中になった。


彼女は、伯爵家が財産に困っているとは知らず、裕福な令息だと信じて彼に近づいた。ユリウスは見栄を張るため、再建用の運転資金から金貨三千枚を勝手に引き出し、宝石やドレスを買い与えていた。


私がそれに気づかないはずはなかった。


けれど、私は彼を問い詰めなかった。


婚約契約には、ユリウスが公金を私的に流用するなど重大な背信行為をした場合、ローウェル家が保証を解除できる条項がある。保証が更新されなければ、中央銀行は契約に従って融資の一括返済を求められる。


私は、その条項を行使するための証拠を揃えていたのだ。


「ギルバート、準備は整ったかしら?」


自室に戻った私は、筆頭執事を呼んだ。


「はい、お嬢様。ユリウス様が公金口座から流用した金貨三千枚の記録と、リーゼロッテ男爵令嬢への贈答品の領収書をすべて確保しました。契約違反を示す書類も揃っております」


「ありがとう。保証更新の期限は今月末。もう猶予はないわね」


「その通りでございます。銀行へ提出する再建報告書も、更新保証書も、ブラッドレイ家からはまだ届いておりません」


「こちらから保証を更新するつもりもありません。私の資産管理責任者としての登録を解除し、証拠とともに保証解除の通知を出してください。婚約の解消手続きも、父に進めてもらいます」


「かしこまりました」


ブラッドレイ家の融資残高は、今も金貨三万枚。横領された三千枚も、その借入金から使い込まれた資金の一部だ。


ローウェル家が保証を更新しなければ、返済の責任はブラッドレイ家自身に戻る。彼らには、期限までに銀行へ提出する書類も、返済の計画もなかった。


「風を吹かせる必要はないわ。支えを外せば、あとは自分たちの重みで崩れるだけよ」


その後、ブラッドレイ家の綻びは次々と表に出た。


私が支払いの管理をやめると、食材商やワイン商への未払いが発覚した。伯爵夫人は夜会を開こうとしたが、業者に取引を断られ、初めて家計の窮状を思い知った。


領地の鉱山では、鉱夫たちが仕事を止めた。毎年、私が手配していた越冬用の燃料や安全資材が届かず、彼らは危険な現場で働き続けることを拒んだのだ。


そして月末、保証更新の期限が過ぎた。


中央銀行から届いたのは、保証の失効と融資全額の返済を求める通知だった。支払期限は翌月末。返済がなければ、担保である伯爵邸と領地の鉱山を差し押さえると記されていた。


伯爵夫妻はユリウスを問い詰めたが、彼はまだ事の重大さを理解していなかった。


「父上、心配いりませんよ。セシリアが少しすねているだけです。王宮の園遊会で優しく声をかけてやれば、すぐに機嫌を直して、銀行への口利きもしてくれます」


その言葉を聞いた伯爵は、怒る気力も失ったという。


そして迎えた、秋の王宮園遊会。


王立庭園では紅葉が色づき、金木犀の香りが涼風に運ばれていた。招かれた貴族たちが談笑するなか、ブラッドレイ一家の表情は硬かった。


伯爵夫妻の礼服には古びた皺が目立つ。ユリウスは疲れを隠すようにシャンパンを傾け、その隣でリーゼロッテが派手なピンクのドレスを気まずそうに引っ張っていた。


私は父を伴い、彼らの前へ進み出た。深いミッドナイトブルーのドレスに、サファイアのブローチが静かに輝いている。


「セシリア!」


私を見るなり、ユリウスが駆け寄ってきた。


「銀行から融資の即時返済を求められたんだ! 鉱山も差し押さえられるらしい。君が保証の更新を止めたんだろう? 早く銀行へ行って、取り消してくれ!」


周囲の会話が途切れ、貴族たちの視線が集まった。


私は小首を傾げた。


「あら。保証の解除も融資の返済請求も、契約に定められた手続きですわ。ユリウス様の望みどおり、わたくしはブラッドレイ家のことに口を出すのをやめただけです」


「僕が家を破滅させてくれと頼んだわけじゃない!」


「いいえ。ひと月前、あなたは仰いました。『男の些細な寄り道に目くじらを立てず、黙って見守る寛容さこそ、正妻にふさわしい』と」


ユリウスの顔から血の気が引いていく。


「ですから、リーゼロッテ様とのお付き合いを邪魔しないよう、ブラッドレイ家の財政管理からも手を引きましたの。婚約者の実家の資金で浮気相手に贈り物をする殿方を、これ以上支えるのはお節介でしょう?」


