大蛇の君の初恋は、忌み子として虐げられていた少女でした。
蛇が倒れていた。
ちいさな、ちいさな、しろい蛇だった。
森のそば。昨夜の雷雨でぬかるんだ地面で、蛇はぐったりしている。
行き倒れてしまったのだろうか。
最近、ますます水害が多いから……その犠牲になってしまったのかもしれない。
蛇は、忌み嫌われている存在。
けっして、ふれてはならない存在。
穢れが移ってしまうから。
まもり神さまが、そのように教えてくださった。
村人たちだったら――そう、たとえば私の妹なんかは絶対に、蛇にはさわらないだろう。
それどころか。不吉だと言い、いますぐ焼き捨ててしまうのではないか。
でも私は、その蛇を見捨てることができなかった。
きっとこのまま死にゆくいのち。
奇妙な考えかもしれないけれど。
この蛇は、私とおなじだと思った。
みんなから忌み嫌われ、穢れが移るからふれてはならないと言われ、不吉だと言われる。
そしていつかは、孤独に倒れて死にゆくいのち。
「私たち、仲間ですね」
蛇は、返事をしない。
当たり前だ。私はくすりと小さく笑った。
こんなやりとりにさえもぬくもりを感じてしまう私は、おかしいのかもしれないけれど。
でも、仕方ない。
言葉を発することさえ貴重な生活なのだから。
「すみません。変なことを言ってしまって。いま、助けます」
しゃがみ込んで、手のひらに載るほど小さな蛇を掬うように拾う。
蛇の身体は、冷たくて。手のひらの上で、ぐったりしていて。
「必ず、助けますから」
心のなかだけで、続ける。
あなたが──蛇が、いかに、忌み嫌われていても。
たとえまもり神さまが、蛇など捨て置けと命令したとしても。
私は、蛇を手のひらに載せたまま静かに立った。
小屋に戻るため、踵を返す。
手当できるようなもの……あったかしら……。
山の木々たちが、風を受けて緑にきらめいている。
初夏、よく晴れた日の朝。
こういう日は、裸足に死に装束でもまだ歩きやすい。
私はいつもこの格好だ。裸足に、真っ白な死に装束。
なぜなら、私は忌み子だから。
木々の間から、まるで透き通る水のような木漏れ日があふれる。
そんな山の気持ちよさとは対照的に、手のひらにいる蛇はぐったりとして、いまにも死んでしまいそうなのだった。
……この蛇。
見れば見るほど、まっしろだ。
いっそ、不自然なほど──真冬に振り積もる雪よりも、巫女が纏う白衣よりも、まもり神さまに捧げる白い菊よりも。
透き通っている。純白、と言っていいほど。
忌み嫌われる存在である蛇に対して、思うべきことではないのかもしれないけれど。
魅入られるほど。美しい──と、感じる。
まるでこの世のものではないような、こんな生き物が。
こんな辺鄙な村の裏山に生きていたなんて、としみじみ驚きながら、私は小屋に向かって急いだ。
蛇を手のひらに載せて小屋に戻ると、あやは悲鳴じみた声をあげた。
力が抜けてしまったのだろう。手にしていた雑巾が、ひらりとその手から落ちる。
「硯さま。そ、それは……」
蛇、と口に出すこともできないのだろう。忌み嫌われた存在の名前だから、仕方のないことだ。
だから、私は代わりに口にする。
「蛇です。外の森の近くで倒れていたので、拾ってきました」
「お、お口が穢れますよ。そのようなことをおっしゃっては……」
私は思わずふふっと笑った。
あやは、真面目だ。むかしから真面目な子だったが、先日十三歳の成人の儀を終え、ますます拍車がかかったような気がする。
もうあたしも大人ですからしっかりします、と鼻息を荒くしていたあやは、しかし、私にとっては今も昔も可愛い妹のような存在だ。
「大丈夫ですよ。私はこれ以上穢れようもありませんから」
私は言いながら、部屋の奥の座敷に正座をする。
傍らには、壊れた木の板の方がまだ厚みと弾力があるのではないかと思うほど薄く、すっかり硬くなった古い布団。
けれども、もはや半分地面が見えている、砂と埃まみれの床に寝かせるよりは良いだろう。私だって、毎晩そう思って布団を敷いて寝ているのだし。
私は、布団に蛇を横たえた。
蛇は相変わらずぐったりしていて、ぴくりとも動かない。
……身体の側面に。少し、赤いものが滲んでしまっている。
真っ白な身体だから──なおさら、目立つ。
「あや。ここに、なにか手当ができるようなものはありましたっけ?」
「え、ええと。この小屋には……そっか……ないですね……」
あやは気まずそうな、そして、悲しそうな顔をする。
私はかえって申し訳ない気持ちになる。
私はもう、死んでいるも同然の存在として扱われているから、いのちを助けるための道具が小屋に置いてないだけ。
それは、あやのせいじゃない。全然。
「大変、申し訳ないのですが……」
このお願いが──何を意味するか、わかっていて。
私はそれでも、……口にする。
「もし、できたら、で良いです……なにか手当をするものを取ってきてもらってもいいですか?」
「……わかりました」
あやだって、私のお願いの意味はわかっているはず。
それは、あまりに危険な橋。
……そしてあやには何の利もない。
「……ごめんなさい。こんなことを、頼んでしまって」
自分よりも年下の、妹のような少女の。
善意だけに頼って──私は、危ないことを頼んでいる。
……そんな、自己嫌悪に、苛まれて。
謝ることさえ。ずるく、感じたけれど──。
「あたしは、蛇は……正直、ちょっと怖いですけど……」
あやは、あどけない微笑みを見せて。
「だけど、硯さまがお優しい方だって、知っていますから。あたしのことだって、硯さまは助けてくださったのですから。蛇を助けるのは……さすがに、びっくりですけど。でも、納得できちゃいます」
胸が、あたたかさでいっぱいになる。
本当に、なんて良い子なのだろう。
「……ありがとうございます。無理だけはしないでくださいね。もし怪しまれたら、自分のことを優先してくださいね」
はい、とあやは神妙にうなずいた。
手当の道具を、あやの命と引き換えにするわけにはいかない。
忌み子の世話は、村の下女や女中たちが当番制で担当している。当番は、だいたいひと月に一度巡ってくるらしい。
ほとんどの村の女たちは、忌まわしそうに私の相手をするけれど。
あやは、当番の日はもちろん、こうして当番以外の日も私のところに通ってくれている。こっそりと。
そのおかげで、私は朝の散歩ができる。
たまにはまともな食物を口にできる。
部屋の悪臭も汚れも、耐えられないほどではなくなる。
当番以外の日も私のところに通っていることがわかれば、あやは、あっけなく殺されてしまうだろう。
ましてや手当の道具を運んだなどと露見すれば──。
もし。あやが手当をするものを持ってくることが叶わなければ、小屋にあるもので手当をするしかない。
ほとんど、何の物もない小屋。どこまでできるかわからないけれど。
この蛇を、助けたい。
だから、できることは、何でもやってみる。
「それでは……ごめんなさい、硯さま」
あやは私の目の前で、格子を閉めて、鍵をかけた。
心底、申し訳なさそうに。
がちゃん。
冷たい音が響いて。あやはそれでまた申し訳なさそうな、泣き出しそうな顔をするけれど、あやのせいではない。あやは、悪くない。
あやの持つ鍵は、束になっている。
この村で女中の仕事をしており、腕もよくて信用されているあやは、たくさんの鍵を持ち歩いている。
そのうちひとつくらい、小屋の鍵があっても気づかれないだろう――ということだ。
でも、それが相当危ない橋だと、私はもちろん知っている。
だから、あやには本当に、感謝しかない。
この小屋には、ご丁寧に二重の鍵が用意されている。
ひとつは、いまあやが鍵をかけた格子。
そしてもうひとつは、小屋自体の扉。
……小屋の扉が開いていれば、まだ座敷牢のなかにも格子越しに光が入ってくるけれど。小屋の扉が閉められているとき──つまり一日のほとんどすべての時間、朝でも昼間でも、この座敷牢は、暗い。
だからこそ、ありがたいのだ。
あやが来てくれて、私にいつも散歩の時間を与えてくれていること──。
私は座敷牢の、閉じ込められる座敷の側に座り。
あやに、笑顔を向けた。そして小さく、頭を下げる。
「よろしくお願いします。ありがとうございます」
「どうか、お顔を上げてくださいまし」
顔を上げると──あやは、小さく微笑んでいて。
ほんとうに。この子には、与えてもらってばっかりだ。
私も、あやに何かをあげられたら良いのに──笑顔と、謝罪以外、何も差し出せるものがないなんて。
何度想っても、その事実は、腸の深いところで重く沈む。
「……きっと、すぐに戻ってまいります」
あやは、格子のもうひとつ向こう、小屋自体の入り口の扉にも外から鍵をかけて、出ていく。
ぱたぱたぱた、と彼女の草履が地面を踏む音……。
……暗くなって。静かになる。
ほんのひと時だけ。
私はいつもの、叶わぬ夢想をする。
清じゃなくて、あやが私の妹だったならよかったのに……。
私は蓮池家になど生まれなくてよかった。蓮池家が、いかに由緒正しい家だとしたって。
あやの家に生まれたかった。たとえ家ごと、京で背負ってしまった借金のために買われて女中の身分として生きる運命だとしても。
だれにも咎められずに村を歩くことができて、質素であっても温かいごはんと家族との穏やかな時間があって。
恋もできて、未来があるなんて。
たとえば、あやの姉として生まれたなら。
私はふつうの幸せを手に入れられたのではないだろうか。
