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七 疑惑

 夜半から降り出した雨は朝になっても止むことはなく、土曜日曜と降り続いた。

 

 その間、僕は正誠様の部屋で講義と言いつつ雑談をしたり、双六遊びをしたりして出来るだけ長い時間を一緒に過ごすようにした。その甲斐あってか、だんだんと若様も明るさを取り戻し、月曜日にはいつも通り、人力車に乗って学習院へと登校して行かれた。とりあえずは一安心だ。

 

 若様が学校に行っている日中は兎角暇を持て余すことが多い。散歩でもしようかと五月晴れの庭に出てみると、思いの外強い日の光に目が眩んだ。

 生い茂る緑はその濃さを日に日に深め、池の水は空の色を映して穏やかに揺らめいている。

 

 池に架かる太鼓橋を渡ると、降りた先の中島に小さな灯籠が立っていた。その根元に、細長い葉が数本束になったような植物が芽を出している。背丈は二寸程だが雑草では無さそうだ。指先でほんの少し土を退かすと、小さな球根が見えた。

「誰かが植えて育てているのか」

 慌てて退けた土を戻し、指に付いた汚れを払って立ち上がる。何という植物かは判らないが、日当たりの良いこの場所なら、よく育ちそうだ。

 回りをよく見れば、あちらこちらに同じような若芽が生えていた。

 

 そのまま池の周りをぐるりと歩き、和館の前を通って母屋の方へと戻ろうとして、ふと、あの磨りガラスの窓に目を向けた。

 縦に二本、横に一本の桟が入ったそれは、ちょうど僕の目線の高さに縁の下線がくる高さで、さほど大きくないはめ殺しの腰窓というような造りだ。磨りガラスの向こうは暗く、覗こうとしても当然何も見えない。

 

 中は一体どうなっているのだろう……

 

 もはや好奇心としか言いようがないが、中を見たくて仕方がなかった。

 

 庭に面した掃き出し窓には全て雨戸が引かれていて、外からの視線を完全に遮断している。

 建物の周りを回って裏手もよく見てみるが、勝手口もないし、書庫のある裏庭に向いた小さな明かり取りが並んでいるだけ。出入りできそうなところも、様子を伺えそうな場所も無かった。

 

「やはり無理か──」

 

 ため息混じりに小さく独りごちて、僕はその場を後にした。

 

 

    ◇

   

   

 その後は何事もなく日々が過ぎていき、また金曜日がやって来た。

 

 今日は天気も良く、雨の心配はない。前回よりもゆっくり話ができるだろう。

 時子様の婚姻にまつわる謎が解けるかもしれない……その期待はもちろんあるのだが、それを知ったところで僕に何ができるのだろう、という無力感も混じり合って、なんだか複雑な心境だった。

 

 

 夜──

 暗闇の中に白く佇む書庫に近づくと、今日は窓から僅かな灯りがもれているのが見えた。

 ドアの鍵は締まっている。手に持った鍵で解錠し扉を押すと、椅子に座って俯いている曄子様の姿があった。前に言っていたように、裏の通用口から忍び込んだのだろう。

 

「先生……」

 僕に気づいて顔を上げた曄子様は、浮かない表情で椅子から立ち上がった。

「お待たせして申し訳ありません。前回より早く部屋を出たつもりだったのですが……何かあったのですか?」

「実は──一刻も早く、先生にお話ししたいことがあるのです」

 

 

 脇机を挟んで向かい側に座ろうとすると、曄子様が待ちきれないというように早々に口を開いた。

 

「先日お話しした、隠居した老女に話を聞いて参りました。ただ……」

「ただ?」

「ちょっと、おかしな事を言われたのです」

 おかしな事──

 

「……正誠は、お父様の子ではないかもしれない、と」

「え──?それは、どういうことでしょうか?」

 

 曄子様は大きく息を吸い込んだ後、ゆっくりと話を続けた。 

 

