六 初めての密会
【作中用語解説】
老女……武家や公家の"奥"を取り仕切る、侍女頭を務める女性のこと。時に当主の正室よりも強い権限を持つこともあった。
("奥"については「ep.3 二 棡原家」に詳しく書かれています)
翌日の金曜日は、朝からどんよりとした曇り空だった。
正誠様は昨夜の寝不足のせいか、今日は学校に行きたくないと駄々をこね部屋から一歩も出てこないでいる。しかし、その原因が寝不足だけでは無いことが僕には分かっていた。
何とかして奥様にお会いできないものか──
そんな思いで、朝食を済ませると詰所に向かい橘氏を訪ねた。分厚い書類の束を手に持って難しい顔で椅子に座っている御仁に、どんな調子で声を掛けたものかと一思案してから、意を決して口を開いた。
「あの、私はまだ奥様にご挨拶をしていないのですが、よろしいのでしょうか?ご子息のご様子を気にされていらっしゃるのではと、心配しているのですが」
先に視線だけをこちらに向けてから、徐にああ、と言って橘氏が顔を上げる。先程までの難しい顔は消えて、困ったような表情が浮かんでいた。
「実は、時子様は以前から体調を崩していらっしゃって、今はお会いになれないのです」
「そうでしたか……」
「若様のご様子や学業の進捗は、私から老女を通じて報告いたしますので、ご安心ください」
「……わかりました。よろしくお願いいたします」
僕の言葉に軽く頷いた橘氏は、手に持っていた書類の束に視線を戻し、そこに何か書き付け始めた。
「あの──もう一つお聞きしたいことがあるのですが」
「何でしょう」
今度は視線を上げることなく、淡々とした返事が返ってきた。
「昨夜、正誠様に請われてお部屋へ伺ったのですが、その時に……その、母上様が自分に関心を持ってくださらない、というような相談を受けたのです。ずいぶんと気に病まれているようでしたので、気がかりで──
失礼とは存じますが、時子様とはどの様なお方なのですか?」
驚いた様に目を見開いた橘氏だったが、その瞳が徐々に憂いを帯びていく。
「今朝若様のご様子がおかしかったのは、そのせいですか」
「次期当主様といえど、まだ幼い子供です。母上様の愛情に飢えて悲しんでいる姿は居た堪れません。何か手助け出来ればと思いまして」
橘氏は一瞬躊躇したように天井を見た後、仕方ないというような口ぶりで話をし始めた。
「時子様は、ご実家が公家でも華族でもない、商家のご出身なのですが、亡くなった大旦那様の御一存で半ば強引に実誠様に嫁いでこられたのです。そのせいで、ご結婚当初から周囲の風当たりが強かった。
それで心労が祟ったのか、体調を崩してしまわれたのです。正誠様がお生まれになってからは殊更で、最近はほとんど自室からお出になりません。若様にも滅多にお会いにならないそうです」
「大旦那様はなぜそのようなご身分の違う方を、ご子息の結婚相手に選ばれたのでしょうか?」
「それは、私には分かりかねます。旦那様も当時のことはあまり話したがりませんので」
「そうですか……」
それ以上話せることは無い、と橘氏に言われてしまったので、仕方なく頭を下げて詰所を辞した。
それでも、昨夜の正誠様の痛々しいご様子が頭から離れない。少しでも出来ることはないだろうか。
「──そうだ」
ふと思いついて急いで食堂に向かうと、甘い物を調達して正誠様の部屋を目指した。
今の僕に出来るのは、少しでも寄り添ってさしあげることだけだ──
◇
夜になり、一層厚さを増した黒い雲が月を隠して、木立の中には真の闇が蔓延っている。
曄子様との約束の場所へと向かって暗い庭を歩いている僕は、妙にそわそわしている自分に気づいて頭を掻いた。
「まいったな……」
自分から言い出しておいて、今更ながら大それた約束をしたものだと、内心冷や汗をかいていた。
伯爵家のご令嬢と夜の密会だなんて、旦那様に知れたら打首にあっても文句は言えない。
いや、その前に──
冷静に考えれば、女性が夜中に男の待つ部屋に一人きりでやってくるなんて、常識的にあり得ない。きっと曄子様も、思い直して来るのをおやめになるだろう。
それでも、万に一つの可能性を捨てきれず、僕は鍵穴に鍵を差し込んで書庫のドアを開けた。
中には、案の定誰の姿も無かった。
真っ暗な部屋にオイルランプの明かりが揺れる。脇机の隣に置かれた椅子に腰掛けると、無意識に今日の記憶を追想し始めた。
昼間、正誠様の部屋を訪ね、饅頭を食べながら二人で他愛もない話をした。そのうちに正誠様にも笑顔が戻り、ほっとしたのだった。
心を病んだ母と愛に飢えた子──まるで僕の幼い頃と同じじゃないか。
それにしても、正誠様には姉上が……曄子様がいたのではなかったのか?曄子様は、母君との関係に何か思うところはなかったのだろうか。
そう考えていた矢先、ギィッと扉が開く音がして件の姫君が姿を現した。
「ごきげんよう、先生」
「……まさか本当にいらっしゃるとは。なかなかの豪胆ですね、曄子様」