……なんて。
実際の時の流れからすれば、それはおそらくほんのひと時のもの思い。
昼間にふと見る夢のような。
いまは、とにかく、蛇だ。
この蛇を、どうにか──。
蛇の心なんて、人間である私にはわからないはずなのだけど。
横たわる蛇は、苦しそうに見える。
あやが戻ってくるまでには少し時間がかかるかもしれない。
場合によっては、戻ってこられない可能性もある。
そもそも、手当の道具を持ってきてくれないか、なんていうのが本来とんでもない我儘。
持ってきてくれれば、とてもありがたいけれど──もし手に入らなかったら、ここにあるものでどうにかするしかない。
動物の手当なんて、したことないけど……。
できることは、早くやってあげた方がいい。……痛そうだから。
死に装束の裾をひと思いに裂く。
そして、蛇の身体に巻き付けた。
怪我をしたときには、こうして布のようなものを巻くのだと、あやに教えてもらったことがある。
布を巻き付けると。
蛇が──小さく、目を開けた。
その瞳には。
銀色を帯びた、鮮やかで紅い輝きが、淡く揺れていた。
たまに天に光る、異形にも似た星のような。
人は禍々しいと言うけれど、私はそうは感じない──そんなところも、異形の星に似ている。
底知れぬ静けさと、どこか人の目にも似た、知性のきらめき。
息を呑みながらも──私は、語りかける。
「気がつきましたか?」
私は、蛇の傍らにしゃがみこむ。
その身体は、まだぐったりとしたままだった。
さっきより、少し呼吸が浅くなっている気がする。
──だめ。このままじゃ……。
私は柄杓を手に取った。
ふと、以前あやが言っていたことを思い出す。
「弱った生き物には、まずお水を。少しでも飲めれば、助かるかもしれません」
あやは、優しい子だ。
私のような存在にも、いつも変わらぬ声でそう言ってくれた。
……蛇にも、通じるのだろうか。
通じてほしい。どうか──生きて。
部屋の隅の樽から、柄杓で水を汲んで持ってくる。この柄杓。もうとっくに取っ手が曲がって腐食が進んでいるけれど、この小屋にある中ではかなり上等な道具。
昨日、雨がいっぱい降ってよかった。新鮮な水が溜まっている。
私は柄杓を蛇の口元に持っていった。けれど、蛇はあまりにも小さく、口も動かさない。
このままでは、水がこぼれてしまうだけだ。
柄杓の水に、そっとひとさし指を浸して。
指先に乗せたしずくを蛇の口元に運んだ。
「飲んで……飲まないと、死んじゃいます……死なないでください……」
その小さなしずくが、ぴたりと蛇の唇に触れた瞬間――。
蛇が、わずかに喉を動かした。
「飲みました……!」
嬉しさのあまり、言葉が出てしまった。
私は、そうやって。
蛇に繰り返ししずくを与える。
そのうち、しずくを飲み込んでくれる反応が早くなってきた。
しっかりと飲んでくれるようになって……そして……。
蛇は、不意に目を開けた。
真紅の瞳は、この世ならざるものみたいで、ちょっと恐ろしさがあった。
でもどこか、賢そうな瞳でもあって。
蛇はもの言わぬ存在なのに、なにかを言いたげな、不思議な目だった。
その後、あやが約束通り手当の道具を持ってきてくれた。
あやに教わりながら、私は自分の手で蛇の手当てをして……。
治療に詳しくないあやに、蛇は助かりそうか尋ねて……。
「硯さま、この子はきっと助かりますよ。よかったですね」
あやの言葉に、舞い上がるほど嬉しくなった。
小さな蛇。どうか、助かってほしい。
あやにいっぱいお礼を言って、その日はあやと別れた。
そしてその日の夜は、蛇と寄り添って眠った。
相手はただの蛇なのに……。
ひとりじゃない夜は人生で初めて。だれかほかの存在がいてくれるだけで……安心できる、あったかく感じる。
「このまま……私といっしょに、いてくれませんか……」
そんなのは、叶わない話だって知っている。
ただの、……愚かな私の描く、夢ものがたりだ。
蛇を撫でているだけで、穏やかな眠りにつくことができた。
――目がさめると。
ひかり……淡いひかり。
小鳥が鳴いている。
忌み子の私の座敷牢にも、朝は平等にやってくるのだから不思議だ。
――蛇。小さな蛇は、元気になってくれただろうか。
「怪我は……」
寝ぼけまなこのまま、私は手を伸ばす。
しかし、私のつくった小さな布団はもぬけの殻で……蛇は、いなかった。
怪我を治して、そのまま出て行ってしまったのかもしれない。
「……そうですよね……」
幻想にすぎなかった……こんな私と、ずっといっしょにいてくれる生き物が、できるなんて。
「生きているならよかったです……小さな蛇、お元気で。私とひと晩でもいっしょにいてくれて、ありがとう――」
「勝手に追い出さないでほしい」
男のひとの低い声が、背後から響いてきた。
ひゃっ、と喉の奥から声が出てしまった。
だれ? 村人? 聞かれていたの?
自分でも情けないのだけど、勝手に両手が自分自身の身体をかばってしまう。……もう私の身体も年相応に大きくなったけれど、小さなころからの癖。
だれですか、と問うことなど怖くてできない。
私にできることは、ただ、謝ることだけ。
「ご、ごめんなさい……ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
深いため息が聞こえた。
「……怖がらせたいわけではない」
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい」
「ちょっと、落ち着け」
がさごそ、と動く音がして。
ぽん、と。
私の肩に、手が載せられた。……あたたかい。
私に、さわった?
どうして? それは村の禁忌のはず。
穢れた私にさわったら、さわったほうも穢れてしまうのに――。
「俺は昨日、助けてもらった蛇だ」
私は、すべての言葉と動きをとめた。
そして、ゆっくりと振り向く。
「怖がらせる気はない。まずは……落ち着いてくれないか……」
必死に、私を宥めようとしてくる、その男のひとは。
まだだれにも踏まれていない朝のかがやく雪景色のような色をした髪の毛と、神さまに捧げる聖なる炎のような色をした、それでいて涼やかな切れ長の瞳をもつ、とんでもなく美しいそのひとは……。
私が昨日助けた蛇なのだと語り、私を、心配そうに見つめてきている。
……穢れた私の肩から、手を離す様子もなく。
このときの私には、知るよしもなかったのだ。
『……これが恋というものか』
彼が、昨晩そうつぶやいていたことを。
私に恋をしていたことを……。
この美しい男のひとが、私が昨日助けた小さな蛇……?
信じられない気持ちもあったけど、でも。
人間離れしたその美しい容姿が、彼がひとならざるものであることを物語っていた。
そして、彼の指先には、私が巻いてあげた白い布があって。
目の前で現実に起きていることを、受け入れるしかないようだった。
すがたかたちを変えるあやかしも、たまにいるという……。
彼も、そういう存在だったのだろう。
私が落ち着いた後、私は布団の上で正座して、彼は部屋の隅で片膝を立てて抱えて座って、近くはない、でも遠くはない距離感で話をした。
こうして見ると、意外と若い……のかもしれない。
人間離れした美貌で、わかりづらいけど……。
低い声に対して、身体は華奢で、少年らしささえ少し残しているようだった。
私と同じくらいか……少し上の歳なのかな?
彼はしばらくのあいだ私をじっと凝視していた。
あんまりにも穴が開くように見てくるから、恥ずかしくなってきたとき……。
「俺のことは、紅と呼んでくれ」
「紅……さま?」
「さま、はむず痒い。紅でいい」
「でも……」
私は、だれに対しても敬語を使うことを義務づけられている。
そのなかには当然、ひとに対して基本は「さま」を付けて、下働きのひとたちに対しても最低限「さん」をつけることも含まれている。
あやはあの性格だから、呼び捨てにしてくださいましと言ってくれて、私もずっとそうしているけど。
だから私にとっては、簡単に「さま」づけしないのは難しい……。
そういう気持ちを込めて、私は言う。
「その……私には難しいことです」
「そ、そうか……いきなりは……そうだよな……」
だけど、彼はなにかすごく落ち込んでいるようだった。
「もう少し親密になる過程を経ないと、か」
どういう意味かしら……?
「こういうときにはどうすればいいのか……まったく……弟にもっと聞いておけばよかった」
「弟さんが、いらっしゃるのですね」
「ん? ……ああ。血のつながりこそないが、俺の大事な弟だ」
蛇の弟さんだから……やっぱり、蛇なのだろうか?
蛇のあやかし同士も結婚をするのだな、と思ったら、なんだか和んだ。
「この間結婚してな」
「あら、それはそれは。おめでとうございます」
ちょっと唐突ではあったけれど。
なんだか嬉しそうに彼が言うから、私もくすりと笑ってお祝いの言葉を述べていた。
「俺にもそろそろ結婚しろしろとうるさいのだが、結婚にはこれまで興味がなくてな……見合いもすべて断ってきたのだが……弟に言われると弱くてな。あいつの言うことを、俺は無視できない。他のやつの言うことなら気になどしないのだが」
「弟さんを大事にされているのですね。すてきです」
なんてことないことを言った直後、急に……彼は、咳込んだ。
「な、なにを言うんだ、いきなり」
心なしか、顔も赤くなってる気がする……。
大丈夫だろうか?
まだ傷が治りきっていないのかしら?