「時子様は元々、この家に行儀見習いに来ていた地方の商家のお嬢様だったそうです。口数が少なく大人しい性格だったようですが、真面目で働き者で、祖父にも気に入られていたらしいのです。それが、(うち)に来て半年ほどしたある日、急に具合が悪いと言って部屋から出てこなくなり、お医者様に診てもらってしばらくした後……突然、父との再婚話が降って湧いた、と言うのです」

 ちらりと僕の顔を見る曄子様に、先を促すように相槌を打った。

 

「話が出てから婚儀まで、二週間もなかったそうです。参列者も殆ど無く、形だけの式だったそうですが、その老女は介添人として時子様の着付けや世話をしたのだそうです。で……その時──」

「その時?」

 言いにくそうに一瞬間が開く。

 

「時子様のお腹が、少し膨らんでいるように見えた、と……」

「それは──その、ご懐妊されているようだった、ということですか?」

 曄子様は小さく頷く。

「お嬢様には言い難い話ですが、それは単に、縁談が出る以前から実誠様のお手が付いていた、という事ではないのでしょうか?」

「それはありません。時子様が奉公に来始めた頃、父はご友人を訪ねてイギリスに行かれていたのですから。戻られたのは、縁談が出る直前でした」

「間違いありませんか?」

「はい。お土産に可愛らしいクマのぬいぐるみをいただいて、とても嬉しかったので良く覚えております」

 

 そんな、馬鹿な──

 

 自分の息子に、他人の子を孕んでいる女性を嫁がせるなんて、聞いたことがない。

 

「その時は、その老女一人しか時子様のお姿を見ていなかったそうで、見間違いだと思っていたらしいのですが……」

「他にも思い当たることが?」

「はい。結婚後も、父は時子様と(ねや)を共にすることを嫌がっていたそうなのです。それなのに、十月(とつき)と経たないうちに正誠が産まれたので、女中達がみな、時子様は不貞の子を産んだのだと騒ぎ立てたそうで」

 

 予想外の話に、僕は唖然としてしまった。

 

「最終的には、そんな事はないと祖父が一喝して騒ぎを収めたらしいのですが、老女だけは婚儀の際の時子様のお姿を見ていたので、間違いないと思った、と言っていました」

 

 家柄の違いを謗られるどころの話じゃない。不貞疑惑まであったとは──

 

 時子様が(みごも)っていた事を、実誠様は知っていたのだろうか?

 もし知っていたならば、頑なに再婚を拒否していたのも、同衾を避けたのも頷ける。誰の子かもわからない子供を自分の子として受け入れられる程、寛容な男などそうそういない。

 

 奉公に出る前に、郷に恋人がいたのだろうか?でも、それなら実誠様に嫁がせる必要はない。そのまま実家に帰せばいいだけの話だ。

 

 ということは、この家の誰かの──?

 

「先生、わたくしはどうすればよろしいのでしょうか……」

 

 今にも泣きそうな顔で僕を見る曄子様に、これ以上何かを探らせるわけにはいかない。

 

「大旦那様が他界してしまっている今、本当の事を知っているのはおそらく旦那様と時子様だけでしょう。でも、曄子様にこれ以上のお願いをするわけにはまいりません」

 まして男女の間の事となれば、曄子様に聞かせるのは憚られる内容もあるだろう。

 

「私が他の使用人に話を聞いてみます。当時から勤めている人は他にもいるでしょうし、何か知っている方がいるかもしれません。曄子様はいつも通り、何も気になさらずにお過ごしください」

「でも、正誠は……」

「正誠様は、引き続き私がお側におりますから大丈夫です。それに、出生はどうあれ、今は棡原家の嫡男として、立派に成長されておいでです」 

「そう……ですね」

 

 俯いて、何かに耐えるように唇を噛み締めていた曄子様が、小さく呟いた。

「──先生」

 

「はい……?」

 

