The Cat Walks Alone
#The Cat Walks Alone
人間の内臓は、不味かった。
腐った脂と鉄のにおい。
舌の奥にこびりついて、三日経っても消えない。
それでも食べた。
腹を満たさなきゃ、足は動かない。
俺は、今日も歩く。
――瓦礫を踏み越え、骨を蹴り、
崩れかけた軒下を抜ける。
風に混じった腐臭だけが、この街の空気を支配していた。
たまに、動くやつもいる。
皮膚の剥げた顔で空を仰ぎ、
まるで何かを思い出そうとしているような――
けれど、俺に気づくやつは、いない。
ほとんど。
どうやらもう、まともな人間は、どこにも残っていないらしい。
何があったのかは、知らない。
ただ、ある日気づいたら、
“人間”という生き物は消えていて、
代わりに、あの異形たちが街を埋め尽くしていた。
もう、餌はもらえない。
甘い声で、名を呼ばれることもない。
それでも俺は、今日も歩く。
――足音が、聞こえた。
引きずるような、濁ったリズム。
距離は近い。
けれど、向こうは気づいていない。
やつらは、目で追ってない。
匂いと音で、なんとなく動いているだけだ。
俺が息をひそめれば、すれ違える。
肉の裂けた足が、ゆっくりと瓦礫を踏む。
すれ違いざま、やつの腐った目と、一瞬だけ視線が合った。
……何も、なかった。
それだけの、ただの一日だ。
――次に見かけたやつは、もっと静かだった。
腐りかけた子供の死体。
座り込んだまま動かない。
頭が垂れ、腕がだらりと落ちていて、
風が吹いても、指先ひとつ、動かなかった。
最初、ただの死骸かと思った。
けど通り過ぎるとき、足音がした。
ひとつ。だけ。
俺は、振り返らなかった。
二度目に出会ったのは、それから三日後だった。
同じ場所。
同じ姿勢。
けれど、今度は確かに――立ち上がっていた。
襲ってくる気配はない。
見ているのか、見ていないのか、わからない目で、
俺のほうを向いていた。
俺は、通り過ぎた。
足音が、またひとつ。
今度も、背中で聞いた。
――その日の夜は、雨が降った。
軒下に入って、身体を丸める。
その時、ふと、鼻の奥に――嗅ぎ覚えのある匂いが、した。
…気がした。
ミルクの甘い香りと、洗い立ての布の匂い。
小さな手が、俺の背を撫でたときの空気。
壊れかけのアパート。
二階の部屋の奥、落ちたぬいぐるみのそばに、
ひびの入った水入れと、空の皿が転がっていた。
俺は、そっと鼻を近づけた。
……何の匂いもしなかった。
でも、たぶん。
ここだったんだと思う。
あいつがいた家。
名前を呼ばれて、頭を撫でられて、
「ただいま」って声がしていた、部屋。
今はもう、何も言わない。
名前――
……俺の、あれは、なんだったか。
足元で、瓦礫が崩れる音がした。
背後に、子供が立っていた。
また、ついてきたらしい。
少しだけ、待ってやる。
それだけのことだ。
――それは、四度目に会った日だった。
いつものように、ついてきた子供。
けれどその日は、違った。
俺が屋根の上に飛びのった時、
足場の低い壁の前で、
子供が、小さな声を漏らした。
「……、ァ……、ッ、ぁ、ァ゛」
音にならない。
でも、耳の奥に、張りつく。
濡れた舌が、空気をなぞるような音。
呼気と腐臭のまざった、気味の悪い音。
けれど。
その一音一音は、どこか――
俺を、呼んでるようだった。
呼び方なんて、忘れてるはずだ。
名前も、声も、言葉も。
なのに。
たった今、
たしかに、俺に向かって届いた声があった。
俺は、屋根の上から、一度だけ、振り返った。
目は、合わなかった。
――次の日も、その次の日も、
子供は、ついてきた。
歩くでもなく、走るでもなく。
一歩ずつ、こちらの足跡をなぞるように。
俺が止まれば、止まる。
俺が曲がれば、曲がる。
襲っては、こない。
腕も脚も細くなり、
顔の皮は、半分落ちかけている。
それでも、俺を見ている、気がした。
……気まぐれだった。
たまたま、食い物を見つけた日、
ひとかけ、子供の足元に置いてみた。
子供は、黙ってしゃがみこんで、
ただ、だらりとした口から液体が漏れる。
それだけだ。
俺が、黙ってそれを食べた。
また、歩き出す。
子供の足音が、ひとつ。
それも、あとを追ってきた。
――あれは、空が赤かった日のことだった。
子供は、いつも通り、三歩うしろを歩いていた。
けれど――腐臭が、変わった。
曲がり角の先に、何かがいた。
肉がまだ厚く残っている。
瞳孔が、僅かに収縮している。
そいつは、子供を見た。
俺は、跳んだ。
腕に噛みつかれた。
骨まで届く痛み。
けれど、爪で目を引っ掻き、飛び退いた。
子供は、動かなかった。
……腕から何かが流れる感覚が、あった。
一瞬だけ、目が合った。
子供の、ただ空ろなはずのその目に、
かすかな色が灯っていた気がした。
俺は、そいつを引きずって路地に突っ込ませる。
子供は――
逃げなかったが、それ以上、近づいてもこなかった。
風が通る。
腕が、鈍く痛む。
俺は、また歩き出す。
足音が、またひとつ。
いつもより、すこし、距離があいていた。
――その日の午後。
歩く足音が、とつぜん途切れた。
振り返ると、子供はしゃがみこんでいた。
肩が落ち、背中が少し傾いている。
腰のあたりから、
ぼてっ、と音を立てて、何かが地面に落ちた。
腸の、一部だった。
まだ、粘膜がわずかに光を反射している。
……俺は、腹が減っていた。
これだけ歩き続けていれば、当然のことだ。
だから――
これは、もらってもいいだろ。
俺は、それを咥えた。
噛んだ瞬間、
腐った脂と鉄のにおいが、
また、舌の奥にまとわりついた。
――不味かった。
たぶん、それで良かったのだと思う。
腕の傷が、ズキズキと、叫んでいた。
――そして、その時は、静かにやってきた。
崩れかけた壁の下、
子供は、仰向けに倒れていた。
腹が裂け、内臓は乾きかけている。
指はちぎれ、片目は潰れ、
それでも――どこか、笑っているような顔だった。
埋めてやることはできない。
手を合わせることも、
名前を呼んでやることも。
けれど、これでいいと思った。
俺は、猫だ。
ただ、傍にいてくれた。
それだけで、もう、十分だった。
……風が吹く。
鼻先を、腐った血の匂いがかすめる。
傷が疼き、足元が、わずかに揺れた。
きっと、俺も――
でも、まだ、生きてる。
アイツらみたいに、空っぽじゃない。
じゃなきゃ、こんなふうに、
何かが胸の奥で、暴れるわけがない。
また、風が吹いた。
腐臭といっしょに、何かが遠ざかっていく。
今日も、
俺は、ひとりで、歩く。
青空だけが、今日も、
何も知らない顔で、広がっていた。