私は慌ててそばに寄る。
「大丈夫ですか。まだ傷が悪いですか。それとも、なにかが喉に詰まりましたか」
「い、いや……大丈夫だ。……ただ、すてきって言葉を言われただけで、こんなに破壊力があるとは……」
「破壊? ――なにか危険が迫っているのですか?」
「違う、違うんだ……その……」
彼の横顔は、熱でも出したように赤く染まっていた。
これは……。
「お風邪ですか。まだ傷が治りきっていないのですか」
怪我をして、衰弱していたのだから。
熱を出したっておかしくない。
「だ、だから、違うんだ。体調はもう大丈夫だ」
大きな声を出されたけれど、怖くなかった。
不思議だ。ふつうは、大きな声は、怖いだけなのに。
私は心配して、その顔を覗き込む。……悪い病気じゃないかしら?
顔を、彼は肘でかばった。
「すてき、と言われただけで、こんなに……」
「えっ? 申し訳ありません、いまなんて――」
うまく聞き取れなくて、私は聞き返したのだけど。
その言葉の続きを聞く前に、ふいに、足音が聞こえてきた。
ばたばた、と急ぐような足音。
私は一気に緊張する。……だれか、村人が来る?
とんとん、と小さく二回扉を叩いた後、どん、どんどん、と弾みをつけて大きく、三回。
この叩き方は、あやだ。
あやだったのはよかったけど、いま、座敷牢には――。
「あやです。硯さま。突然申し訳ありません」
「あっ、えっと、あや。いま少し取り込んでおりまして」
私の言葉は間に合わなかった。
あやは、座敷牢の扉を開けて、中に入ってきた。
きゃっ、とあやが声を出す。
「そ、そ、そ、その方は……え、え、ええと……?」
完全に混乱しているあやに、私は簡潔に説明した。
昨夜助けた蛇だと。
人間のすがたになって、いまここにいるのだと。
紅……さまは、無口に腕を組んでいたが、私の説明には相槌を打ってくれた。
「私の故郷でも、ひとのすがたをとるあやかしの方はいらっしゃいました。そういう方だったですね」
あやは、どうしてだろうか、なんとなく嬉しそうだったけど。
「すみません……あやかしさま、改めてまたゆっくりご挨拶させてください。硯さま。これから清さまがこちらにいらっしゃいます。それを、お伝えしようと思って……」
「――あの子が? また、こんなに早くに?」
清は、むかしからちょくちょく私の座敷牢にやってくる。
あやとはまったく違う目的で。
「はい……今朝も、村長さまと硯さまの言い争いになりまして。まもり神さまは硯さまのお味方をされたのですが……村長さまは、今朝はなかなか退かれず……」
「……それですっきりしないから、私のところに来るのですね」
私は、思わずため息をついた。
清は、なにか嫌なことがあったり疲れが溜まると、私のもとに来る。
八つ当たりに来るのだ。
「ありがとうございます、あや。いつも事前に伝えてくれて」
心の準備ができるだけで、どんなに助かっているだろうか。
「それは、いいんです、全然。えっと、硯さま、それと……手当の道具を念のためお戻しいただいたほうがいいかと思います」
「そうですね。万一でも清に見つかったら、あの子はうるさいですから」
私はこれから来るであろうつらい時を少しでも和らげようと、冗談めかした言い方をしてちょっと微笑む。
……これも、強がりだって、本当は心のどこかでわかっているけれど。
でも、手当の道具については気になることがひとつだけ。
私は、紅さまに尋ねる。
「本当に、お怪我は大丈夫なのですか? 手当の必要があれば……」
「もうすっかり大丈夫だ」
「そうですか。でも……あとで念のためにもう一度、傷を見せてくださいね。あや、すみませんけど、この方にまだお怪我があるようでしたら、後ほど手当の道具をもう一度お借りしてもいいですか」
「はい、もちろんです」
私はそんなやりとりをしながら、あやに手当の道具を返した。
「それと……そのう……清さまがいらっしゃるあいだ、そちらのお方は……」
「どうすればいいんだ?」
紅さまは、あやではなく私を見て困ったように言った。
途方に暮れたような顔がちょっと可愛く思えてしまって、私はふふっと笑う。
「蛇のすがたに戻ることはできますか」
「そうした方が、貴女にとって助かるんだな」
「そうですね。そうしていただけると助かります。そして出てこないように」
「わかった。……蛇に戻るところは見られたくないから、ちょっと外に出て、姿を変えて、戻ってくる」
彼は、あやの開けている扉から外に出ていった。
「あや、ありがとうございました。もう戻ったほうがいいですね。私のもとにいることが知られたら、大変なことになりますから」
「……硯さま……あたし、申し訳ありません、硯さまがいちばんつらいときにいつも、ご一緒できず」
「そんなのはよいのです。あやのせいではありません。ほら、早く戻ってください。私なら、大丈夫ですから」
ごめんなさい、ごめんなさいと泣きそうな繰り返しながら、あやは座敷牢の鍵を二重に閉めて、駆け足で村へ戻っていった。
……あやが謝ることでは、ないのに。
音でわかる。
あやと清たちは、鉢合わせしなかったようだ……よかった。
だったら、私、今回も耐えられる。
しゃなりしゃなりと、鈴のふれあう音がする。
清が、まもり神さまとともに――山を、のぼってきている音だ。
しゃらん、しゃらん、しゃらん。
鈴の音は……どんどん近づいてくる……。
どくん、どくん、どくん。
胸が、早鐘のように鳴る。
紅さまは……蛇のすがたに戻れたかしら。
清たちに、見つかってしまわないといいけれど。
しゃらん、と音が止まった。
小屋の鍵が開いて、清が――あらわれた。
立派な着物を着て、立派な簪をつけた、私と血を分けたはずなのに似ても似つかない立場にいる、双子の妹。
となりには、まもり神さまがいらっしゃる。今日も、おきれいだけど――私には冷たい視線を向けていた。
そばには、おつきの村人たち。彼らは私を軽蔑した顔で見下ろしている。
私と彼らを隔たるものは、格子一枚。
私は、ほほえんで両手をつく。そして、そのまま頭を深く下げる。
座敷牢の格子越し、腕を組んで私を見下ろしている清に対して。
「お早う御座います、清さま」
「……ふん。今朝も土下座が似合っているわね、硯」
清の、侮蔑に満ちた声。
私の視界には腐りかけた畳しか映っていない。
許しが出るまで、顔を上げることはできないから。
畳を睨みつけることくらいは――私のささやかな自由として、……抵抗として、許されるかな。
「顔を上げて?」
清の声で、私は感謝を述べながら顔を上げる。
座敷牢の格子越しに、清の顔があった。
清は、きれいな着物を着ながら、作法を気にせずしゃがみ込んだのだ。
きらびやかで。
自由気ままで。
いつもだれかに命令していて。
この村はわがものとばかりに振る舞っていて。
そして……まもり神さまに、愛されている……大事に思われていて、大事に扱われている……。
ほんとうに、私とは真逆の運命……。
清は、すぐそこで目を見開いて私を見ている。
私は顔こそ上げたけど、両手はついたままだ。
清の顔は、それなりに整っていると思う。
あやに言わせれば、私と清の顔のつくりはそっくりなのだそう。
表情やたたずまいがあまりにも違うから、普段は別人のように見えるけど、ふとした瞬間の真顔なんかがとても似てる、と言っていた。
私には、まったく実感がない。
たぶん私は可愛くなどないから、可愛い顔の清と顔が似ているなんて、信じられない。
それに、顔がいくら可愛くても……私にとっての清は、可愛いなどと思うひまもない、恐ろしい存在だった。
「また、父さまと母さまに怒られたのよ。あんたはわがままだ、って。忌み子といっしょに生まれてきたからだ、って。……とんでもないわよね? あんたが生まれてきたばっかりに!」
清の両親ということは、私の生みの親でもあるのだけれど、彼らは私のことを自分の「子ども」だとは絶対に認めない。
忌み子、と呼び、最初からいてはならなかった者として扱っていると聞く。
清は、地団駄を踏む。
「お母様も……お父様も……うるさい村人たちも、いつも、いつも……私がわがままなのは忌み子の呪いだとか、挙句の果てには水害や不作を収められないのはやっぱり忌み子といっしょに生まれてきたからだとか、とんでもないことばっかり言って。でも、だとしたら私のせいじゃないわよね。あんたのせいよね」
清は頭を抱えてから、私を見た。
「ねえっ。あんたのせいよね?」
「……そうですね」
「そうよね? それなのに、なぜ私が責められなければならないの。どうして生きてるの。ねえどうして生き続けているのよ。 あんたがいなければ、私は忌み子の呪いがなんとかとか、言われなくてよかったのよ?」
……私も、思いますよ。
よく考えます。
どうして私は生き続けているんだろうな、って……。
「謝りなさい。謝りなさいよ! 生きてることを謝罪しなさい。生まれてきたことを謝罪しなさい!」
両手をついたまま、頭を下に向けていったとき。
小さな白い蛇が、こちらをうかがっていることに気がついた――紅さまだ。
紅さまは、威嚇するような目線を清に向けている。
――おやめください。紅さま。危ないですから。
私は紅さまと目が合ったとき、必死で、彼に伝えた。
清なら、小さな生き物を平気で殺してしまうだろう。
紅さまは私の言いたいことを感じとってくれたのか、威嚇をやめる。
