二 棡原家
僕を雇ってくれた棡原家は、東京府麻布区に広大な屋敷を構える由緒正しい公家華族の名家である。当主の棡原実誠氏はイギリスへの留学経験があり、西洋の進んだ文化を積極的に取り入れようとしている人物だった。
四月も終わりに近づいたこの日、東京に着いてすぐ屋敷を訪ねると、橘 千尋と名乗る若い男性の使用人が僕を出迎えてくれた。家の表を取り仕切るという彼は、白いスタンドカラーのシャツに灰色のズボン、黒いベストという洋装で、キビキビとしたその動きには一切の無駄がない。更に僕の名前も年齢も、出身地すら全て頭に入っていて会話に淀みがなく、柔和な笑顔を浮かべた目元には緻密さと思慮深さが滲み出ているようだった。
彼の後について敷地内を案内してもらうと、そのあまりの広さに僕は唖然としてしまった。
「伯爵ご一家の主な生活の場は、こちらの洋館でございます」
そう言って橘氏が右手で指したのは、白亜の壁が青空に映える二階建ての洋館だった。正面に繊細な装飾の施されたペディメントが据えられた、スレート葺の萌葱色の屋根、張り出した車寄せ部には石造りの円柱が立ち並び堂々とした佇まいを見せている。無数に並んだ窓は部屋数の多さを示しており、奥行きもかなりありそうだ。
江戸の頃には大名家の下屋敷として利用されていた広大な土地には、この洋館と、直角に延びる渡り廊下で繋がった和館が立ち並んでいた。こちらは賓客をもてなすための建物だという。それらを取り囲むように広々とした芝生の庭が広がり、庭の奥のほうには大きな池があるらしい。芝生の向こうに、滴るような木々の緑を反射した水面がきらきらと輝いているのが見える。
洋館の玄関に入ると、まず目に入ったのは優美なアーチを描いた垂れ壁を支える4本の木柱だ。その柱の向こうにある重厚感のある扉を開けた場所、応接間のような部屋に僕は通された。真紅の絨毯の敷かれた部屋には、豪華な細工が美しい猫足のテーブルと落ち着いた深緑色のビロード張りのソファが置かれている。
「こちらで少しお待ちください。当主の棡原実誠様を呼んで参ります」
橘氏が部屋を出て行った後、ぐるりと首を回して部屋中を食い入るように眺めた。天井から下がる光り輝くシャンデリア、大きく取られた窓には西洋唐草のどっしりとしたカーテンが掛けられ、均整のとれたドレープが何層にも重なっている。反対側の壁には大理石のマントルピースがあり、その上には大きな鏡が設えてあった。
この部屋だけでも目が眩みそうだ。贅を尽くした華族の屋敷に圧倒されていると、軽いノックの音がしてドアが開いた。
「お待たせして申し訳ありません。遠くからわざわざお越しいただいて、感謝いたします」
そう言って握手の手を差し出したのは、短めの口髭を蓄えた端正な顔立ちの紳士だった。立ち上がって正対した僕の背筋に僅かに緊張が走る。何も言わずとも、圧倒されるような風格にこの紳士が当主棡原実誠氏であると直感する。
「一之瀬馨と申します。海軍兵学校の門脇先生の紹介で参りました。よろしくお願いいたします」
「棡原家二十三代当主、棡原実誠です。門脇君とはイギリス留学時代からの付き合いでしてね。優秀な生徒さんだったとお伺いしています。お身体を壊されて兵学校をお辞めになったと……」
言いながら座るよう促されて、ソファに腰を下ろす。
「昨今流行っているスペイン風邪に罹ったのです。幸い命は助かったのですが、肺に後遺症が残ってしまいまして。少し走っただけで呼吸困難になってしまう身体では軍人は務まりません」
「それはお辛かったでしょう。どうか無理はなさらず、体調が優れない時は遠慮なく休んでください」
「はい、ありがとうございます」
思ったよりも厳格な人では無さそうだ。少しだけ緊張が解けて、無意識に力が入っていた拳を緩める。汗ばんだ掌を膝の上で広げたところで、再びドアをノックする音が聞こえた。
実誠氏のどうぞ、という声に続いて橘氏がドアを開けて入ってくる。その後ろには小さな男の子が一人、心許なさそうな顔をして付き従っていた。
「若様が学校から戻られましたので、お連れしました」
若様──
「ちょうどよかった。正誠、こちらへ来なさい。今日からお世話になる家庭教師の先生だ。きちんとご挨拶しなさい」
まさちか、と呼ばれた少年がそろりと前に進み出ると、上目遣いに僕を見上げてから頭を下げた。
「棡原正誠と申します。何卒よろしくお願い申し上げます」
行儀良く挨拶をする少年に、僕も頭を下げて挨拶を返しながら微笑むと、ようやく少しだけはにかんだ笑顔を見せた。詰襟の制服を纏った毬栗頭の正誠様は、小さな右手を差し出して握手をする仕草がまだあどけない、小柄な少年だった。