 蝋燭の光を受けて輝きを宿す曄子様の瞳が、僕を見上げてゆらりと揺れた。

 

 あ──

 そうか。彼女だって一人きりで──

 

 心細いと、訴えられているような気がして胸が痛む。こんな秘密を、たった一人で抱いて過ごさなければならないなんて、苦しいに決まっている。

 その瞬間、ぽろりと零れ落ちた涙に思わず手を伸ばして、彼女の頬を拭った。

 

「曄子様……」

 

 女性の泣き顔を見るのは苦手だ。痛々しくて、どうにかしてあげたいのに、どうすれば良いのかわからない。砂浜で泣く母を見ていた、あの頃と同じように──

 何と声をかければ良いのかもわからず、ただ黙って溢れる涙を拭い続けるしか出来ない。

 

 でも、あの頃と違うのは……

 

 柔らかくて温かい感触が、僕の心臓を激しく打ち鳴らして、身体の芯に火が灯ったように熱くなる。

 

 こんな感覚は、初めてだ──

 

 初めはびくりと身体を揺らした曄子様も、やがて僕の手に軽く頬擦りをするようにして、ゆっくりと瞼を閉じた。

 ぶわりと顔に熱が昇って、額に汗が滲んでくる。鼓動が掌から伝わってしまうのではないかと心配になった。

 

「誰かにこうして触れられるのは、久しぶりです。とても、暖かい……先生の手は、母の手に似ている気がします。触れるだけで、不思議と心が落ち着くような──」

 

「……そうですか。それなら、よかった」

 

 その言葉に、歯がゆいような締め付けられるような、複雑な感覚が湧き上がってくる。

 

 そうだ。彼女もまた、甘えたい盛りに母を失った子供だったのだ。寂しさも心細さも、今までずっと一人で抱え込んできたに違いない。


「お側に居て差し上げられず、申し訳ありません。もしお辛いのなら、これ以上この件を調べるのはやめにしましょう。正誠様は曄子様の弟君で、この家の次期当主になられる方──それは紛れもない事実です。正誠様の寂しさも、きっと成長と共に薄れるでしょう」

 姉弟どちらの痛みもわかるから、余計に過ぎた出来事で悲しい思いはさせたくない。

 

 しかし、曄子様は頬に添えられた僕の手をぎゅっと握って、強さの戻った眼差しをこちらに向けた。


「いえ。ここまで知ってしまったのですから、もう後には引けません。たとえ調べる事をやめても、これから先、何も無かったようには過ごせませんから。でも……先生が止めるというのでしたら、わたくしも──」

 

 本当に、この少女の強さはどこから来るのだろう。

 

「私は……知りたいのです。時子様の苦しみの理由を。そうすれば、正誠様を悲しませているものの正体も、分かるような気がするのです。だから……」

 

 たとえそれが、辛い現実だったとしても──

 

「先生。わたくしは、先生のお力になりたい。お手伝いをさせていただけますか?」

 

 健気な瞳に、もう涙は無かった。

 

「もちろんです。では、曄子様に一つお願いがございます」

「なんでしょうか?」

「次にお会いする時に、ご家族のお写真がありましたらお持ちいただけますか?出来るだけ皆様お揃いの写真を」

「わかりました。確か、父と母の婚儀の際の写真があったと思いますので、持って参ります」

「よろしくお願いいたします」

 

 赤くなった目を細めて、彼女が柔らかく微笑む。それから、小さな声がこの夜の終わりを告げた。

 

「では……そろそろ、戻ります」

 

 燭台を手に扉を出ようとする彼女に、思わず声をかけた。一歩外に出たところで振り返る彼女に歩み寄り、手を握る。

 

「曄子様」

 

 驚いたように僕を見る彼女の目をまっすぐに見つめる。


「曄子様は一人ではありません。私がいることを、忘れないで」

 

「ありがとうございます、先生」

 

 そう言って背を向ける彼女を、僕は戸口にもたれるようにして見送った。

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