「硯! どうしたの? 謝る方法も忘れてしまった?」
まずい。時間はあまりない。
――隠れていてください。お願いですから……。
紅さまは不服げに舌を何度か出し入れしたが、やがて納得してくれたのか、しゅるしゅると姿を消した。
私は急いで土下座を完成させる。
「生きていて、申し訳ありません。生まれてきて、申し訳ありません」
清は、大声で笑う。
「ああ滑稽。ああ惨め。胸がすっとするわ!」
清についてきた村人たちも、声を立てて笑っている。
……心だけ、死んでしまえれば楽だ。
辱めを受け続けながら、未来もなく恋をすることもなく生きる人生に、これからなんの希望があるのだろう。ただ生かされているだけだ。
私は忌み子。それはよく、わかったから。
こんな人生が続くくらいなら、最初から、生きながらえさせなければよかったのに、なんて。 ……そう思うことすら、私にはおこがましいのかしら。
そうしてひとしきり、私を辱めた後。
「清、穢れが移ってはいけないから、そろそろ出たほうがいい。少しはすっきりしたかい?」
「ええ、まもり神さま。忌み子もたまには、役に立ちます」
「清はこれからこの村を守っていく長になるんだ。使えるものはなんでも使ってしまえばいい。たとえそれが忌み子でもね」
清はまもり神さまに促されて、座敷牢を去っていった。
私には、彼らを笑顔で見送る義務がある。正座したまま。
最後はまた、土下座のように頭を下げるのだ。
まもり神さまは清の肩を優しく抱きながら、肩ごしに、私を冷たく一瞥した。
しゃらん、しゃらん、しゃらん。
鈴の音が遠ざかっていくのを聞きながら、私は思わず安堵のため息を漏らしていた。
「あいつらは、何者だ」
「ひゃっ、べ、紅さま」
人のかたちに戻った紅さまが、胡坐で腕組みをして座っていた。
もっとも見られたくないところを、見られてしまったな。
よりによって清が来るなんて……。
私はつとめて明るく振る舞う。
「隠れていてくださって、ありがとうございます。窮屈な思いをさせてしまったかもしれませんね。大丈夫でしたか?」
「……それはこちらの台詞なんだがな」
紅さまは、困ったようにそっぽを向いた。
なにか言葉を選んで……迷っているようで……でも見つからなかったようで、髪を片手でぐしゃぐしゃとしてからこちらに向き直った。
その表情は、私を、……私なんかを心配してくれているかのようだった。
「……で、何者なんだ」
私は説明した。
清は私の双子の妹で、水淵村の次期村長であること。
そしてまもり神さま――「稲荷の化身」だという妖仙さまは、二年前にあらわれて、この村を豊かにすると約束してくださったこと。
水害と不作の長く続いていたこの村では、まもり神さまの存在は大層歓迎されたこと。
そんな妖仙さまが清を見初めて婚約したものだから、この村はもう安泰だと、みんなが喜んでいること……。
紅さまは腕組みをしたまま、ときに相槌を打ちながら、私の話を聞いていた。
「そうか、なるほど」
紅さまは、なにか考え込んでいるようだった。
「それで、そのまもり神とやらが来てから、水害や不作というのはよくなったのか?」
「いえ、それはまだ……。でも、これからだってまもり神さまはおっしゃっているようです。そんなにすぐには水害や不作はよくならないって」
「長く続いているのだよな」
「もう五年になるでしょうか……」
「そんなに続いていて、この村の食糧は続いているのか。見たところ、小さな村だ。そんなに豊かだとも思えない」
「それが、そろそろ本当に備蓄が尽きてしまうみたいで……。村人たちはずいぶん我慢を強いられているようです」
そうか、と紅さまは言った。
「そこまで村が貧しているのに、贅沢をする余裕はあるのだな」
「贅沢、ですか?」
「次期村長だというあの娘だ。贅沢な着物を着ていた」
「清は、特別ですから。彼女の品位が村の品位につながるとのことです」
「食事も贅沢をしているのか」
「それでいいのか?」
「と、いいますと……」
「村人たちが満足に食べられないのだろう。それなのに、長は贅沢をしている。それでいいのか」
「……私が意見することではありませんから」
「意見するとしたら。どう思う」
「……そうですね。やっぱり、みんなが満足に食べられたほうが、いいと思います。……おなかがすくのはつらいですから」
私は、誤魔化すように肩をすくめて笑ってみせたけど。
空腹がつらい、というのを私は身をもって体感している。そもそも、施しがなければ今日の食事にもありつけない身。
飢え死にしかけたことも、一度や二度ではない。
「あやも……あ、えっと、手当の道具を持ってきてくれた子です。彼女はこの村で唯一私の味方なんですけど……あやも、最近はろくに食べ物がないってよく言ってます。家族がみんな満足に食べるのはとてもとても無理だから、弟や、おばあちゃんから食べさせてるって。でもそれもいつまで続くか……」
話していて、申し訳なくなっていた。
そんな状況なのに、あやとあやの家族は、私に食べ物を分け与えてくれているのだ……。
「私の食事は村でもっとも貧しいものですが、それでも生き長らえる程度には、もらってしまっているのです。村人のみなさまに食糧が行き渡るように、私が最初に死んだほうがいいんでしょうね……」
「そんなことはない」
紅さまが大声を出したので、私はびっくりして彼を見る。
彼は、とても一生懸命な顔で……私を、私だけを、まっすぐに見ていた。
紅さまは気まずそうに、視線を逸らした。
「……いや。その。すまない。また、怖がらせてしまったか? ……人間とかかわるのはやはり難しい」
「いえ、大丈夫です」
私は思わず、くすくす笑った。
「……ありがとうございます。私、いつも、要らないって言われてばっかりなので。たとえお世辞でも、そう言ってもらえるのは、とっても嬉しいです」
「いや。……世辞などではなくてだな」
紅さまは、きっとすごくいいひとなのだろう。
一見ぶっきらぼうだけど、ひとは見かけによらないし。
あやかしなのに。こんなに美しくて、人間離れしているのに。
ちょっと人生で行き会っただけの私に情けをかけてくれるのだから……。
まだ出会って間もないのに、このひとといるのは、痛くない。
それどころか、もっといっしょにいたくなる。
私の話を聞いてくれて、私のそばにいてくれるひとなんて。……奇跡だ。
……だから。
そろそろだと、思った。
これ以上いっしょにいてしまっては……もっと、いっしょにいたくなるから。
「……紅さま。お怪我の具合は、いかがですか?」
「ん? ああ。もうすっかり良くなった」
紅さまは腕の包帯をほどいて、傷跡を見せてくれた。
たしかに、傷はすっかりよくなっているようだった。少しだけ痕が残ってしまっているけれど、もう治りかけ。
私の傷の治りよりずっと速いように感じた。常人離れしている。やっぱり、あやかしだからだろうか。
「他の傷もこのような感じだ。手当のおかげだ。感謝する」
「よかったです」
本当に、ほっとした。
あやかしだったことには、びっくりしたけれど……。
小さな蛇。あのままだと、死んでしまいそうだった。……死んでほしくなかった、助かってほしかった。
だから……よかった。本当に。
私は、笑顔が歪まないように気をつけながら、紅さまに言う。
「もし、もう体調のほうがすっかりよろしければ……ゆかれたほうが、よろしいかと」
「……え?」
「ここは忌み子の座敷牢。たいしたおもてなしもできません。窮屈な場所です。……村人に見つかれば、清やまもり神さまにどんな目に遭わされるかもわかりません。まだ、気づかれてはいないはずですから……ゆかれるのなら、いまです」
これ以上、名残惜しくなる前に。
もっといっしょにいたいと願い始める前に……。
紅さまは、複雑そうな顔をしていた。
「……それは、俺の身を案じてのことか。俺とともにいたくない、という意味ではないか」
「そんな、そんなのは、もちろんです。私はむしろ……紅さまといると、心地よくて」
はっと、口を押さえた。
私は何を……。
そんなことを言ってしまっては、いけないのに。
「でも……ずっといっしょにいることは、無理でしょうから」
当たり前だけど、紅さまにも帰るところがあるはずだ。
この村に住むためにやってきたわけじゃなくて、ただ行き倒れてしまっただけだろうから。
「こんなみすぼらしく、危ないところに、長く居続けないほうがよろしいかと思います。紅さまも帰るところがあるのですよね? 早く帰って差し上げたほうがよろしいかと。弟さんもいらっしゃることですし」
「……もう少し、滞在させてくれないか」
紅さまは。
絞り出すように、そう言った。
私は目を見開く。
「……いけないか」
紅さまは、上目遣いで私を見てくる。
切実なその視線……。
「そんな……私のほうは、かまわないのです。いつまで居てくださっても……」
ですが、と言いかけたのを、私は呑み込んだ。
……もっといっしょにいてしまったら、きっともっと好きになってしまう。
だから、別れるとき、もっとつらくなってしまう。
そうは思ったのだけれど……それは、私のわがままだってこと、私にはよくわかっていたから。
「けれどご家族が心配されると思います。……もう少し滞在されたいというのは、もう少し体調を整えたいということでしょうか。ここでは何のおもてなしも、滋養のある食事もお出しできません、それでもよろしければ……」