「正誠は学習院初等科の一年生で、数えで七つになります。今はまだ奥で母親や女中達と暮らしておりますが、そろそろ表で橘くんらと共に生活しながら家長としての役目を覚えていってもらわなければなりません。これからは西洋人との交流も益々増えていく時代です。そのためにも、一之瀬先生のお力添えを賜りたいと考えているのです」
不安げな視線を投げかけながら父君の話を聞く若様は、その小さな身体に棡原家という大きな責任を背負っているのだ。僕などには計り知れない重圧を感じているに違いない。
「正誠様、私には余計な気遣いは無用です。まずはお互いに気心の知れた友人になることを目標にいたしましょう。そのほうが学業も身につきやすいと思いますから」
そう言うと嬉しそうに顔を綻ばせて、子供らしく元気にはいと返事をする姿が可愛らしい。念の為、実誠様の様子を伺うと、満足そうに笑顔を浮かべているのでほっと胸を撫で下ろす。使用人がご子息の友人に、などと言ってご立腹なのではと内心冷や汗をかいていたのだ。
ひとまず挨拶を済ませ、橘氏に連れられて応接間を出て部屋へと案内される。廊下も階段も真紅の絨毯が敷き詰められ、長い廊下には幾つものドアが並んでいる。幾度か角を曲がり階段を登ってもまた同じような廊下が続いていて、もはや自分が屋敷の中のどこにいるのかわからなくなりそうだ。
「こちらが一之瀬様のお部屋でございます」
二階のとある扉の前で立ち止まった橘氏がノブに手を掛け、奥へ向かって押し開いた。中へと進むと、正面に大きな窓がある明るくて広々とした洋間が現れた。
観音開きの格子窓からは、先ほど外で見た芝生の庭と大きな池が見える。その向こうには背の高い木々が立ち並び、外の街並みは全く伺えない。まるでここだけが隔絶された森の中に存在しているようだ。一体どれだけ広い敷地なのだろうか。
部屋の中には書斎机と洋服箪笥、それからベッドが置かれ、枕元には小さなテーブルに真鍮製の電燈が乗っている。白い硝子の傘には鮮やかな薔薇の花が描かれていて、所々に金があしらわれた贅沢な品だ。この部屋の調度品も、どれも上質で品の良いものばかり。こんな部屋に自分が住まうことになろうとは、夢にも思っていなかった。
無言で部屋を見回していると、橘氏に声をかけられて思わず目を瞬たいてしまった。
「この廊下を奥へ進むと突き当たりに扉があるのですが、その先は奥になりますので立ち入らぬようにお願いいたします。夜には鍵をかけますが、昼間は使用人が出入りすることもありますので、常時施錠されている訳ではございません。間違えてお入りにならないようお気をつけください」
そう言い置いて、橘氏は部屋を出て行った。
表と奥──
武家に代々受け継がれてきた『家のカタチ』として一般的なその形式は、公家華族にも似たような様式が存在しているらしい。
表、すなわち対外的な対応を担う部分。家の資産を管理、運用する場所。
奥、女性や幼い子供達の生活の場であり、家族の私的な空間。
基本的に、奥に家長以外の男性が立ち入ってはならない。男子も七歳を過ぎる頃には生活の場を表に移すことが多いようだ。身の回りの世話も、男性の使用人や家庭教師が担うようになる。幼いうちから、そうやって家の運営を学んでいくのだ。
庶民の暮らしとは全く異なる華族社会という世界で、僕は本当にやっていけるのだろうか──
不安を抱きながら、壁にかけられた鏡に映る自分の姿をじっと見つめた。兵学校を辞めて以来伸ばしっぱなしの髪が、なんとも不精に見えて情けない。
手に下げていた旅行鞄を床に広げてポマードを取り出し、掌に少し押し出した。両手を擦り合わせてから前髪に指を通し、後ろへと撫で付ける。短い後毛が多少前へ垂れているが、先ほどより少しはましだろうか。長旅でくたびれたシャツと背広は他に替えがないので仕方がない。兵学校時代に貰っていた僅かな手当を貯めていた金で、やっと一揃えを手に入れたものだ。他には長着と袴が三着ずつ。下着も最低限の数しかない。
給料をもらったら、少しずつ買い足していかなくては……
窓の外を眺めると、傾きかけた春の日差しが木々の葉を黄檗色に染めて、風に揺れるたびキラキラと照り輝いている。さざなみの立つ池の水面も同じように光を放ちながら、白い雲と木々の緑を映して佇んでいた。
黄昏の庭は、そこだけゆっくりと時が流れているように穏やかだ。
静かな室内には自分の息遣いしか聞こえない。ベッドに腰掛けた途端、張り詰めていた緊張が緩んだのか、急に抗えない程の睡魔に襲われた。上着を脱いで放り投げ身体を横たえると、僕はそのまま深い眠りへと落ちていったのだった。