水深40センチ
娘が一匹の魚を連れ帰ってきた。それは、メダカのような、金魚のような、ごく普通の不気味さを纏っていた。僕が「これは何?」と聞いても「落ちてたから持ってきた」としか教えてくれなかった。言われるがまま不相応に大きい水槽を用意し、それを飼うことにした。
娘は暇があれば水槽を眺めている。何がいるでもない、ただ魚が一匹いるだけの箱を穴があくほどに。自分で連れ帰ったのだ。愛着が湧かないはずがない。僕は水槽に背を向け、新聞を読んだ。
少し甘い匂いがした。娘がパンケーキでも焼いているのだろうとキッチンを覗くも、そこに娘の姿はない。思い出したように水槽の方へ目を向けた。そこには確かに娘の姿がある。さて、今日はどの豆を淹れようか。
なんだか香ばしい匂いがする。僕が豆を挽いているのは間違いないが、とてもそれだけではない。思考の靄が晴れたかのように、水槽に振り返る。しかし、いつも通り娘がいるだけ。何もなかった。そう、何もなかったのだ。
今日はやけに鼻が効かない。風邪でも引いたのだろうか?薬を飲んで横になった。なんだか水の滴る音が聞こえる気がする。そういえば娘も出かけるとか言っていたな。自分でなんとかするしかないな。
不気味な部屋には日常が詰まっている。ソファにコーヒーミルに水槽に。男はソファで寝ている。必死に何かを訴えかける魚が水槽をコツリコツリと叩く。日常に相応しくない音はやがて世界に飲まれていく。娘は水槽を見て笑った。
「ありがとう」