いや、と紅さまはどこか苦しそうに言う。
「体調のほうはもうすっかり大丈夫なんだ。硯……俺は、硯のことが……」
紅さまは、なにかを言おうとする。
でも、言えなかったとでもいうように……なにかを諦めるかのように、ちょっと微笑んだ。
そういう顔をすると、美しさとあいまって、すごく可愛いし、……すごくかっこいい。
「……気持ちを伝える決心をするから。それまで、数日でいい、時間をくれないか。……初めてなんだ、こんなことは」
なんのことかわからず、私は首をかしげたけれど。
紅さまがしばらくいてくれることは、正直とっても……嬉しくて。
「どうぞ、ご滞在くださいませ」
思わず、それだけで、本心からの笑みがこぼれてしまうのだった。
そこから三日間、紅さまと私とふたりの生活が始まった。
朝、起きたとき、おはようを言える相手がいることが。
夜、眠るとき、おやすみなさいを言える相手がいることが。
こんなにもあったかくて、絶望を癒すものだとは思わなかった。
紅さまとは、いろんな話をした。
話題はいくらでもあった。
紅さまは私の話を聞きたがり、私は紅さまの話を聞きたがった。ふたりとも競うように相手の話を聞きたがるので、私たちはそんな気持ちをお互い感じるたびに、笑いあった。
紅さまは私のこれまでの人生に心からの思いやりを示してくれて、私が涙してしまうことも、一度や二度ではなかった。
そして、紅さまのお仕事――あやかし退治の道中で起こった面白おかしい出来事に、私がこれまでの一生ぶん笑ってしまうことも、一度や二度ではなかった。
どうして……このひとは、こんなに優しいのだろう。
「紅さまは、女性に人気なのではないですか」
「……なぜだ」
「だって、こんなに優しいから」
「だれにでも優しいわけではないのだぞ」
「そうなのですか?」
「……硯だからだ」
そう言って、紅さまはそっぽを向く。
紅さまがそっぽを向く仕草は、本当に可愛らしい。
……そうは言ってるけど、だれにでも優しいんだろうな、紅さまは。
だって……私だけが特別なんて、そんなことはありえないもの……。
あやは、いつも通り一日一度は来てくれた。
紅さまともすっかり打ち解けて、紅さまのほうも普通にあやと喋ってくれていた。
あやが座敷牢から出してくれる散歩の時間、……私の数少ないささやかな平穏の時間は、隣にかならず紅さまがいてくれるようになって、もっとかけがえのない時間となった。
紅さまとあやは、たまに私のわからない会話をする。
「紅さま。硯さまは心がお優しくて、気高くて、明るくて、どんな境遇にあられても絶対にめげず、本当に、本当に素晴らしいお方ですから、大事になさってくださいまし」
「もちろんだ」
「あやは応援しております」
あやは、紅さまが滞在するわけが理解できるようだった。
清やまもり神さまは、来なかった。
あやに聞いたところによると、この間の水害――紅さまが怪我をして倒れていた日に起こった激しい水害のせいで、備蓄の食糧が駄目になってしまい、今後の村の食糧問題をずっと話し合っているらしい。
村の一大事。それはもちろん、案じたけれど……。
清たちが来なかったことは、本当によかった。
これまで失われていたものが、渇いていたものが、欠けていたものが、壊されていたものが。
すべて、注がれて……あたたかく、とろりと満たされていく。
紅さまと暮らしていると……そんな感覚を、覚えた。
呼吸をするのが苦しくない。
笑うときに顔が引きつらない。
紅さまと暮らし始めて、三日目の夜。
私は、いけないとわかっていたのに……不安になってしまって……不安を、言い出してしまった。
地面についた肘で頬杖をつくように横になり、毎晩私が寝つくまで話をしてくれて、見守ってくれる紅さまに。
「紅さま。いつまで、ご滞在されるのですか。……私は怖いのです」
「何が怖い。話せるならば、話してみてくれ」
紅さまはこういうとき、とても優しい顔をしてくれる。
だから……耐えなくては、ならないのに……私の声は、震えてしまう。
「この幸せがなくなってしまうことが。また、ひとりぼっちに戻ってしまうことが」
「硯……」
「いずれは、ゆかねばならないのであれば、早く……行っていただいたほうが……」
ぼろりと涙が出てきたことに、私は驚いた。
私の涙なんて、とっくに涸れたと思っていた。
だって清にどれだけ罵られても、土下座を強要されても、笑われても。
生みの両親が私の存在を否定して、私を子どもと認めないと公言していても。
村人たちにどれだけ軽蔑されても、唾を吐かれても、折檻をされても。
涙など、とうのむかしに出なくなっていたのだから。
「長くいっしょにいればいるほど、別れがつらくなりそうです。……だから」
「……すまない。俺は意気地なしだな。……想いを伝えるのがこんなに大変だとは」
紅さまは、身体を起こして座る。
そして、ぎこちなく――私の頭に、手を載せた。
「俺の真名を教えよう」
「真名……ですか?」
「そうだ。真名だ。俺たちあやかしは、真名を非常に大事にする。あやかしの真名を知る者は、そのあやかしを支配できるから」
「支配……」
「たとえば戦っているときに真名を呼ばれれば、力が相手に支配されてしまう。だから、俺たちは真名を本当に信頼できる相手にしか教えない。……害することはこれまでこれからも決してないと、誓える相手にしか教えない。……俺が真名をみずから伝えるのは、弟の他には初めてだ」
「そんな大事なもの、私なんかに……」
「硯だからだ。――俺の真名は紅瞳という」
「紅瞳、さま……」
美しい響きの名前だと思った。美しい彼に、ぴったり。
「俺は硯とずっといっしょにいるつもりだ」
「……でも、そんなことは、無理です」
「無理ではない。……明日の夜には、伝えよう」
紅さまは、美しく微笑む。
「願いがある。……これからは、紅、と呼んでくれないか」
「でも……」
失礼だ……そう思ってしまう恐怖から、逃れられなくて。
「失礼です……私などが、やはり」
「硯の立場はこの村の者たちが決めたもの。俺はこの村の者ではない。だから、失礼ではない。まったく失礼などではない。……このまま、さま付けをされてしまうほうが俺は悲しい」
「そうなのですか?」
「……硯と少しでも近づきたい。どうか、紅と呼んでみてくれ。硯」
「……べ、べに……」
さま、とどうしても言いそうになってしまう。
でも、私がこのひとを呼び捨てにしただけで、このひとは、本当に本当に嬉しそうだから……。
「……紅、と、お呼びしますよ、本当に。よいのですか……」
「もちろん」
私は、ついに折れてしまった。……なんだか、このひとにはかなわない。
座敷牢には月光もほとんど入らず暗いのだけれど、わずかには月明かりが入ってきていることに、私は気がついた。
月明かりは、今宵は私に優しい。
だれかがそばにいてくれる夜は、こんなにも生きていたくなる……。
そんなかけがえのない時も、束の間。
翌朝、私たちは、息を切らして駆け込んできたあやに起こされた。
まだずいぶん早い時間だった――日も昇りきっていないほどの。
「こんな早くからすみません、で、でも、た、た、大変なんです、す、す、硯さま……硯さまっ……!」
「あや。どうしましたか。まずは落ち着いてください」
完全に混乱しているあやを座敷牢のまだきれいな畳の上に座らせて、肩をさする。
「す、す、すみません、あ、あたし……あたしがこんなんじゃいけないのに……」
「大丈夫ですよ。ゆっくり話してください」
「す、す、硯さま……硯さまが、いけにえっ――」
「……男を連れ込んでいたなんて。まさかと思ったのだけど、本当だったとはね」
地を這うような冷たい声。
あやは息を呑み、私の鼓動はこの上なくうるさく、速くなる。
がたがた震えるあやを胸にかばって、ゆっくり振り向くと――そこには、清がいた。
どうして……こんなに早く来たことなんて、これまでなかったのに。
その後ろには、まもり神さまもいて。
にんまりと笑いながら、清の肩を抱く。
清は唇を尖らせ、甘えるようにまもり神さまを見上げた。
「ねえ、ひどいわね、硯ったら。こんなに淫らな女だと思わなかった」
「逆に好都合だよ、清。これでもっと村人も説得しやすくなる」
「生贄に捧げる前に、硯に罰を与えることは可能? 厳罰よ。生きたまま皮を剥ぐのなんかどうかしら?」
私の胸のなかで、ひっ、とあやは声を漏らした。
「そうそう、この裏切り者の女中もね。働き者だから信用していたのだけど、まさか忌み子の味方だったとはね。私たちの話を盗み聞きしていたあんたが飛び出ていくのを、まもり神さまが気がついてくださったのよ。今度はもっと上手にやりなさいね、……まあ今度なんて二度と来ないでしょうけど。とんでもない女だわ。殺してあげましょうね」
あやは震えながら、ぼろぼろ涙を流し始める。
「そしてもちろん、不届き者の男もね――」
「……逃げてください。紅」
私は、彼に向かって言った。
あやをいま一人で逃がすのは、逆に危険だ。非力な少女ひとり、村人たちが追いかけて殺すことなんて、わけもないだろうから。
でも、紅はこの村の者ではない。
蛇に変身することもできるし、帰るべきところに帰れば、助けてもらえるかもしれない。
どちらにしろここにいたら、殺されるだけ……。
私たちの村のくだらない風習で、紅を殺させるわけにはいかない!
