三 書庫
唐突に覚醒して、大きく見開いた瞼から明るい光が飛び込んできた。
高い天井、やけに柔らかく寝心地の良い布団──
ここは、どこだ……?
数回瞬きを繰り返しながら、目だけを動かして辺りを見回していると、ようやく昨日の記憶が少しづつ蘇ってくる。
そうだ、ここは東京
棡原家のお屋敷だ
江田島から汽車を乗り継ぎ、やっとの思いで辿り着いた東京で得た新しい住処。この部屋で一人になった途端気が抜けたのか、気絶するように眠ってしまったのだった。
しかし、今が何時で、朝なのか昼なのか、それすらも分からない。ここに案内されたのが夕刻も近い頃だったのは覚えているが、それからどれ程の時間眠りこけていたのか……
ベッドの上でごろりと横を向き、窓の方へと顔を向ける。日差しの色は白く、鳥の囀りが遠くから聞こえてくる。
おそらくは、朝
疲れていたとはいえ、随分と長く眠っていたようだ。一張羅の背広は、上着こそ脱いでいたもののズボンは皺だらけ、シャツは汗を吸ってじっとりと肌に張り付いている。おまけに空腹とくれば不快この上なく、徐に上半身を起こすと首元のボタンを幾つか外してため息をついた。
水と食事──
その入手方法を昨日確認しておかなかった自分が悔やまれる。カラカラになった喉に唾を飲み下し、のっそりと立ち上がって部屋のドアを開ける。廊下に顔を出して左右を見渡すと、丁度そこへ橘氏がやってきた。
「おはようございます、一之瀬様。昨日はだいぶお疲れだったようですね。夕食の時間に声をかけたのですが、お返事がなかったのでドアを開けさせていただきましたが……よくお眠りになっていましたのでそのまま下がりました」
「おはようございます。昨日の夕方から今まで、眠りこけていたようです。なんとも、お恥ずかしい……」
「長旅のせいでしょう。朝食の用意が出来ておりますので、ご案内いたします」
そう言う橘氏の後に着いて行くと、一階の奥にある小さな食堂のような部屋に通され、そこで温かい朝食にありつくことができた。ここに来ればお茶も軽食も、いつでも用意してくれると言う。
奥の台所に数人の女性が立ち働いているのが見える。調理専門の女中だろう。給仕に出てくるのはまた別の女中で、皆一様に地味な色の着物の上に白いエプロンを掛けている。西洋の文化が少しづつ生活の中に浸透してはいるが、これまで当たり前のように続けてきた習慣や文化はそう簡単には変わらないのだろう。動きやすい洋装より着慣れた和服を選ぶ気持ちは、解らなくもない。
食事を終えて珈琲を啜っていると、橘氏が声をかけてきた。
「本日、若様が学校から戻られましたら、早速ご講義をお願いしたいのですが、よろしいでしょうか」
「もちろんです」
「教材は用意しておりますので、後ほどお部屋にお届けいたします。ご覧いただいて何か不足があればお申し付けください。私は日中、昨日最初にお通しした応接間の横にある、詰所におりますので」
「ありがとうございます。承知いたしました」
早々に部屋に戻り、汗臭い洋服を脱いで長着と袴に着替えるとようやく気が楽になった。やはり和装の方が落ち着く。
廊下に出てすぐのところにある洗面所に顔を洗いに行き戻ってくると、部屋の前に見たことのない男性が立っていた。
「何か御用ですか?」
問いかけると、両手で何かを抱えた男性がこちらを振り返った。
「橘様の言いつけで、若様の英語の教材をお届けに参りました」
「それは、ありがとうございます」
数冊の本とノートを受け取り部屋に入ろうとすると、それから……と声をかけられた。
「洗濯物がありましたらお預かりしてくるように、と言われております」
「え──?」
一瞬言葉を失ってしまった。僕が汗だくで、汚れた服を着替えることがわかっていたのだろうか。有難い心配りだが、なんだか全てを見透かされているようで少し怖いくらいだ。しかし、確かに洗濯は必要だ。遠慮なく脱いだ背広とシャツを渡すと、男性はそれを抱えていそいそと立ち去っていった。
書斎机に向かって届けられた教材に目を通し、大まかな講義の内容を考えると、他に必要と思われる物を書き出して詰所へと向かった。何度か曲がり角を間違え、廊下を行きつ戻りつしながら何とか辿り着くと、ノックをして返事を待った。
