You will kiss me
今日の朝、私とあなたは些細な口論をしていました。今度の公園清掃にどちらが行くかという話。あなたは「僕が行く」と言って、私はそれが我慢なりませんでした。あなたはいつも私の時間を作ろうとするけれど、私はあなたにこそ、自分の時間を過ごしてほしかった。だから、今朝、少しあなたと言い争ってしまいました。
今となってはどうでもいい話です。本当の本当に。
私は仕事に行くあなたを玄関で見送りました。口論はしたけれど、ちゃんと「いってらっしゃい」と言って、お互い笑顔で別れました。
それがあなたとの永い約束だったからです。
あなたはいつも通り、会社へ向かったでしょう。最寄りから電車に乗り、三駅先で降り、会社まで歩いた。
その道中でした。
横断歩道を通行中のあなたに、整備不良の自家用車が猛スピードで突っ込んだ。
周囲はすぐに騒ぎになり、誰かがあなたに救急車を呼んでくれました。そして、あなたは街で一番大きな病院に搬送されました。しかし、内臓を複数破裂させたあなたを救う術はどうも、無いようなのです。
私は、あなたがもうすぐ亡くなるのを知っています。私とあなたの未来が、到頭、私たちに追いついてきた。
連絡を受けた私は、待合の椅子に座っています。あなたは集中治療室にいて、姿は見えません。私の左脚が痛んでいます。太腿と義足の付け根が、とても痛い。こんなことは久し振りです。こんな痛みはきっと、あの日以来ではありませんか。
幼い頃、事故で左脚を失った時、両親は大変に嘆き悲しみましたが、私にはそういうことだったのかという軽い納得があっただけでした。
いつからか、私が視る未来では、私の左脚はレース柄があしらわれたメタリックなものに変わっていたからです。
私は私の脚が失われ、新しい脚で生きていくようになると、前から知っていました。物心ついた時から、私には未来が視えます。ごく断片的で、コントロールもできませんが、時折未来を垣間見るのです。必ず来る未来を。
私が大きくなり、成長が止まってから、父が「君の気に入る義足を作ろう」と言いました。それまでは身長が伸びるので、頻繁に義足を作り替えていましたが、これから作るものであれば数年は使えるはずでした。私は父に、未来の私が付けていた義足のデザインを告げました。告げられたのは、デザインだけですが。
父と私は、数日パソコンの前でああでもないこうでもないと言って、最終的にカナダの義足カバーブランドALLELES Design Studioを見つけました。どうも、アレルスの義足カバーを付けると、私が視た義足のデザインとそっくりになるようなのです。
義足ではなくカバーを購入するとは思っていませんでしたが、パソコンの画面に表示されたその白いレース柄のメタリックなカバーを改めて見て、私はとても気に入りました。カナダからの送料も含め、やや値が張りましたが、父は買ってくれました。今思えば、きっと父は、私に何かしてやりたかったのだと思います。
大学生になって、家を出ました。借りたのは、大学の近くに立つ築三十年のアパート。あまり広くはない部屋でしたが、私はベッドの脇に全身が映る大きな鏡を一つ置いていました。鏡の前に立つと、私の姿が映ります。頭の先から、もちろん左脚の義足まで。
私はその鏡の前に立って、毎日真剣にコーディネートしました。おしゃれが好きなんです。今も昔も。
いつもコーデのアクセントになっていたのは義足カバーで、私はそのレース柄のカバーに合うよう、服を選んでいました。カバーのデザインによって、コーデの選択肢が狭まりはしますが、気になりませんでした。だって、これが私だから。
その日、たしか私は、膝上丈でペイルピンクのフレアスカートを選びました。私の義足とよく合っていて、なかなかイカした甘辛コーデだと思ったのです。
しかし、その格好で大学に出掛けて教室を移動していても、誰も私の格好には言及しませんでした。みんな、私の義足が目に入ると、何か見てはいけないものを見たかのように目を逸らしました。