「早く。紅。早くっ――!」
「硯の言うことは、できる限りかなえたい。だから前回は隠れていた。だが、それは過ちだった。ときには硯の大事な言葉に背いてでも、守らねばならないのだな。……人間の機微を俺はこれからもっと学ばねばならないようだ」
紅は、視線をちょっとうつむき加減に――そのままゆっくりと立ち上がって、ゆらりと、清、ではなくまもり神さまを見た。
――その迫力に、ぞっとする。
これまで見たことのない、彼の迫力。
背後から紅い炎が立ちのぼっているかのようで……。
このひとはあやかしなんだ、と。
初めて実感として、思った。
「……稲荷の化身と申したな?」
「……なんだ、おまえは。白い髪に紅い瞳。子鬼か何かか」
まもり神さまは警戒した様子で、清を抱き寄せる。
「俺を知らないとは。田舎者にも程がある。――こう言えばわかるか? 白の大蛇である、と」
「……へ?」
まもり神さまはぽかんとしたあと、急に青ざめた。
「……し、し、白の大蛇。ま、ま、まさか……大蛇の君……?」
「田舎者でも聞いたことくらいはあったか」
呆れたように、紅は言う。
「う、う、うそだ。なんで大蛇の君が、こんな寂れた田舎の農村に。そうか! 下級の狐か狸が化けているのだろう。た、大蛇の君がこんなところにいらっしゃるなんて……そんな……そんなわけない!」
「疑うのであれば戦ってみるか?」
紅は右手をまっすぐに突き出す。
その拳は、少しずつ紅く燃え――なのに紅はちっとも熱そうではない。
「……ひいいっ。な、なんだ、この力は」
私たちにはなにもわからないのだけれど――まもり神さまは、なにか感じとっているようだった。
「ちょっと力を出しただけでそれか」
「わ、わかりました、こんな妖力を出せるあやかしが、ただものなわけないっ。わかりましたから、そのお力をお納めください、ば、化け術が剥がれてしまう、し、死ぬ……」
紅は呆れたように息をついて、拳の炎を消して引っ込めた。
「俺は悪神退治も請け負っていてな。人間たちの平和になぞそこまで興味はないのだが、可愛い弟のためだ。各地で悪さをするようになった神――悪神を退治して回っている。……この村の近くの水源には、ずっと悪神がいた。水底の深きところにいたから水害程度で済んだのだろうが、とんでもない力を持ったやつだった」
「……じゃ、じゃあ、もしや三日前の雷雨も」
「その悪神と俺が戦っていたからだ。悪神の最後の悪あがきだったみたいだな。……で?」
紅は、まもり神さまを睨む。
「俺はたしかに白の大蛇だが。おまえは何なんだ? 二年前から村のまもり神になったと言っていたな。しかし、まもり神であるためには当然神であらねばならないのに、神の気配がしない。悪神も放っておいている。おまえはいったい――何なんだ?」
「わ、わたしは……」
まもり神さまは、がたがたと震えだした。
「ねえ、まもり神さま、どういうことなんですか? まもり神さまは、神さまなんですよね。この村をずっと守っていってくださるんですよね?」
清がまもり神さまの腕を取って、すがりつく。
しかしまもり神さまは、清の腕を乱暴に振り払った。
「うるさい。いまそれどころじゃないんだ」
清は呆然としていた。
乱暴を受けたことなんて……人生で、初めてだったのかもしれない。
そしてまもり神さまは、目にも留まらぬ速さで、あっというまに――その場に土下座した。
「わたくしめは、名もなきしがない化け狐ですっ。ちょっとした出来心で。このように寂れた農村であれば騙せると思い、まもり神を騙り、この村のやつらを騙していたのです」
「他には何かしたか」
「蛇が穢れたものだと教えたのもわたくしです。自分よりも上位の御方の力をおそれ、危険となりうる存在はすべて穢らわしいと教えたのです。蛇の御方は力が強いですから。悪いことをいたしました。申し訳ありません、申し訳ありません、お許しくださいまし」
「それは別にいい。他に――何かしなかったか? 硯に対してひどいことをしなかったか?」
清が急にはっと我に返ったかのように、まもり神さまの腕に無理やりすがりつく。
「ちょ、ちょっとなにしてるんですか、まもり神さま! こんな、不届き者の男に、なんで謝ってるんですか?」
「口を慎めえ! この御方は、絶大な力を持たれる大蛇の君さまだ!」
「な、なにをおっしゃっているの……? ねえみんな来て、大変、大変なの! 人を呼んで!」
そして、村人たちが呼ばれてきて。
村じゅうが巻き込まれて、大きな騒ぎになる。
紅は、深くため息を吐いていた。
村人たちは集まってくるけれど、私の座敷牢にはとてもそんな大人数は入らない。
加えて、座敷牢に集まるのは縁起が悪いということで――私は特別に座敷牢からの外出を許可され、紅とあやとともに、村人たちのいる広場へ向かうことになった。
広場には、数十人が集まっていた。
村人たちはほとんどいるだろう。
私の生みの両親――蓮池家の現当主とその奥方が、私たちを待ち構えていた。
ずいぶん久しぶりに二人の顔を見たけれど……だいぶ老けたみたいだった。
広場の中心に立つのは、私と紅とあや、まもり神さまと清。
ほとんどの村人が私を忌まわしげに見ていたけれど、後ろのほうであやを心配そうに見ている一家だけは、私と目が合うと何度も頭を下げてきた。
初めてお顔を見るけど、たぶん、あやの家族だ……。
優しそうな雰囲気が、みんなあやと似ている。
申し訳ない。謝っても謝り足りない。私のせいで、あやがこんな目に……。
私は、あやの一家に深く頭を下げた。それくらいしか、今はできなかった。
蓮池家の現当主は、腕組みをして尊大に言い出す。
「どういうことなんだ、清。生贄は空気の清浄な朝のうちに捧げたかった。おまえが生贄を連れてくると言うから、私たちは任せたのだが」
「私はうまくやったわよ! でもね父さま、忌み子は男を連れ込んでいたの。村人から昨晩通告を受けたのよ。忌み子の座敷牢から男と女の笑い声が聞こえてきたって。それでね、忌み子ったら、本当に男を連れ込んでいたの。だから生贄に捧げる前に厳罰に処しましょう? いっぱい苦しめて、殺しましょうよ!」
「まったくおまえは、いつも話したいことから話す……生贄というのは、生きたまま捧げるから意味があるのだ。私たちの手でそれを殺してしまうわけにはいかない」
厳罰でも生贄でも、……なんでもいいのだけれど。
どちらにせよ、私のことを相変わらずまったく何ひとつ大事になど思っていないのは――よく伝わってきた。
「……硯を生贄にしようとしていたのは、おまえたちか」
「なんだ、この男は――」
「忌み子と過ごしていた不届き者よ。さっきから、わけのわかんないことばっかり言ってるの――」
「この御方は大蛇の君だ!」
まもり神さまが叫ぶ。
「……これはこれは、まもり神さま。まもり神さまは、この男とお知り合いなのですかな?」
「知り合い? とんでもない。このように強力な御方と知り合いと称するなど、あまりに畏れ多い。――みなこの御方にひざまずけい!」
まもり神さまは、両手を上げる。
村人たちは、ざわざわとし始めた。
現当主は、眉をひそめる。
「申し訳ありません、まもり神さま。もう少々、説明していただいてよろしいですかな?」
まもり神さまは、さきほど座敷牢で起こったことを説明した。
本当は下級の化け狐であることも含めて。
早口でまくし立てていたけれど、その話の意味はしっかりと村人たちに伝わっていたようで。
ざわめき。そして、やがて。──ざわめきさえも、なくなる。
話を聞き終えたとき、現当主の顔は真っ青になっていた。
「……それでは……まもり神さまは、村のまもり神ではなく……ただの狐で……我々を、騙していたと……?」
「うそよ、そんなの、悪い冗談よね。……ねっ?」
清の言葉に応えず、まもり神さまはまたしても土下座した――村人たちにではなく、紅に向かって。
「お見逃しください。ほんの出来心だったのです。この村の人間たちなどどうなってもいいですから」
「私は? 私は、どうなるの?」
「うるさい、うるさい、うるさい! おまえなど利用しただけだ。御しやすそうだったからな――!」
まもり神さま……いや、化け狐は土下座したまま叫ぶ。
清の顔は歪み、真っ赤になる。
「……まったく騒々しい。話はそれですべてか、狐?」
「はい、それはもう」
「では改めて問う。硯を、生贄として捧げようと決めたのは、おまえたちか――?」
そのとき。
遠くから……馬車で大人数がやってくる音が、聞こえてきた。
やってきたのは、ずいぶん豪華な……雅なご一行だった。
いっぱい人がいる……。
先頭の白馬に乗った、黒く細長い冠を被って濃い紫色の衣をまとった少年が、おーいおーいと言いながら手を振っている。
少年の周りでは、強そうな人々が守りを固めている。
「ああ、いたいた、紅兄さま、心配したよ」
少年はひらりと地面に降り立つ。
村人たちが小声で話しているのが、聞くともなしに聞こえてくる。
「紫色は禁色……もっとも高貴な御方しか身につけることができないはず」
「それでは、あの少年はもしや……?」
「今上の帝は確かまだ十四だとか。噂によれば、奔放で、少年の面影をまだ残されているとか……」
強そうな男の人が、張りのある声で言う。
「帝の御前であらせられるぞ。頭が高い! 控えよ!」
……帝?
文字通りの雲上人が――どうして、私たちの村に?
