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五 記憶の残像

 数日後、正誠様の生活の場が表に移され、初めてお一人でお休みになる夜がやってきた。

 

 今までは母親である奥様や世話役の老女達と一緒に寝起きしていたのだろうから、急に一人きりになってかなり心細かったのだろう。夜中に僕の部屋を訪ねてきて、寝付くまで一緒にいて欲しいと言ってきた。

 子供らしい我儘を承諾し二人で正誠様の部屋に戻ると、ベッドに入った若様の隣に椅子を置いて腰を下ろした。

 

「さて、何かお話でもいたしましょうか。私の故郷に伝わる昔話などはいかがですか?」

 ふるふると首を振って、正誠様は円な瞳を僕に向けた。

「実は、先生にお聞きしたいことがあったのです」

「おや、何でしょう。難しい質問でなければ良いのですが」

 笑顔でそう言うと、布団を鼻先まで上げた若様が口籠もりながら問いかけてくる。


「一之瀬先生のお父上は、どのようなお方だったのですか?」

「……私の父、ですか──?」

 意外な質問に、一瞬戸惑ってしまった。隠すことでもないが、話して聞かせられるようなことは幾らもない。

「私の父は軍人でした。軍艦に乗って海を航る、海軍将校だったのです。私が幼い頃、戦に行って戦死いたしました。ですから、父のことはあまり覚えていないのです」

「では、母上様は?」

「母も──父が戦死したすぐ後に、亡くなりました」

 それ以上は、幼い子供に話すことではない。そう思って口を噤んだ。

 

「では、先生は使用人や女中と暮らしていたのですか?」

「はは、私の家は正誠様の家と違って使用人などおりませんでしたから、母方の実家で祖父母と三人で暮らしておりました。兵学校の寮に入ってしばらくして、祖父母も相次いで亡くなりましたが」

 そうですか、という小さな声がしたきり、次の言葉はなかった。

 

 子供時代を思い出すのは何時ぶりだろうか。ふと、記憶の奥底にしまい込んでいた、心を失った母の姿が脳裏に蘇る。呼んでも縋っても顔すら向けてくれない母の、冷たい指先の感覚を思い出して堪らずに目を閉じた。

 頭の中がちりちりと焼けるような、痛みにも似た焦燥感に襲われたその時、僕の手に温かい感触が伝わってハッとした。正誠様の小さな手が、無意識に握りしめていた拳にそっと添えられていたのだ。

 

「先生も、寂しかったのですね」

 

 先生も──

 

「正誠様も、寂しかったのですか?母上様と離れて表へ出られることが」  

「いえ。離れることは寂しくはありませんでした。そうではなく……」

 僕を見上げる目に、うっすらと涙が滲んでいる。

 

「母上は、一度も私を可愛がってくれたことがないのです。私の目を真っ直ぐに見てくれたこともありません。側にいるのに、いつも母が遠い存在に思えて……寂しかった。将来当主として家を継ぐべき男子の母とは、そういうものなのでしょうか。あえて厳しく接しているのでしょうか──」

 目尻からぽろりと雫が零れ落ちて、枕に染み込んで消えていった。

 幼い正誠様の苦しみが、痛いほど伝わってくる。きっとこの少年は、たくさんの大人に囲まれているのにもかかわらず、誰よりも孤独なのだろう。


「父には……私の他に男子がおりましたので、私は跡目を継ぐ必要がありませんでした。ですから世継ぎとして育てられるというのがどれほど大変なことなのか、実際にはわかりませんが──正誠様が立派な当主様になれるように、おそらく母上様も心を鬼にして辛く当たっていらっしゃるのではないでしょうか」


 引き結んだ唇を噛み締めて、こちらに向ける目に少しだけ苛立ちが滲んだ気がした。

「強くなるためだと、ずっと寂しさを我慢していました。でも……学校の友人達の話を聞いていると、何か違うのです。友人達の母上のような愛情のこもった厳しさとは、別の……関心すら持たれていないような、存在を否定されているような気がして、悲しくてならないのです──」

 僕の拳に重なった手に、ぎゅっと力がこもる。縋り付くようなその手に僕の反対の手を重ねると、ベッドの中の少年は声を殺して泣き始めた。

 

 なんだか、似ている

 

 そう思った途端、僕の目からも涙が溢れた。

 

 そう……僕も、悲しかった。父を失ったことよりも、母が死んだ時よりも──母が僕を見てくれなくなったことが、何より悲しかった。この身を抉られるように、心が痛くて堪らなかった。何故僕の手を握ってくれなかったのか。何故母親として、縋り付く我が子を抱きしめてくれなかったのか……

 

 母に捨てられた悲しみを、ずっと引きずって生きてきた。それを見透かされたように感じて、思わず(こうべ)を垂れ顔を背けた。

 しかし、お互いの手に縋るようにして、心の澱を涙と一緒に吐き出すと、不思議と少しだけ心が楽になった気がした。

 

 この小さな少年は、僕の悲しみを見抜いた。それは自身も、同じような悲しみを知っているからだ。自分だけが苦しんでいるのではないという思いが、重くのしかかっていた重石を僅かに軽くする。