「どうぞ」
その声にそっとドアを開けて中へ入ると、大きな机の向こうで帳面に視線を落としていた橘氏が顔を上げた。
「ああ、一之瀬様。教材はお手元に届きましたか?」
「はい。ありがとうございました。それと……洗濯物の件も、お気遣い感謝いたします」
「洗濯係がおりますので、仕上がりましたらお部屋へ届けさせます。なにかお困りのことがありましたら、遠慮せず仰ってください」
「はい。あの……早速ですが、若様の講義にもう少し簡単な内容の児童書が欲しいのですが……」
そう言って持ってきた書き付けを手渡す。目を落としてそれを見た橘氏が、微笑んで答えた。
「児童書でしたら、書庫にあるはずです。旦那様がイギリスでお求めになった大量の書物を納めてある建物があるのですが、その中に絵本もあったと記憶しております」
「それは有難い。挿絵がある方が理解しやすいですから」
「ではご案内いたしましょう。書き付けにある他の備品は手配しておきますので、しばらくお待ちください」
橘氏は机の引き出しを開け中から鍵を一つ取り出すと、僕の前に立って部屋を出ていく。後をついて行くと、玄関を出て庭を横切り、和館をぐるりと回り込んだ。
裏庭のような場所に出ると、そこには白い板壁の平屋建ての洋風の建物が建っていた。
「こちらが書庫でございます。他にほとんど利用する者もおりませんので、鍵はお預けいたします。どうぞご自由にお使いください」
僕に向かって差し出された手から鍵を受け取ると、橘氏は元来た道を戻っていった。それを見送って、手渡された鍵を鍵穴に差し込みカチャリと回すと、ノブを握ってゆっくりと奥へと押した。錆びついた蝶番が大仰な音を立て、開いた入り口からは埃っぽい空気が溢れ出してくる。
このドアは相当長いこと開けられていなかったようだ。間口の上部から木片のようなものがパラパラと落ちてきて、頭の上に降りかかった。
それを払いながら中へ入っていくと、壁一面に書棚がずらりと並んでいるのが目に入った。少し薄暗いので灯りを付けようとスイッチへ手を伸ばしたが、カチカチと音がするだけで点灯しない。おそらく電球が切れているのだろう。仕方なく窓から入る薄灯りだけで児童書の棚を探し出し、挿絵が描かれた幼児向けの絵本を数冊見つけて脇に抱えた。
天井近くまで設えられた書棚には、他にも様々な分野の本がぎっしりと詰まっており、興味深い。文芸書の他にも、医学の本や建築に関する資料、西洋料理の手順書まで、あらゆる洋書が揃えられている。
「後でゆっくり拝見するとしよう」
間もなく正誠様が学校からお戻りになる時間だ。講義の準備を整えておかなくては。外へ出てドアに鍵をかけ、母屋へと戻りながら手に持った絵本についた埃を払う。いよいよ仕事始めだ。結果を残さなければ職も住処も失いかねない。
気合いを込めてよし、と小さく声を出すと、和館の脇を回って前庭へ出た。
その時、僕の背後でカタリと物音が聞こえた気がした。
足を止めて振り向いた先には、和館の壁に小さな明かり取りの窓があったが、ピタリと閉まっていて人がいる気配は感じられない。
気のせいかと踵を返して、足早に洋館の玄関へ向かい始めると、車寄せに人力車が一台入ってくるのが見えた。
正誠様のお帰りだ──
◇
初めての講義を無事に終え自室に戻ると、すでに陽は沈み部屋の中には青い夕闇が満ちていた。
書斎机の上のスタンドライトを点けて椅子に腰掛け、一つ息を吐く。ライトに照らされた手元には、先程まで講義で使っていたイギリスの童話の絵本が置かれていて、表紙に描かれた可愛らしい熊の瞳がこちらを見ている。
正誠様はとても素直で飲み込みが早い。英語が堪能な父君が教えていたのだろうか。簡単な単語は一度教えればすらすらと発音し、意味をしっかりと理解している。絵本を卒業するのはそう先のことではないだろう。
もう少し難しい本を幾つか見繕っておいたほうがいいかもしれない。それに、昼間見た山のような洋書をゆっくりと物色したいという、己の欲求が湧いているのも確かだった。
夕食の後にでも、あの書庫へ行ってみよう。
そう思いながら、指定された夕食の時間を待って部屋を出ると、階下の食堂へと向かった。