でも、どう見てもこの方々はやんごとなき一行で。
禁色を身につけている少年は、気品からして、ただものではないことが感じられた。
村長である現当主がひざまずいて、村人たちも一斉にそうした。
私も当然、そうしようとしたのだけれど……。
「硯はいい」
紅が私の腕を持って、そのまま立たせてくれた。
「えっ、でも……無礼です」
「この者は俺の大事な者だ」
紅が、ご一行にひとこと言うと……むしろご一行のみなさまが私にひざまずいて挨拶をしてきて、私は慌てた。
「そ、そ、そんな、人違いではないですか」
私の混乱もよそに。
重厚な衣をものともせず、少年……帝は紅のもとに駆け寄った。
紅に比べると背の低い帝が抱きついてくるのを、紅は受け止める。
「尊。なぜここに?」
「なぜじゃないよ。京を発たれてから七日しても戻ってこないんだもん。心配で探しに来ちゃったよ」
「忙しいだろうに」
「兄さまの命には替えられないよ」
「よくここがわかったな」
「もう、しらみつぶし。たしか今回の旅はあっちの方向だったから、って。でもさっき、兄さま、ちょっと妖力使われたでしょう?」
「ああ、少しだけな」
「僕は普通の人間で、むかしの帝みたいに妖力を操ることはできないけど、妖力を感じとるくらいできるんだから」
「知ってる、知ってる」
紅は苦笑しながら帝の頭を撫でる。
もしかして、だけど。
紅の言ってた弟って、もしかして……。
帝は、扇で口もとを隠す。
「それで、ふふ……兄さま、そちらの方は?」
「ああ、硯といって、悪神討伐で弱っていた俺を助けてくれた」
「そうなの。硯、礼を言う。紅は我らにとって、国にとって大事な者。褒美を取らせよう。なにがいい?」
「そ、そんな。とんでもありません」
私はひざまずこうとした。
でも、紅がそんな私の腕を取って……私の肩を両手で優しく包むようにして私を立たせて、真剣な顔で、私を見てくる。
もう逃げない、と紅がつぶやいたような気がした。
「硯。俺は、硯が好きだ」
真剣に、どこまでも強く、それでいてどこか悶えるように。
紅は、人間離れした美しい顔と、すごく人間らしい表情で、私を、私だけを見つめていた。
「硯の笑顔が好きだ。もっと笑ってほしい。硯の話が好きだ。もっと聞きたい。硯が髪を掻き上げるところ……愛おしそうに笑うところ……優しいところ……すべてが、好きなんだ」
紅は、必死に……言葉を紡いでいる。
「硯は、心も見た目も美しい。心の美しさに、見た目の美しさが呼応している。こんなに美しいひとを俺は初めて見た。……愛している。本当に、狂おしく……愛しているんだ。もう、硯と離れ離れになることなど、考えられない」
「紅……」
私の顔からは、熱い涙があふれていた。
「……いやか。俺などでは。硯にふさわしくはないか」
「違います……まったく逆です。だって、だって……」
――だって。
「私も、あなたをお慕いしております……ずっといっしょにいたいと思ってます。これ以上いっしょにいたら、もっと好きになっちゃうと思っていたから。……好きだって気持ちを認めたら、別れがつらくなっちゃうから」
いまだけの幸福だとばかり、思っていた。
いずれは終わる夢なのだと……。
紅には帰るところがあるし、私はいずれ生贄となって死ぬだけの忌み子。
この秘めた思いが報われることなど、決してないのだと……。
そうとばかり、思っていたのに。
「好き……紅、大好きです」
言葉に、想いが、すべてあふれた。
紅は、私を抱きしめた。
私もその身体を抱き締め返す。
「では、俺の花嫁になってくれるか」
「もちろん、喜んで……!」
信じられない。
こんな私が。
生まれたときから忌み子として宿命づけられていた私が。
……でも、紅の身体のあったかさは、愛おしさは……紛れもなく、ほんものだった。
紅は、私の身体を抱き上げる。
ちょっと恥ずかしかったけど、すぐそばで紅が嬉しそうに微笑んでくれるものだから、なすがままになっていた。
村人たちは、ずっとひざまずいて動かない。
まもり神さまを騙ってた化け狐は、震えながら土下座したままだ……。
「そういうわけだ、尊。俺は硯を愛しているんだ。もう俺には、硯以外考えられない。結婚するならあやかしの娘か貴族の娘ということだったが、俺は絶対に、硯と結婚する」
「僕は紅兄さまがずっと独り身でいるんじゃないかって心配だったんだ。だから、あれこれ縁談を紹介していただけ。兄さまが愛したひとが何より一番に決まってる。紅兄さま、硯、婚約おめでとう」
「ありがとう」
紅は、嬉しそうに返事をする。
「硯に手を出したら、尊と言えども容赦しないぞ」
「大丈夫だよ、紅兄さまの大事な人に手を出すなんて命知らずすぎるでしょ。それに僕にだって愛する奥方がいる。でも硯、僕は君の義弟になるわけだから、これからは姉弟としてよろしくね」
「そ、そんな。えっと……よろしくお願いいたします……」
帝が義理の弟なんて……。
目の前で起こっていることが、信じられない。
「そして硯、紅兄さまと結婚するということは、京に来て生活してもらうことになる。大丈夫かい?」
「え、みっ……京ですか?」
「うん。紅兄さまは普段は京の、僕の住まいの裏に暮らしているんだよ。白き蛇の一族は、むかしから帝の一族と仲がよくてね。帝の一族の子どもと白き蛇の一族の子どもは、義兄弟として育つ。帝は表から、白き蛇の一族は裏から、この国を守り治める。それが伝統なんだ」
「そうだったのですか……」
「そのなかでもとくに、紅兄さまは大層お強いので、大蛇の君という称号を得ているんだ。そしていまでは白き蛇の一族の長にもなっている。だから紅兄さまは、僕と同じくらい偉いんだよ」
化け狐は、大蛇の君という言葉を知っていた。
あやかしの間でも、紅は有名なのかもしれない……。
紅が、私に優しく語りかけてくる。
「京での生活は何も心配しなくていい。この俺の花嫁だ。みなが硯を大切にする。この俺を扱うように、硯を扱うよう、おふれを出す。様々な者に会うことになるが、ゆっくり挨拶していけばいい」
「はい……ありがとうございます、紅。高貴な方々に、私がうまく振る舞えるかわかりませんが……」
「硯はとても明るいから、みな気に入るだろう。それに傷ついて倒れていた俺の恩人でもある。何より、いつも俺がついている。何も心配しなくていい」
紅がいてくれるなら……きっと、大丈夫だ。
「それじゃあ紅兄さま、そろそろ京に戻る? 悪神討伐の成果はあとで詳しく聞かせてもらうとしても――まあ、大丈夫そうだね、このあたりはもう。風が清くなっているよ。水も清くなったのだろうね」
「苦戦したが、しっかり倒しておいた」
「ありがとう。いつも助かるよ、兄さま」
「硯。行こうか。何か持っていきたいものはあるか?」
「え、えっと」
持って行きたい「物」はないのだけれど……お願いしたいことならある。
口を開こうとしたときだった――。
「……信じない」
清が、立ち上がった。
「信じないわよ。私は。こんなの、ただの茶番だわ。――硯が帝の兄に嫁ぐですって? そんなの、ありえない。……だって硯は忌み子ですもの。この村で最も身分が低いのよ」
なにかを言おうとしたおつきの人を、紅は制した。
「ここは俺に任せてくれないか」
「はっ。紅さまがそのようにおっしゃるのであれば……」
ぎろりと、おつきの人は清を睨んでから下がる。
でも、清は……睨まれたことにすら、気づいていないようだった。
血走った目で、私だけを睨み続けているからだ。
「硯には、私は何をしてもいいの。どんな目に遭わせてもいいの。それで私はすっきりするのよ。……だって硯は私に絶対に逆らえない! そういう存在のはず。そして、そういう存在のまま、今日! 水害を治めるために、生贄に捧げられようとしていたのよ!」
「……水害ならばもう起こらない。三日前に、元凶の悪神を俺が倒したからな」
「生贄に! 硯を、このまま、生贄に! 硯が幸せになるなんて許せないっ。私より幸せになるなんて、この私が絶対に許さないんだからっ! ――ねえまもり神さま!」
「……もう……やめてくれ……わたしが悪かったから……森に帰らせてくれえ……」
「――この役立たずっ! よくも騙してくれたわね。地獄に堕ちろ!」
清は化け狐を思い切り蹴り飛ばして、化け狐は呻いた。
清は急に黙り込むと、不自然に笑顔をつくって、上目遣いで紅を見た。
「……私、知らなかったんです。貴方さまがやんごとなき方であることも。まもり神が化け狐だったことも。私はこの村の次期村長だから……この村のことを考えて、生贄を捧げようとしただけなんです……ところでっ」
清は、両手を合わせて頬の横に添えた。
「硯でいいんだったら、私にしたほうがいいですよ? 私と硯って、顔はほとんど一緒なんですけど、私のほうがよく肌のお手入れしているぶん肌がきれいだし、おしゃれのこともわかっているし。そいつなんて肌ががさがさだし、死に装束をずっと着せられてきたような女ですよ? きっと貴方さまを楽しませることができません。私のほうがいいですよ、そんな女より――」
「汚い口で俺の愛する硯を汚すな」
紅は、私には一度も向けたことのない、おそろしい声色で――清の言葉を、遮った。
「――なっ、汚いですって。私が? 汚い? そんなわけないでしょう! その女のほうがずっと汚いです。あーあ、いったいどんな手を使って男に近づいたんだか!」
「……清、もう、やめなさい」