 

「きっと母上様は、正誠様のことを愛していらっしゃいますよ。大丈夫です──」

 

 それは、過去の自分への慰めでもある。きっと母にも、僕を愛してくれていた時があったと……そう思わなければ、やりきれない。

 

 やがて泣き疲れたのか、正誠様は頬を濡らしたまま寝息を立て始めていた。

 

 なぜ奥様がご子息にそんな態度をとるのか、理由はわからない。そもそも、僕はまだ奥様に会ったことすらないのだ。けれど、幼い心にこんなにも傷を付けていい理由など無い。どんな事情があるにせよ、子供へ愛を注ぐことを親が放棄したら、子は永遠に寄る辺を失ってしまうのだから。

 

 重ねていた手をそっと引き抜き、ため息を一つつくと窓辺に寄って夜空を見上げた。故郷の空に比べれば少ない星々に、僕は祈るしかできない。

 この傷付いた少年の心が、どうか癒される日がくるように、と──

 

 正誠様の様子を見ようと振り返ろうとした時、視界の端に小さな明かりが見えた気がして窓の外に目を向けた。眼下には水面に月を映した池と、その中程にある小島に渡るための小さな太鼓橋。そこから右に視線を動かしていくと、奥の方に和館が見える。僕の部屋からは、建物から張り出すように作られた煙突の壁のせいで見えないのだ。

 

 そして──

 和館の一番奥、あの小窓に灯りが点っている?

 

 気になってしばらく見ていると、一瞬窓の光りが遮られたように暗くなり、すぐにまた明るくなった。まるで、誰かが電灯の前を横切ったかのように……


 和館は賓客をもてなすための建物で、普段は使われることはないと聞いた。では一体なぜ灯りが点いているのだろう。こんな夜中に、誰が何をしているのだろうか。

 そういえば先日──橘氏に案内されて初めて書庫へ行ったあの日、帰り際にあの窓の付近で物音を聞いた気がした。

 これだけ大きなお屋敷に、たくさんの使用人がいるのだ。誰かが何か用があって、和館に立ち入ることがあっても不思議はないだろう。それでも、何故かもやもやとした違和感を感じるのだ。

 それに、外部からの侵入者の可能性だって否定できない。やはり確認しておいたほうがいいのではないか。

 

 正誠様の寝顔を一瞥してスタンドライトのスイッチを切ると、僕は部屋のドアを静かに開けて暗い廊下へと足を踏み出した。

 

 

   ◇

   

   

 一度自室に戻り、橘氏から借りたままのオイルランプを手に取ると、玄関から前庭へ出て和館を目指した。

 ついさっき正誠様の部屋から見えた太鼓橋を左手に見ながら庭の奥へと歩いていくと、正面に見える和館はまるで小高い山のように、黒々とした姿を横たえていた。そのどこにも、明かりの灯った窓など見当たらない。前庭に面した窓には全て雨戸が引かれ、先程明かりが見えた窓だけは磨りガラスが嵌められているが、今は格子に縁取られた闇が張り付いているだけだ。

 

 それにしても、この建物は変わった造りをしている。瓦屋根の乗った木造平屋建ての日本家屋だが、元々玄関だったと思われるところに無理矢理洋館からの渡り廊下を繋げたようだ。

 その渡り廊下も、瓦屋根と板壁で囲われており、壁には腰高窓が設けられているが全て雨戸で塞がれている。どこにも入口のようなものは見当たらない。

 どうしたものかと、困惑して立ち尽くしていると、月光を背にした足元に人影が伸びてきて、思わずぎくりとした。

 

「おや、一ノ瀬先生。こんなところで、どうなさったのですか?」

 背後から掛けられた声に、ハッとして振り返る。この声は──

 

「──旦那様」

 振り向いた先には実誠様の姿があった。逆光で影を纏ったその容姿に、何故かぞくりと背中が粟立つ。

 

「実は……部屋の窓から外を見ていましたら、和館の端の窓に灯りが点いておりまして。誰かいるようだったので……気になって来てみたのです」

 言いながら真っ暗な建物を見上げ、何の気配もない小窓にもう一度目を凝らした。

 

「それはおかしいですね。和館に入るには母屋から渡り廊下を通るしかないのですが、入り口には鍵がかかっているので、誰でも入れる訳ではありません。窓も全て閉まっていますし、何かの見間違いではありませんか?」

 

「そうですか……もしや不届者が侵入しているのではないかと心配したのですが、扉や窓をこじ開けて無理矢理押し入ったような形跡も見当たりませんし──見間違い、だったのかも知れませんね」

 

 旦那様は微笑みを湛えているものの、それ以上聞くことは許されない様な気がした。失礼しますと会釈をすると、僕は踵を返して母屋へと向かった。

 

 実誠様は何故、此処にいらっしゃったのだろう。

 

 しかし、それを口にする勇気はない。背中に感じる視線が、まとわりつくように僕の心を拘束して離さなかった。

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