私は不満でした。別に、みんなが何を考えているかは分かります。義足になって長いですから。でも、私はもう、私の義足と一緒に生きているんです。私の義足から想像される、私の失われた脚ではなくて。せっかく私服で学校に通えるようになったのに、この義足を隠さなければならないとしたら、悲しいと思っていました。
「それ、アレルスの義足カバーですか? 格好いいなあ。初めて見ました」
授業前に講義室で席を探していた時、あなたはそう声を掛けてきました。あなたは、穏やかそうな男子学生で、ちょっと大人っぽく見えました。
私が急な褒め言葉に咄嗟に反応できないでいると、あなたは勘違いをして顔を赤くしました。
「すみません、初対面なのに。不躾でした」
私はそこでやっと笑って、「ありがとう」と言ってから、二列向こうの空席に滑り込みました。もっとあなたと話したかったけど、もう教授が入って来てきましたから。私はニコニコするのを我慢しながら授業を受けました。
その次の週から、私は授業前にあなたの姿を探すようになりました。あなたも、私を探してくれていたみたいですね。やがて一緒に授業を受けるようになり、授業終わりにちょっと座って話すようになりました。
「なんでアレルスを知っていたの? 普通の人は知らないと思うんだけど」
「その、義足とか義手とかが好きで……」
私が続きを促すと、あなたは少し言いづらそうにこう言いました。
「見てると勇気が貰えるんだ。何かあっても、それでも前に進めるんだって。……傲慢だよね。勝手にそういう物語を見出して」
私は少し考えてから、首を横に振りました。あなたは、私よりも二学年上でした。しかし、一学年の私と同じ授業を取っていたのです。そして、いつぞや何かの拍子に見えたあなたのカバンの中には、何種類もの薬の束が見えました。あなたはその頃、私に自分の病気の話はしませんでしたが、あなたなりにこれまでの人生があった上で、義足が好きなんだと、当時の私にも分かりました。
私とあなたは、授業の前後以外の時間にも会うようになりました。
ある日のことです。大学から帰ろうとした時に、私は未来を視ました。雨の中、びしょびしょに濡れた洗濯物を取り込む未来でした。不思議でした。空を見上げてもまだ雨の兆候はありません。夕方から降ると予報がありましたが、その時はまだ昼でした。すぐ帰れば問題ないはずなのです。
そこにあなたが通りかかって、声を掛けてきました。あなたも授業終わりで、もしよかったらこれからお茶しないかという話でした。
私は笑って頷きながら得心しました。きっと、私はあなたとのお茶が楽しくて楽しくて、洗濯物がびしょ濡れになる未来が視えていながら、いつまでも家に帰らないのだと。
あなたと私は仲良くなっていきました。いつしか交際を意識するようになり、それはきっと相手もそうだろうという確信がありました。
私はあなたとの未来をいくつも垣間見ました。あなたと桜の下を歩き、アイスを舐め、映画を観に行く未来を。私は未来を視るのが楽しくなりました。もっとあなたとの未来を視たいと願いました。
そして、あなたとキスをする未来を視ました。私は驚き、そして喜んだのですが、その視た未来をよくよく考えてみると、色々とおかしい気がするのです。その未来で、私たちは殺風景な大学のベンチに座って、辺りには雪が降っていました。そして、私は泣いていました。
あなたとのキスをするのが、なぜそんな寂しい場なのか。そして、なぜ私が泣いているのか。何も分かりません。未来は断片的です。しかし、その未来が必ず来ることだけは分かります。
私はかえって何も分からない心地になって、下宿のフローリングに立ち尽くしました。
その年は、クリスマスイブにも授業がありました。あなたとは別の授業を取っていましたが、お互い五限は埋まっていました。
あなたは、五限の授業が始まる前に、私に「今日の夜空いていますか。よかったら、晩ごはんでも食べに行きませんか」とやけに硬い口調で言いました。私はそんなあなたの様子を見て少し笑ってしまって、そしてもちろんOKを出しました。あなたがどういう心積もりなのかくらい、私にも分かりました。
あなたと別れて、五限の授業を受けましたが、集中できたものではありませんでした。教授の声は遠く、私はこの後のことをあれこれと考えていました。