気がつけば、次期村長が清を押さえつけ、土下座させようとしていた。
「娘が大変な無礼を。申し訳ありません。この娘は本当にわがままでして。もう一度教育し直します。どうかご容赦を」
「なに言ってるの、父さま? 私のせいじゃないでしょう?」
「この村の未来を考えるなら、お願いだからいますぐ大人しくしてくれ……!」
「そうよ清。これ以上、父さまと母さまを困らせないで」
ひざまずいたまま、声を震わせて、次期村長の奥様――私の生みの母親が言う。
「私は産むときに間違えた。忌み子はきっとあなたのほうだったんだわ、清」
「――うるさい! そんなわけないじゃない、うるさい、うるさい、うるさい!」
「硯。いままでごめんなさいね。母さまは本当はあなたを愛していたの。けれど、村の風習に従って、仕方なく……」
「そうだぞ硯。わしらはずっとおまえの身を案じていたんだ。おまえを仕方なく忌み子にしたが、心配で心配でたまらなかった」
「そうよ。私は清なんかより硯のほうを愛していたのよ。いつも清にいじめられているあなたが、母さまはずっと不憫で……」
ああ。こんな言葉。……このひとたちに、かけられるの、初めてだ。
「私が清にいじめられていたこと、知っていたんですね」
私の声は、自分でも驚くほど、冷たく響いた。
「……村の決まりで、双子の先に出てきたほうが忌み子になるのは、わかってます。でも……そんな嘘を、今更っ……言われたって……」
私は、またしても涙を流してしまった――自分のなかに、悲しみがたまっていることすら、いままで気づいていなかった。
「……硯を泣かせたな。水淵村をいますぐ滅ぼしてやろうか」
「申し訳ありません申し訳ありません申し訳ありません。それだけは何卒ご容赦を」
次期村長は紅の前にひれ伏し、その妻も、同じようにした。
しかし、清は――。
「ふざけないでっ――」
紅に――いや、紅に抱きかかえられている私に、拳を振り上げた。
だけど。
紅は清の攻撃を軽くかわし、私をひらりと背中に下ろしてかばうと、赤子の手をひねるように地面に打ち付けた。
「ふざけるな。俺の愛する硯を傷つけようとする奴は、この俺が絶対に許さない」
「紅兄さまの婚約者に手を出すなんてね。大罪人だ。捕まえてくれ」
おつきの人々が一斉に清を捕らえる。
「離して、離してよっ。硯を殺してやる! 幸せになる前に!」
「硯。大丈夫か?」
紅はすっかり呆れていたようだったが、私に向かっては本当に案じる目をして、気遣うように尋ねてくれる。
「どうする、硯。この村を根絶やしにしたほうがすっきりするなら、そうするが」
次期村長やその妻、私を蔑んでいた村人たちが、ひっと喉元をひきつらせるのがわかった。
……正直なところ。
恨む気持ちがないと言えば、嘘になる。
このひとたちにされてきたことを思えば……。
でも……。
「大丈夫です。どんな理由があろうとも、他人を傷つけたくはないから」
私も、忌み子っていう、この村ではあきらかに正当な理由があったって……やっぱり、傷つけられたくは、なかったのだから。
「そうか。硯は……優しいな」
「ありがとう、わが愛娘、硯!」
「ありがとうありがとう、やっぱりあなたは自慢の娘よ!」
急に私を拝み始める次期村長とその妻を、紅はぎろりと睨む。
「調子に乗るな。……硯、この村を滅ぼしたくなったら、俺がいつでも滅ぼすからな。いつでも言うがよい」
「す、硯、そうだ結婚祝いをやらねばな。なにがいい? 村にあるものならなんでも持っていきなさい」
「そ、そうね、母さまが持ってる指輪なんかどう? 宝石もあるわよ」
「……こんな村にあるような物はたかが知れてると思うけどね」
帝もさすがに呆れたようで、ぼそりとつぶやくようにそう言った。
「物は何も要りません。でも……」
私は、ひざまずく村人たちのなか――私から少し離れたところにいるあやと、そのもっと後ろにいるあやの一家を、見た。
「あや。そして、あやのご家族のみなさま。……顔を上げてくれませんか」
あやと、あやの家族は、そうしてくれたのだけれど――顔を上げたあやは、だくだく泣いていた。
「怖かったですね、あや。私のせいでごめんなさい。もう大丈夫です」
「違うんです、硯さまがやっと幸せになれるんだって、もう嬉しくて嬉しくて。硯さま。おめでとうございます。一緒にいられなくなるのは、寂しいですけど……どうぞお幸せになってくださいね」
「えっと、それがですね……あの、紅。願いというのは、あやたちのことなんです」
「なんでも言ってみろ」
「私はあやにすっごくお世話になっていて。あやのご家族にも、さりげなく食べ物をもらったり、お世話になってたんです……だから、あやたちといっしょに京に行くことはできませんか? あっ、もちろん、あやとご家族のみなさまがよろしければなんですが……」
「まったく問題ない。硯の信頼できる人間は、いくらでもそばに置いておくとよい」
「そ、そ、そんな」
あやはびっくりしていた。
「あたしたちは、その……すっごく、ありがたいです。だって……」
あやは、ちらりと後ろにいるご家族をうかがった。
お父さんらしき人が、口を開く。
「……お恥ずかしながら、わたくしたちは京で借金をつくった身。いつか京に戻ることを夢見て、この村で働いておりました。ですので、願ってもないお話で……ぜひ、娘のあや共々、これからは硯さまにお仕えさせていただけないでしょうか」
「どうだ、硯」
「そ、そんな、私なんかに仕えるなんて……でも、一緒に京に行けるなら嬉しいです。あやは、私の本当の妹みたいな存在ですから……」
「硯さま……ぜひ、これからもお仕えさせていただきたいです!」
「あやがそう言ってくれるなら……これからもそばにいてほしいです」
「であれば、決まりだな」
紅は微笑ましそうな顔をしていて、あやと私は、ちょっと照れたように顔を見合わせて笑った。
「紅兄さまの花嫁のためなら、京の財源から出すべきお金だ。彼らの借金は支払っておこう。でも兄さま、ちょっと身分が問題だね。他でもない、紅兄さまの花嫁のそば仕えなんだから、中途半端な身分ではいけない。そうだ、大臣家の養子にしようか。一家ごと」
「それはいい。ぜひそうしてくれ」
「だ、だ、大臣家……」
あやとあやの家族は、全員で目を白黒させていた。
とても似ていて、思わずおかしな気持ちになってしまう。
そして、紅は押さえつけられている清をぎろりと睨む。
「清とかいう、俺の愛する硯を傷つけたやつは……どうしてやろうか」
「罰として、最も身分の低い女中として御所で仕えさせるのはどうかな。平民であっても、罪でもなくてはその身分にはならない。最も下の身分から始め、その性根をたたき直すといいよ。……この手の者には、簡単に死罪にするよりも効くんじゃない? まあもちろん、もう一度でも同じことをしたら、今度こそ死罪だけどね」
「それもいいかもしれないが、硯、それで気持ちは収まるか?」
「はい、私は……殺してほしいとまでは、思ってませんから」
私自身が、いまさっきまで、殺されようとしていたから……。
清には複雑な気持ちがあるけれど、殺してほしい、とは言えない。
「硯に免じて、機会を与えよう。もう一度でも硯を傷つけたら、そのときには命はないものと思え」
「はあ? ふざけないでっ――」
「口を慎め! 帝と、紅さまと硯さまの御前であらせられるぞ!」
「なにが硯さまよっ――」
更になにか言おうとした清は、手で口を押さえられた。
「……兄さま、あれは教育がなかなか大変そうだね。厳しい女官を手配しておくよ」
「そうしてくれ」
「そして、まもり神を騙った化け狐もだ」
ひっ、と化け狐は声をひきつらせた。
「まもり神というのは神聖な存在。騙るなんて、とんでもないことだ。清とともに下働きをさせ、根性を叩き直そう」
「そ、そんなあ……」
情けない声を上げる化け狐を、おつきの人たちは容赦なく捕らえた。
「さて、ではこの村の問題はこんなものでいいかな。連れていくのは、大臣家の養子になるあの一家と……罪人ふたりだけでいいんだね、紅兄さま」
「ああ。手数をかけたな。……硯、待たせた」
紅は、私を優しくふわりと抱き上げる。
「べ、紅……」
「こうして抱き上げるのが癖になってしまいそうだ」
「そ、そんな……」
……私も、こうやって抱き上げられるの、まんざらではないけど……。
なんだか、照れちゃって。ふわふわしちゃって。……しあわせだ。
「紅さまっ!」
歩き出した紅の背中に、水淵村の村長から声がかかる。
「これにて今回のことは……不問にしていただけるでしょうか……」
「けがらわしい。俺の呼び名をその口で呼ぶな。……大蛇の君の花嫁を虐げ続けた不名誉な村として、この村の名は残るだろう」
そんな、と崩れ落ちる村長や村人たちが、とても、とても小さく見えた。
紅は、私を大事に抱きかかえたまま、馬車に乗るために歩き出す。
風が吹く。澄んだ風が。……昨日と同じはずなのに、まったく違ったように感じる、新鮮な風が。
まるで私たちを祝福してくれているかのように――。
「硯。愛している。硯。大好きだ。俺が初めて愛した相手が、硯で、本当によかった。……幸せになろう。ずっとずっと、いっしょにいよう。これまでのぶんも、俺がいっぱい幸せにしてやりたい」
「はい、私も」
紅の愛おしさに、私の笑顔は、本心から弾けた。
「紅と、幸せになりたいです」
実はもう……その願いは、かなえられてしまっているのだけれども。