四 出会い
夜の前庭は、母屋の窓から漏れる僅かな明かりにほんのりと照らされ、目が慣れればなんとか歩けなくもなかった。しかし和館に近づくにつれ闇が深くなり、橘氏に借りてきた手提げのオイルランプだけが足元を照らす唯一の灯りだ。
今夜は十三夜。とはいえ、月明かりだけでは数歩先を見通すことも出来ない。
昼間と同じ道を辿っているのに、鬱蒼と茂る木々が作る黒々とした闇が、まるで違う場所のような表情を見せている。すぐ右手には和館の外壁があり、四角く切り取られたように見える小窓は、昼間同様、なんの気配も宿すことなくぴたりと閉じられている。
やがて正面に見えてきた目的の書庫は、白い壁が月光を受けてほの明るく浮かび上がり異様な存在感を放っていた。
ランプで手元を照らしながら鍵を開け、できるだけ音を立てないようにゆっくりとドアを押した。室内に徐々に光が差し込み、そこだけ暗闇が払い除けられていく。しかし頼りないランプ一つでは、部屋の隅まで照らすことはできない。そここそに蟠った闇がより一層濃くなったような気がして、一瞬背筋がぞくりと粟立った。
右手に持ったランプを高く掲げ、棚に並んだ本の背表紙を一つ一つ読んでいく。題名からの推測になるが、この辺りには医学書が並んでいるようだ。これは難しすぎて僕には読めないだろう。
隣の棚に視線を移すと、シェイクスピアやダニエル・デフォー、スウィフトなどイギリス文学を代表する作家の著作がずらりと並んでいる。
「これは凄い……」
日本ではなかなか手に入らない貴重な本がたくさんある。手近にあった脇机にランプを置いて本を手に取ると、天や小口は茶色く変色しているが中は綺麗で状態は良い。本好きの人間にとって、こんな宝の山に出会える機会は滅多にないことで、本当に夢のようだ。
夢中で本を物色していると、不意にランプの炎が消え目の前が真っ暗になった。
「!」
突然のことに驚いて心臓がどきりと高鳴った。耳を澄ましながら漆黒の中に視線を彷徨わせ、辺りの様子を伺ってみるけれど、視覚からの情報は何も得られない。
しかし徐々に目が慣れてくると、窓から差し込む弱々しい月の光で部屋の輪郭が青白く見え始めた。
その時──
ギィ……と蝶番の軋む音がして、ひんやりとした風が吹き込んできた。続けて聞こえた床を踏む足音に、頭頂部から冷や汗が吹き出す。
誰かが、入ってきた──?
息を殺してじっとしていると、月明かりでぼんやりと白く見える床に人影が映って、それがゆっくりと揺れ動いた。思わず後退りした瞬間、その影の主が予想外の声を発した。
「……どなたか、いらっしゃるのですか?」
それは、か細い女性の声だった。いや、幼い少女のそれと言ったほうがしっくりくる、高くてあどけない──暗闇に向かって恐る恐る上げられたようなその声は、明らかに震えている。
「──ここに、おります」
出来るだけ怖がらせないよう声を抑えて答えたつもりだったが、どうやら恐怖心に火をつけてしまったようだ。
大きく息を吸い込む音が聞こえて、女性が声を上げようとしている気配がする。反射的にその影に近づいて腕を前へと伸ばしてしまった。
「私は若様の家庭教師として昨日こちらに参った者です。どうか、落ち着いて……」
声のした方に向かって伸ばした僕の手は相手の肩口に触れ、咄嗟にぐっと力を込めて掴んだ掌には硬い骨の感触が伝わってきた。
なんて、細い──
ガタガタと肩を震わせ、喉が引き攣ったような小さな高音が浅く早い呼吸に合わせて漏れ聞こえてくる。悲鳴も上げられないほどに、恐怖で身体中が硬直してしまっているようだ。
「怖がらせてしまって申し訳ありません。今、灯りを点けますので……手を離します。何もいたしませんから、大丈夫──」
言いながら袂に入れていたマッチを取り出し、脇机の上のランプを手探りで手繰り寄せた。シュッという音と共にマッチに炎が灯りランプの芯に点火すると、柔らかな光が僕と向かい合って立つ彼女とを明るく照らした。
と、次の瞬間──目の前の女性の上体がゆらりと揺れて、膝から崩れ落ちていく。慌てて抱き止めると、二人ともそのまま床に座り込むような姿勢になってしまった。
「大丈夫ですか?しっかりして」
青ざめた顔を気怠げに持ち上げたその女性は、まだ意識が朦朧としている様子なのに、僕の腕を押し返しながら恥じらうように顔を背けた。
