一 一之瀬馨の独白
愛媛県の宇和島で生まれ育った僕の幼少期は、残念ながら親との縁が薄かったと言わざるを得ないだろう。
父の家は元は広島藩の士族だった。維新後に海軍草創期の幹部となっていた祖父の長男として生まれた父は、日清戦争で功を成し男爵を叙爵した海軍将校である。そして母はその妾であった。宇和島の貧しい漁師の家に生まれた母は、生活費を得るために父の家に奉公に行き、十六の時に当時三十五だった父に見初められて手が付いたのが始まりだったという。
正妻との間にすでに十五になる男子がいたために、僕は世継ぎとして引き取られることもなく、幼い頃は母親の実家のある宇和島で母と祖父母の四人で暮らしていた。
歳の離れた妾と幼い息子が余程可愛かったのだろう。父は生活費の面倒を見、母の元にも足繁く通っていた。その度に舶来の菓子やブリキのおもちゃ等、息子への手土産を欠かさなかったそうだが、まだ三つ四つの幼子だった僕は、父の顔すらはっきりとは覚えていない。
けれどただ一つ、鮮明に残っている記憶がある。正月も明けてすぐの寒さの厳しいある日、紺色の軍服を着て腰に帯刀した父が目の前に立っていた。その大きな背中を見上げていると、振り向いた父が僕を抱き上げ、そして「これからはお前が母を守るのだ」というようなことを言って頭を撫でられたのだ。
後から知った事だが、それは父が日露戦争に出兵する前日のことであった。生きて帰れる保証のない戦に行く前に、母と息子に別れを告げに来てくれていたのだ。
翌年の初夏、日本軍の勇姿を報道する記事が連日新聞各紙に掲載されていた。
その日、新聞を握りしめた島の駐在が家の土間に勢いよく飛び込んできて、しわくちゃになった新聞を母に手渡した。障子の陰に隠れて顔だけ出していた僕は、記事を読むなり土間にへたり込んでわんわんと泣き出した母に驚いて、すぐ側にいた祖母に思わず抱きついた。祖母は子供にも分かる言い回しで、父の戦死を知らせる記事が載っているのだと……もう父には会えないのだと教えてくれた。
バルチック艦隊との日本海海戦での『名誉の死』と称賛されたその記事は、小さいながらも母の心を壊すには十分な威力を持っていた。
正式な夫婦ではなかったけれど、母にとっては文字通り身も心も捧げた最愛の男の死が、彼女の精神に与えた打撃は相当深いものだったに違いない。
しばらくすると母は、毎日のように砂浜へ出かけては海を見ながら涙に暮れるようになった。日に日に痩せ細り、髪は乱れたまま直そうともせず、甘えたい盛りの息子が伸ばした手に触れようともしなくなった。
そんな日がひと月も続いた頃。ついに限界を迎えてしまった母は、糸がぷつりと切れた凧のように突然家を飛び出したかと思うと、追い縋る間もなく断崖から白波の立つ岩場に身を投げ、自らの命を絶ってしまった。
その頃の記憶は曖昧で、まるで夢を見ていたかのように判然としない部分が多い。ただ、父の最後の言いつけを守れなかったという思いは、いつの頃からかずっと心の隅に澱のように蟠り続けていて、時折、どうしようもない焦燥感と絶望が湧き上がってきては、届くことのない贖罪の言葉を唱え続けるしかできないのだった。
その後は祖父母に育てられ、尋常小学校を卒業した後、中学校へは父親の親族に頭を下げて借金をし通わせてもらった。そして、朧げに脳裏に残る父の背中を追うように軍人への道を志し、江田島の海軍兵学校へと進んだのだ。
元々さして体格の良いほうではなく体力には些か不安があったものの、語学の才に恵まれ英語の成績は上位だった。
しかし、一号生徒(最上学年)への進級を控えた年の一月に流行り病を患い、重篤な肺炎を併発した僕の身体には、完治することのない後遺症が残ってしまったのだ。
この時、軍人への道は永久に閉ざされてしまった。
泣く泣く兵学校を退学し寮を追い出された僕は、しばらくの間何もする気になれず、江田島に住む友人の家に居候をさせてもらっていた。すでに地元の祖父母は他界していたし、父方の家をこれ以上頼るわけにもいかない。
借金の返済のためにも、何とかして金を稼がねばと職と住処を探し始めた矢先、兵学校で唯一成績の良かった英語の教師が住み込みの仕事を紹介してくれた。それは、東京にある伯爵家で、子息に英語を教えるといういわば家庭教師の職だった。
本来ならば英国出身のネイティブスピーカーが、西洋のテーブルマナーや社交場での作法などと共に指導するものなのだが、なかなか適任者が見つからず困っていたという。
海軍士官は、平時は外交官の任も請け負っていたため、海軍兵学校では外国語のほかテーブルマナーの講義も行われていた。そこで僕に白羽の矢が立ったという訳だが、マナーの講義は一号生徒にならないと受けられない。一号に上がる前に中退してしまった僕では役不足だと伝えたけれど、こちらとしても喉から手が出るほどの好条件であったことは間違いなく、英語だけでも良いからと請われて引き受けたのだった。
かくして、早々に荷物をまとめて本土へと渡る船に飛び乗った瞬間から、僕の運命は大きく舵を切り始めたのである。