八 露見
初夏の訪れと共に日没の時間は徐々に遅くなり、昼が長くなる。夕刻になっても明るさを残した太陽が、沈むのを拒むように西の空に居座っていた。
あれから幾人かの使用人に話を聞いてみたが、皆一様に知らぬ存ぜぬの一点張り。箝口令でも敷かれているのかと思う程に、誰も何も答えてはくれなかった。
そして何の情報も得られぬまま五日が過ぎ、水曜の夜が訪れようとしている。
夕食を済ませ部屋に戻ると、日中の暖かさは消え室内はひんやりとし始めていた。明かりもつけずにベッドに腰掛け、暮れなずむ窓の外をぼんやりと見やる。
あの日、初めて曄子様に触れてからというもの、夜になる度に彼女の頬の感触を思い出し、心臓が高鳴る日々が続いていた。
自分の手をじっと見つめては記憶の中の彼女の泣き顔を思い浮かべ、瞳から溢れた雫の美しさと、それを止めてやらねばという焦燥感のせめぎ合いに、息が苦しくなるのだ。
白い肌が蝋燭の炎に照らされて、赤味を帯びた光沢と影を描き出す様が、まるで絵画のように美しかった。
忘れようとしても、忘れられない──
そんな自分に辟易して、頭を冷やそうと部屋を出て洗面所に向かった。冷たい水で顔を洗い、手拭いでごしごしと拭きながらふと目の前の鏡を見ると、自分の背後に人影が映っているのが見えて思わずびくりと肩を揺らしてしまった。
「こんばんは、一之瀬先生」
「あ──橘さん……」
橘氏は二、三歩近づいて立ち止まると軽く頭を下げた。
「驚かせてしまい申し訳ありません」
「いえ、どうかなさいましたか?」
上げられた顔には、いつものように穏やかな笑顔を湛えている。
「少しお話しをしたいのですが、お部屋へお邪魔してもよろしいでしょうか?」
「それは……構いませんが、わざわざお越しいただかなくても、お呼び立てくださればこちらから出向きましたのに」
「ちょっと、詰所では話しづらい事でしたので」
なんだか、嫌な予感がする──
「……わかりました」
部屋のドアを開けて橘氏を中へ招き入れ、書斎机の前に置かれた椅子を勧め、自分はベッドに腰を下ろした。天井から下がった電灯に照らされて、窓ガラスに僕の顔と橘氏の後ろ姿が映る。すっかり暮れた空の藍色が、白々とした室内の反射を浮かび上がらせていた。
最近使用人達に時子様の件を聞き回っていることが、橘氏の耳に入ったのだろうか?きっと余計な詮索をするなと嗜めにきたのだろう。先に謝ってしまったほうが得策かもしれない。
すみませんでした、と言おうとした矢先、橘氏の言葉のほうが先に僕の耳に届いていた。
「先生は近頃、時子様のことを調べていらっしゃるようですが……」
やっぱり──
「今居る使用人達に話を聞いても無駄です。当時の事を詳しく知る者はもうほとんど屋敷には残っておりません。かく言う私も、当時はこんな役に就いておりませんでしたし、詳細は何も知らないのです」
先手を打たれてしまった。そう言われてしまっては、もう手も足も出せない。大人しくしていろと言われたも同然だ。
「申し訳ありません。どうしても気になってしまって……しかし、もう諦めます。確かに、誰に聞いても知らないと言われてしまいましたし」
「そうでしょうね。それに、あまり嗅ぎ回ると旦那様の耳にも入ってしまいます。そうなったら、ただでは済まないでしょう」
「……」
あの夜、和館の前で出くわした旦那様の姿を思い出して、背筋がぞわりとした。
「あの、橘さん。一つだけお聞きしてもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「和館は普段使われていないとお聞きしましたが、何か用事があって使用人が出入りしたり、旦那様がお使いになったりすることはないのでしょうか?」
僕を見る目が眇められ、僅かな沈黙が流れた。
「何故そんな事をお聞きになるのですか?」
ややあって口を開いた橘氏に、僕はありのままを話した。
「あの建物の窓に、人影が映っているのを見たのです。正誠様のお部屋に初めて伺った夜、磨りガラスに映る人影を。実は、その前にも物音を聞いたような気がしたことがありましたので、侵入者ではないかと確かめに行ったのです。そうしたら……そこで、旦那様にお会いしたのです。人影を見たと申し上げても、気のせいだろうと……でも、納得できなくて」
黙って聞いていた橘氏が、怪訝な顔をした。
「和館の入り口の鍵は、旦那様しか持っておりませんので、もし誰か居たとすれば旦那様だったのでしょう。使用人は許可なく立ち入ることを禁じられておりますし」
「でしたら、何故自分が中に居たのだとおっしゃらなかったのでしょうか?この家の主なのですから、別に隠す必要もないと思うのですが」
「それは、確かにそうですが……」