薄い萌葱色の紋錦紗の小振袖、金糸がたっぷりと使われた贅沢な丸帯──もちろん女中などという訳はない。明らかに身分の高い女性の身なりだ。
「本当に申し訳ありませんでした。驚かすつもりはなかったのですが……」
「わたくしこそ、こんな醜態をお見せして申し訳ありません」
ランプの光に眩しそうに瞬きながら腕の中から抜け出そうとするその人は、まだふらふらとおぼつかない様子で僕の腕に掴まったまま頭を下げる。
「いや、怖かったでしょう。暗闇で肩を掴まれたら誰でも腰を抜かしますよ」
「大変失礼いたしました。弟の……先生でいらしたのですね」
弟──
「正誠様に姉君がいらっしゃるとは、存じませんでした。旦那様からも何も伺っておりませんでしたので……」
「棡原曄子と申します。父は……わたくしがあまり他人の目に触れるのが好きではありませんの。ですから、何も話さなかったのだと思います」
「それは、どういう……」
目を伏せて表情を曇らせる曄子様は、それきり黙り込んでしまった。家の事情を知らない余所者が、あまり詮索すべきことではではなさそうだ。
「私は一之瀬馨と申します。正誠様に英語を教えるために雇われました。ここには、講義に使う為の本を探しに来たのです。自由に使って良いと、橘さんから鍵をお預かりしたので」
「そうでしたか。窓から明かりが見えたのに、扉を開けたら真っ暗で……幽霊でもいるのかと思ってしまいました」
「風でランプの火が消えたのでしょう。それにしても、その状況で迂闊に扉を開けるのは無用心極まりない。幽霊ならまだしも泥棒や盗賊がいたら、命がなかったかもしれませんよ」
「ええ、そうですわね」
おっとりと微笑む曄子様は、きっと犯罪などという俗社会の汚れた部分とは無縁の世界で生きてきたのだろう。
「それにしても、どうしてお姫様がこんな夜遅くにこんな場所へ?」
一瞬躊躇うような間をおいて、恥ずかしそうに着物の袖口で口元を隠しながら僕を見る。
「ここはわたくしのお気に入りの場所なんです。実は、裏にある通用口の鍵が壊れていて、いつもこっそり忍び込んでは一人きりで本を読んでいますのよ」
いたずらっぽく笑う曄子様が、着物の汚れを払いながら立ち上がろうとするのに手を貸して、僕も立ち上がる。
「それは、ずいぶんとお転婆なお姫様ですね。でも、それならもっと明るい時間にいらっしゃったほうが良いのでは?」
「昼間は、出歩くことを禁止されておりますので」
「禁止って……学校には行っていらっしゃらないのですか?」
見たところ、歳は十五、六といったところか。華族のお嬢様なら普通、女子学習院に通っている筈だ。
「わたくしは、学校に通わせてもらったことがございませんの。漢字も英語も、読み書きはずっと父に教えられてきました。昼間はお付きの女中が四六時中付いていますし、外へ出るのは精々庭の池の周りを回る程度。夜、お供が自室に下がった後にこっそり寝室を抜け出してここに来ることが、わたくしの唯一の楽しみなのです」
──箱入り娘にも程がある。それこそ一昔前のお姫様だ。実誠様は余程このお嬢様が大事なのだろうか?にしても、少々度が過ぎているような気もするが。
「ですから……先生、お願いでございます。どうか、父にはこの事は……」
「ご安心ください。伯爵家のお姫様と夜中に二人きりで居たなんて知れたら、私の首も文字通り飛んでしまいますよ。誰にも秘密にしておきますから」
安堵したように一つ息を吐いて笑顔を見せる曄子様が、なんだか不憫に思えてしまった。
「あの、先生。わたくしにも英語を教えてくださるかしら?」
「お父上に教わったのでしたら、英語はあなたの方が堪能でしょう。でも、話し相手でしたらいつでもお引き受けいたしますよ」
「まあ、嬉しい!」
まだ幼さの残る笑顔がいじらしく、なんとも可愛らしい。
「では、毎週金曜日の夜にここでお会いするというのはいかがですか?ご都合が悪ければ、無理にいらっしゃらなくても構いません」
「承知いたしました。楽しみが増えて嬉しゅうございます」
顔を輝かせて嬉々とする曄子様につられて、僕も嬉しくなって笑う。他に楽しみが無いというのも可哀想な話だが、少しでもこの少女を笑顔にできるのであれば、秘密を共有するのも悪くはない。
その夜は、幼い子供達が他愛もないいたずらをした時のように、ほんの少しの罪悪感と連帯感からくる高揚が、僕の胸を高鳴らせて止まなかった。