その最中に視ました。
その未来で、私はあなたが搬送されたという電話を受け、急いで病院に駆けつけました。そして、事故の内容とあなたの容態について説明を受け、待合の椅子に座って、あなたの処置が終わってしまうのを、ただじっと待っていました。やがて待合の人気もなくなった頃、医師が私のもとにやって来て、あなたの死を告げるのです。
私は思わず吐きそうになりました。なんとかその場をこらえましたが、どうしても気持ち悪く、身体が震えて耐え切れなくなり、荷物を持って教室を出ました。そして、トイレに駆け込み、思い切り吐いたあたりから、義足の付け根に強い痛みを感じました。
私は全く時間感覚をなくしていましたが、相当な時間が経ったのでしょう。雪の中、外のベンチで呆然としている私を、あなたが見つけました。
あなたはきっと探し回っただろうに、私を咎めず、心配そうに私の隣に座り、訳を聞いてきました。
私は、あなたの顔を見て、また泣き出してしまいました。そして、あなたの穏やかな声に誘われて、ずっと黙っていたことをあなたに告げたのです。信じてもらえないかもしれないけど、と。
私には未来が視えること。
あなたとの未来も沢山視てきたこと。
視た未来は必ず来ること。
近い将来にあなたは事故に遭うこと。
私はあなたの元に駆けつけるが、病院の待合でただ座っていることしかできないこと。
そして、あなたが亡くなること。
あなたは、私の話をただ黙って聞いていました。私が話し終えると、しばらく沈黙が降りました。いくつの雪が、私とあなたに降り積もり、そして消えていったでしょうか。あなたが口を開きました。
「未来は変えられないんだね」
私は泣きながら頷きました。
「あなたと僕は一緒に暮らしていたんだね?」
私はまた頷きました。
「そう」
あなたはほんの少しだけ笑ったようでした。そして、私の手に、あなたの手を重ねました。私の名前を呼んで、ねえ、だとしたらと言います。
「だとしたら、僕はあなたが一人になってからでも、少しでも幸せに過ごしてくれるように、これからあなたと生きようと思う。だから、一つ約束しよう。毎日別れる時は、どんなに喧嘩していても、お互い後悔のないように別れるって。それだけを僕たちの約束にしよう」
私は泣き続けていて、あなたの言葉に応えられませんでした。あなたはきっと困ったような顔をして、私の涙を指先で拭いました。
「あーあ、予定が狂った。本当は、ご飯を食べた後、もっと雰囲気の良い所で伝えようと思ったのに」
あなたは私が顔を上げるのを待っているようでした。辛抱強く、いつまでも。そして、私が顔を上げると、優しい顔で私を真直ぐ見ていました。
「僕はあなたが好きだよ。あなたさえよかったら、一緒にいよう」
それに、また私が泣きだして、あなたは仕方がないなあという顔で、傍らにあったあなたのカバンに手を置きながら、私の左脚を指差しました。
「僕らにならできるよ。僕らはそうやって生きてきたじゃない」
そして、あなたは「目を瞑って」と言い、私がぎゅっと目を瞑ると、「力入れすぎだよ」と笑いながら私にキスをしました。
病院の待合も段々人が少なくなってきました。私はただその時を待つことしかできません。私の義足の付け根は今も痛み続けています。
私はあの日からも、未来を断片的に視ていました。だから、この先どうなるかも少しだけ知っています。
これから長い悲しみの時が始まります。私の左脚は痛み続けるでしょう。そして、ほとんど経験したことのなかった幻肢痛すら覚えるようになります。永い痛みの期間、私の痛覚が反応するたびに、私はあなたのことを考えます。未来も痛みに満ちている。
しかし、ある時自然と、私は過去を見ることを覚えるのです。あなたと一緒に生きてきた記憶を。そして、あなたの記憶とともに再び歩きはじめます。左脚の痛みは生涯続くでしょう。しかし、それが耐えきれない痛みにはならないよう、あなたはずっと私と一緒にいてくれるのです。
角の向こうから、医師が歩いてきました。私を探しているようです。私は義足の付け根を手でなぞり、立ち上がりました。