立ち上がり、向かい側に置いた椅子を引いて手を差し出すと、少女は不思議そうに微笑んでから僕の手を取り、ゆっくりと腰を下ろした。彼女が持って来た燭台を机の上に置くと、山吹色の綸子の着物に炎の光が当たり、地紋がくっきりと浮かび上がる。裾には大輪の薔薇の花が咲き誇っていた。
オイルランプがあるからと蝋燭を吹き消す曄子様を見ながら、不思議と安堵している自分を心の中で自嘲した。
「いらっしゃらないかと思っておりました」
「あら、何故ですか?」
「嫁入り前の華族の子女が夜中に男と密会だなんて、世間に知れたら新聞の一面を賑わす大騒動ですよ」
「ふふ、それもそうですね。でもわたくしは、先生とお話しがしたかったのですもの」
「それは……嬉しいお言葉です。実は私も、曄子様にお聞きしたいことがあったのですよ」
首を傾げて見上げる顔が、なんともあどけない。こんな少女に、病に冒された母上の話など、させてしまって良いのだろうか。それでも、他に聞ける人もいないのだ。
対面の椅子に腰掛け、改めて曄子様に向き直り話を切り出した。
「母上様のお加減は如何ですか?体調がお悪いとお聞きしましたので。お嬢様としても、さぞやご心配でしょう」
「……母、とは時子様のことをおっしゃっているのでしょうか」
「はい」
曄子様は、言葉を探すように視線を彷徨わせてから、口を噤んで目を伏せた。
──僕は何かおかしなことを言っただろうか。
「わたくしは時子様の娘ではございません」
「え?」
「時子様は、わたくしの母が亡くなったあと、後妻に入られたのです」
「そうだったのですか……それは、失礼いたしました。では、正誠様は──」
「異母姉弟、というのでしょうか。正誠は時子様の実子ですので。わたくしの母は、わたくしが五つの時に、病気で亡くなりました。その後、時子様が父のところへ嫁いでこられたのです」
「それは、どういう経緯だったのでしょうか?」
橘氏によれば、分不相応な婚姻だったというが……
「あの……先生は、何故このようなことをお聞きになるのですか?」
「え……と、その──」
怪しまれるのも無理はない。
仕方なく、昨夜の正誠様の部屋での出来事、今朝橘氏から時子様の話を聞いたことを曄子様に伝えた。そして、正誠様をなんとか助けて差し上げたいのだと。
「わかりました。弟のためでしたら、わたくしで分かることならお答えします」
「ありがとうございます」
「ただ、わたくしも幼かったので、あまりはっきりとは記憶しておりませんが……」
「覚えていることだけで結構です」
曄子様も、当時は十にも満たない子供だったのだ。記憶が曖昧でも当然だろう。
「あの頃はまだお祖父様が健在で、時子様を後妻にと強く勧めたようなのです」
「お祖父様……亡くなった大旦那様ですか?」
「そうです。正誠が産まれて一年ほどした頃、心臓を悪くして亡くなりました」
「お父様も再婚を望んでいらしたのでしょうか?」
「いいえ。父は再婚をとても嫌がっていて、毎晩のように祖父と言い争っていました。その声が怖くて、お付きの女中の布団に潜り込んで一緒に寝ていたのを覚えています。でも、当主である祖父の言うことは絶対でしたから、結局は父も祖父の言うとおりに時子様と再婚したのです」
あの旦那様も、父君には逆らえなかったということか──
「時子様は家柄が相応しくなかったために、周囲からの風当たりが強かったとお聞きしました。そのせいで体調を崩されたとか。何故大旦那様は、そこまで強行に実誠様と時子様を再婚させたのでしょう」
「それは、わたくしにもわかりません」
それもそうだろう。そこはやはり旦那様に聞くしかないが、そんなことが出来るとも思えない。誰か、当時のことを知っている使用人でも居ればいいのだが……
「当時わたくしの世話をしてくださっていた老女が、すでに隠居して奥の一室に住っております。なんとか話を聞くことができれば良いのですが」
「それは願ってもない!でも、曄子様にそのようなことをさせてしまって大丈夫なのですか?」
「わたくしにとっては母代わりのようなお方なのです。時々遊びに行くくらいなら、お付きの女中も大目に見てくれるでしょう」
にっこりと笑って僕を見る曄子様に、僕も笑顔を返す。このお姫様は、自分も籠の鳥のような暮らしをなさっているのに、なんて素直で優しく逞しいのか──
会話が途切れて静寂が訪れたその時、どこからかゴロゴロと不穏な音が聞こえてきて二人で視線を彷徨わせた。
──雷鳴だ
「曄子様、雨が降り出す前にそろそろお戻りください。大事なお召し物が濡れてしまっては大変です。お話の続きはまた来週に」
「はい……あの、先生」
「なんでしょう──?」
「正誠を、何卒よろしくお願い申し上げます。あの子は、先生以外に頼る人もなく孤独なのだと思います」
「……承知いたしました。曄子様も、どうかご自愛を」
燭台を手に書庫を出ていく後ろ姿を見送りながら、一抹の名残惜しさを感じている自分に思わずため息を溢した。