何かを隠したいのだとしたら……一体そこに何があるのだろう。
「橘さん。一番奥の、磨りガラスの腰窓がある部屋はどんな部屋か、お分かりになりますか?」
「一番奥……私も入ったことはありませんが、確か咲子様の──」
「さきこ様……?」
はっとした顔で口元を押さえ、視線を泳がせる橘氏に思わず詰め寄った。
「それはどなたですか?」
「いや、それは……」
しどろもどろになる橘氏を前にして、僕はふと思いついたことを口に出してしまった。
「もしかして、実誠様の最初の奥様──?」
ぎくりと目を見開く様子に、僕は確信した。間違いない。曄子様の母の名だ──
「先生……何故、旦那様に時子様以前に奥様がいらっしゃったことをご存知なのですか?誰にお聞きになったのです?」
「え──?いえ、その……」
今度は僕がしどろもどろになる番だった。
適当に返事をしておけば良いものを、生来嘘をつくのが苦手で、下手な言い逃れをした挙句墓穴を掘ることが多い。しかし、彼女と会っている事は秘密にしておかなくては……
迷いが焦りを生み、焦りが思考を混乱させる。混乱した頭で必死に絞り出した答えを、消え入りそうな声で口にした。
「あるお方に……お聞きしたのです」
「あるお方、ですか。それはつまり……名前を出せない方、秘密にしなければならない方、という事でしょうか」
やってしまった、という顔の僕を見て、橘氏はニヤリと口角を上げた。
「……なるほど。先生は、もうお会いになったのですね」
橘氏は首を傾げ、うっすらと笑みを浮かべて僕を見据えた。
「──なんの……お話でしょうか……」
薄ら寒い風が首元を吹き抜けた気がして肌が粟立つ。反するように鼻の頭には汗が噴き出して、頭の中では早鐘が鳴り響いていた。
椅子から立ち上がった橘氏が、僕の真横までやって来て肩に手を掛け耳元で囁く。
「ご存知なのでしょう?美しい……お姫様を」
「!」
顔から血の気が引いて、目の前が暗くなった。
知られてしまった──
がっくりと肩を落として項垂れる僕に、橘氏は不敵な笑みを浮かべたまま悠々と話し続けた。
「やはり、そうですか。そんな顔をなさらないでください。私が引き合わせたも同然なのですから、誰にも言いませんよ」
「引き合わせたって……どういう事ですか?」
「鍵をお預けしたでしょう?あの書庫の鍵を」
──そうだ。
この人が、裏口の鍵が壊れていることに気づかない筈がない。気付いていたのに、曄子様がこっそり入り込んでいることを知って、そのままにしていたのだ。
そこへ、僕が自由に入れるようにした──
「お嬢様があの書庫に出入りするのは決まって夜中でしたし、まさか先生と鉢合わせするとは……迂闊でした」
橘氏の三日月のような目が、僕を見てより一層細くなる。
そんな事を言って、この人はきっと僕と曄子様が出会うことまで予測していたに違いない。わかっていて鍵を渡したのだ。オイルランプを借りた時だって、何に使うか知りながら貸したくせに……
「お嬢様も、可哀想な方なのです。屋敷の外に出ることも、お一人で自由に歩くことも許されず常にお供に監視されている。真夜中くらい羽を伸ばして、好きな本を好きなだけ読んでいただければ良いと思っていました」
それに、と橘氏は窓の外に視線を移しながら話を続けた。
「お嬢様は間もなく十六になります。そろそろ親の決めた相手に嫁ぐ年頃です。まあ、旦那様は曄子様を溺愛されていらっしゃいますから、手離したくはないのかもしれませんが。いずれ、好きでもない誰かのものにならなくてはいけない。その前に少しくらい、夢を見せてあげたいとは思いませんか」
そう言う横顔は、どこか物悲しげにに見えた。彼なりに、曄子様のことを案じているのだろう。
夢──
確かに、僕にとっても儚い夢なのかもしれない。そしていつか、相応しい人が彼女を──
そう考えると無性に虚しくなって、ため息をひとつついて重苦しい胸の内を誤魔化した。
そう
僕は、ただの話し相手になるつもりだったのだから……
頭の中を切り替えようと、努めて冷静に話題を変えた。
「ところで、先程おっしゃっていた咲子様のことですが、あの部屋と咲子様は一体どんな関係があるのですか?」
僕に視線を戻した橘氏は、いつもの穏やかな顔に戻っていた。
「あそこには咲子様が生前お使いになっていた品や、お着物が保管されていると聞いたことがあります。お亡くなりになった後、全てあの部屋に運び込んで、管理も全て旦那様が……でも、誰も中を見たことがないのです」
「旦那様は、咲子様を愛していらっしゃったのですか?」
「ええ、それはもう。咲子様のご病気を治すためなら、命を捧げても良いとおっしゃる程に」
誰も知らない、咲子様の面影が詰まった空間
そこで旦那様は、何を思っていらっしゃったのだろうか──