「なっ……! あれはただの火遊びだ! 妻にするのは君だけだと――」


「あら、ご自分のお金でなさるなら、誰も文句は申しませんわ。ですが、金貨三千枚を公金から流用した記録は、すでに中央銀行と王宮司法局へ提出しております」


私は書類の写しを彼に見せた。


「婚約契約第十二条。重大な背信行為、または公金の私的流用があった場合、ローウェル家は保証を解除できる。更新期限は昨日でした。銀行が返済を求めたのは、契約どおりのことです」


「昨日……!? でも、期限は来月末だろう!」


「返済期限が来月末です。保証の更新期限は、昨日でしたの」


ユリウスは言葉を失った。


その隣で、リーゼロッテが彼の腕を振りほどいた。


「嘘でしょう、ユリウス様! あなたは伯爵家の財産で、私を何不自由なく暮らさせてくれると言ったじゃない!」


「お前が宝石やドレスをねだったんだろう!」


「勝手に買い与えたのはあなたでしょう! 借金まみれだなんて聞いていないわ!」


二人の言い争いが園遊会に響き、周囲には冷ややかな視線が広がった。


「婚約者の家に支えられて浮気か」

「名門の看板も、実態は借金だったとは」


囁き声が、二人を取り囲むように広がっていく。


父が一歩前へ出た。


「ブラッドレイ伯爵。王宮司法局に提出した婚約解消の申し立ては、すでに受理された。中央銀行から求められている融資残高、金貨三万枚については、契約に従い来月末までに返済していただきたい」


「金貨三万枚……。そんな金、今の我が家にはありません!」


伯爵は顔を青ざめさせた。


「それは、五年間の猶予をどう使ったかによるでしょう。こちらの娘は、再建のためにできることをすべてしてきた。その努力を踏みにじったのは、そちらです」


父は私に向き直った。


「行こう、セシリア」


「はい、お父様」


ユリウスが縋るように手を伸ばし、私のドレスの裾を掴もうとした。


「セシリア、悪かった! 僕が愚かだった! 愛しているのは君だけだ。リーゼロッテとは別れる! 頼む、もう一度だけ帳簿を見てくれ。銀行にも口を利いてくれ。君がいないと、僕は……僕の家は終わってしまう!」


私はその手を見下ろした。


「浮気を見逃してほしいと仰ったのは、あなたですわ。ですから、あなたの家の崩壊も見逃して差し上げます。ご自分で蒔いた種の行く末を、どうぞ最後までご覧になって」


完璧なカーテシーを残し、私は父とともにその場を離れた。


背後で響く叫び声は、秋風に遠ざかっていった。


その後、中央銀行は契約に従って伯爵邸と領地を差し押さえ、競売にかけた。売却金は融資の返済に充てられたが、鉱山の操業停止とユリウスの横領で失われた資金は戻らなかった。


爵位を返上したブラッドレイ一家は、領地を離れて暮らすことになった。公金の流用について有罪となったユリウスには、賠償命令と鉱山での刑務労働が科されたという。


リーゼロッテの生家も、贈答品の隠匿に関わったことが明らかになり、賠償金を課された。社交界での信用を失い、彼女が望んだ華やかな暮らしは遠ざかっていった。


深く澄んだ晩秋の朝。


ローウェル侯爵邸のバルコニーでは、金木犀が最後の香りを残していた。庭のあぜ道には、朝露をまとったヒガンバナが凛と咲いている。


「お嬢様、秋摘みのダージリンと、焼きたての洋梨と林檎のタルトをお持ちしました」


ギルバートが銀のトレイを置いた。


「ありがとう。とてもいい香りね」


「王立中央銀行の総裁より、顧問就任の打診が届いております。お返事はいかがいたしましょう」


「前向きに検討するわ。これからは、他人の尻拭いではなく、自分の仕事として力を尽くしたいもの」


私は紅茶を一口含んだ。上品な渋みが、温かな甘みとともに広がる。


もう、誰かの顔色をうかがって眠れない夜はない。誰かの嘘や裏切りを、「寛容」という布で覆い隠す必要もない。


空は高く、青く澄み渡っていた。


私は自分のために始まる人生を思い、静かに微笑んだ。



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